真田有未 ④ 時間は巻き戻せないから今できることを全力で頑張る



駅へと向かう道をオレと真田は並んで歩き始めた。

つやつやと輝く真田の黒髪ポニテが、オレの顔のすぐ横で弾むように揺れている。

オレたちは同じ中学出身だが、実は通学経路は違う。

真田はバスを使っているのだ。


うちの高校のバス利用者のうち半分程度が乗り降りしているのが、駅の少し手前にあるロータリーだ。真田が使うバスもロータリーが始発だそうだ。

学校近くのバス停に停まる経路もいくつかあるようだが、真田が使えるルートは駅が始発のそれだけで、本数はあまり多くないようだった。

ロータリーまでの帰り道、オレはさっきからずっと気になっていたことを、ようやく口にして尋ねた。


「ところで、真田はなんで久保のことをそこまで気にかけているんだ?」


もちろん、久保に起こった事柄は、女子なら皆、我が身に置き換えて同情するに余りあるであろうことは男のオレからしても容易に想像できる。それにしても、こう言うと失礼かも知れないが、オレの目に2人が”親友”という程には映っていなかった。ましてや、オレにあんなに頼み込んでまで強引に話を進めるまでの仲には、とても思えなかった。

にもかかわらず、感情表現がどちらかと言うと平坦な真田から伝わってくる気持ちがいつになく熱くて、オレは驚いている。


「ああ、それは、」


真田が言いかけて、口をつぐんだ。

言おうとして、いいあぐねているようだった。


珍しい。

いつも、言葉にキレがあって、返球の速い真田が。

オレは黙って真田の言葉を待った。


真田の口が、金魚のように小さくくぷくぷと動く。

動くのに言葉が出てこない。

言葉を口の中でもてあましているかのようだ。


しばらくして、ようやく彼女の口から小さく浮き上がってきたのが、


「同じことが、私にもあったから」


そのひと言だった。





え、


真田、も、あった、?





オレは言葉の意味をすぐにはすくえなかった。

今、受け取ったばかりの言葉を頭の中で音として繰り返して発し、目で眺めてからようやく、その意味するところを把握した。


こういう時、身体能力の高い人間ならきっと、言葉を耳にするやいなや共感なり怒りなり何なり、きちんとした感情を即座に表明することができるに違いない。

それができないオレは、自分の反射神経の無さをいつも本当に恨めしく思う。


いくばくかの空白があって後、オレの口から出たのは真田からするとずいぶんと間抜けな言葉だったらしい。


「大丈夫か?」


そう言うと、真田が呆れ顔になった。


「大丈夫、って何、それ。

私の話は、久保さんみたいに最近じゃあないんだけど」


真田がふっ、と小さくため息をつく。

「やれやれ」とでも言いたげな顔をしている。

それでも気を取り直したように再び口を開いた。


「何で私がバス通か、って言うと。

高校に入ってまだ間もない頃、電車の中で、そういうことがあったからなんだ」


初めはやっぱり電車通学してたんだよ、私も。


そう言ってオレの目を覗き込む真田は、「知らなかったでしょう?」と言わんばかりの顔だ。


はい、知りませんでしたねそんなこと。

だって1年の時なんてオレたち同じクラスじゃなかったじゃないかよ。


そう言い返したくなるけれど、そこは黙って話の続きを待つ。


「あれは忘れもしない、1年生のゴールデンウィーク明け。

朝の電車の中で、ね」


そう言って、真田は顔を歪ませた。


「同じ中学出身の子は三崎と岡田だけで女子はいないし、高校の子とはまだそこまで親しくなってなかったし。で、ひとりで電車に乗らなきゃならない訳だけど、そんなことがあったら怖くて気持ち悪くて乗りたくなんかない。何なら学校だって行きたくない。ちょうど今の久保さんと同じ」


本当に、どうしていいか、分からなくて。


真田の歪んだ顔は、そう言って、そのまま遠くを見つめた。

真田の視線と同じ方へ、オレも目を向ける。

空の色が薄くなり始めていた。


「相談できるようなひとなんて入りたての学校にはいないから、結局、母親におっかなびっくり話をしたら、すごい怒られた。

『そういうことは早く言いなさい』って。


で、朝、母親が一緒に電車に乗ってくれて。その次の日にはバスも試しにって言って朝、一緒に乗って。乗り比べてから、『しばらくはバスを使ってみたら?』って勧められた。

バスなら早く出れば座って行けるし、帰りは始発だからやっぱり座って帰れるし、って。

私もその方が安心できるし、何より電車に乗りたくなかったから、すぐに定期を買い直してもらった。

それからずっと、バス通なんだ」


オレたちの住む町と桜山をつなぐバスはお世辞にも便が多いとは言えないらしいし、そもそも電車の方が時間がかからない。だから、なんで真田はバスを使っているのかと思ったことはあった。よっぽど家の近くにバス停があるのかな、くらいは考えたけれど、まさかそんな理由だったとは。


「あれから2年以上経ったし、一緒に乗ってくれる友だちもたくさんできた訳だし、部活の試合だなんだで乗らなきゃならないし、今では電車にも乗れる。ひとりでだって。


そういう意味では、大丈夫。もう心配は要らない。ありがとね。


でも、だからといって、あの出来事が忘れられるかと言えば、そんなことはない。

悔しかったこと、辛かったこと、恥ずかしかったこと、情けなかったこと……。

全部、全部、覚えてる。

同じことがまた起きたら、って思うと、今でも身体も心もすくむ。

だからこそ、おんなじ思いをしたばかりで苦しんでいる久保さんに、あの時の私がして欲しかったことをしてあげたいと思うんだ。少しでも楽になるように。


ただ、それだけ」



そう言って、真田はふっと薄く笑ってオレを見た。

オレは、黙って真田を見返した。

その目がずいぶんと遠く離れたところにいるように思えたから、オレは手を取って近くに引き寄せたくなった。



「今だったら、」


オレの口から言葉が勝手にこぼれ落ちる。

真田が、ん? とオレの顔を見る。


「今だったら、オレが朝、一緒に行くこともできたのに、な」


真田の目が一瞬で大きく見開かれた。


「……毎朝、自習室に通ってるから、時間、めっちゃ早いけど」


すぐにこう付け加えてしまったのは、言ってから急に照れ臭くなってしまったから。

それでも、オレの気持ちにウソはなかった。




今だったら。


でも、今、ではない。

たら、れば、なんて意味がない。



そう思ったオレに、


「ばーか」


真田が小さく呟いた。


「ばーか。ばーか、ばか三崎。2年以上、遅い」


「仕方ないだろ。知らなかったんだから」


わざと睨んで言い返す。


「だよね。知っていれば、言ってくれれば、できることってあるよね。

久保さんみたいに。

黙っていちゃあ、誰にも何にも伝わらないもんね。

それで『誰も助けてくれなかった』って言ったって、そりゃ当たり前だよね」


真田が早口で言うから、オレもつられて早口になる。


「だから、おまえ、ちゃんと親に言えて偉かったじゃん」


瞬間、真田がぐぐぐっ、と息を飲み込む音が聞こえた。

そうして、そのまま下を向いてしまった。



沈黙が流れる。



だから。

だからこういうのは苦手だって、さっきから言ってるじゃないか。

オレは内心、焦って、言葉を探す。

だんまり比べはオレには絶対に勝てないんだからさ。

勘弁してくれよ。

な、真田?




「まあさ、一緒に行くって言っても、それはあくまでもふつうの姿のオレであって。

いくら同じ中学出身の女子がいなかったからって言ったって、女装のオレじゃあないんだけどな」


こんな時、ついバカなことを口走ってしまうのは、だからオレが沈黙に弱すぎるからであって、誓って言うが、本当にそんなことを思っている訳では決してない。

決して、だ。




「ぶっ、ぶぁかー!!」


気が付けば今の今まで下を向いていたはずの真田が、泣き笑いみたいな顔をして吹き出しつつ、オレの肩をドンッと押していた。


「三崎ったら、いつからそんなコト真顔で言えるようになったんだー!」


聞いてないー、そんなことー!


いつもの鉄仮面がぽろりと外れ、ぐしゃぐしゃの顔が目の前に現れている。

肩を小突かれてぐらりと揺れた目に、真田のその顔がゆらゆらと揺れて見えて、オレの視界の端は、さながらメリーゴーランドのようだ。

ロータリーは、そういえば、メリーゴーランドに似ていなくもない。


メリーゴーランドが、

バスが、

回って回って回り続けると、その先には一体、何があるのだろう。





そんなことをちらりと思っているオレの視界の奥に、バスがこちらへ向かってゆっくりと近付いてくるのが見えた。

行き先表示は、オレたちが住む、見慣れた町の名前だった。





「じゃあ、また明日」

オレに言うなり駆け出して、そのバスに飛び乗った真田の後ろ姿は、背中がぴん、と伸びていた。

オレの目に、それはとても眩しく美しく映った。











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