井川静佳 ② 今年の指定校推薦は例年以上に激戦である




オレは今、たったひとりで深い深い絶望の淵に佇んでいる。

鉄緑色をした淵に堕ちるのを逃れるため、オレは3年3組の裁判長、もとい聖母マリア、もとい井川が自分の席に戻るのを待った。


井川の席は、オレの前なのだ。



男女取り違えコスプレが決まった興奮が未だ冷めやらぬ教室。

その中を井川は、氷上を滑るかのように優雅に、音も立てず、自席に戻ってきた。


「お疲れ」


オレの短い言葉に、井川はうっすらと笑みを浮かべた。


「三崎くんこそお疲れさま」


オレの心の中を見透かしたかのような井川の言葉にどきりとする。


「い、いや、おれなんて別に何もしてないけど」


「ふふ。だってどうせまた勉強してたんでしょう?」


ひょっこりとテキストを覗き込むと、


「『虫愛づる姫君』なんて読んでたの?」


一瞥いちべつしただけで内容をすぐに把握できるのは彼女くらいなものだろう。

文系教科だけに限って言えば、井川は学年ベスト3に必ず入ってくる才媛だ。

トータルでも10位前後はキープしている。

しかも、国語は古文、漢文、原文を問わず、ほぼトップを譲らない。

さすがのオレも国語に関しては井川の後塵こうじんを拝するばかりである。


「うん。この前、ちょっと変なところで出題されてたのを見つけたから復習してた」


「ふぅん。でも、面白いよね、これ」


短編だから読みやすいし、そもそも虫好きなお姫様って笑える、でも、私、虫は好きじゃないのよね。


井川の声を聞いているだけで、すさんでいた心がわずかだがほどけていくのが不思議だ。




井川は別に美人ではない。

もちろん不美人と言っている訳では決してない。好みにもよるが、十人並みの容姿だと思う。

すっきりした切れ長一重の目、細くて薄い眉、厚みはない割に意外に大きい唇。真っ黒なストレートヘアは肩より短いショートボブ。

いい意味で”日本人的”なルックスなんじゃないだろうか。

でも、そういうと失礼みたいだけれど、彼女の場合、顔がどうのというよりはその声や話し方、物腰などに隠しきれない知性がにじみ出ている気がして、オレはそこに好感を持っている。

何より彼女と話していると気持ちが穏やかになるんだ。

そんな同級生、オレは彼女しか知らない。

やはり彼女は聖母マリアなのであろうか?

なにやら救いを与えられている気分になりそうなところで、オレは思い出した。


「ところで井川」


「なぁに?」


あくまで穏やかな笑みを浮かべたまま、井川は首を傾げる。


「おまえ、自分の意見は決に入れてなかったけど、コスプレのこと、本当はどう思ってた?」


「ああ。コスプレ、ねぇ」


井川は目を細めると、じっとオレの顔を見つめた。

面映おもはゆくなるくらい、じっと、だ。


「三崎くんったら、似合いそう」


細めた目が、暗闇の中のネコの目みたいに光った気がする。


「どっちも似合いそうだけど、できればやっぱり女の子の格好が見たいかな」


答えになってない。


「正直、どっちだって構わない。皆がすすんで楽しくやってくれればそれで。

それに私はこのあと時間もできる予定だし。そうしたら何をやるにしても対応できる」


ああ、そういえば。

井川が指定校推薦を取ることは周知の事実だった。


「おまえ、推薦、どこに出したんだっけ?」


「早水大、一択。そこしか考えてませんでした。1年の時から狙ってましたから。

あそこに行ってブンガクやるんです、私」


急に、ヘンにふざけた早口になった。珍しい。

そのくせ目は眩しいくらいにきらきらと光り出している。


「知ってる? 三崎くん。

あそこの文学部、小説家とか評論家とか現役ばりばりのひとが何人も教えに来てるんだよ?

そういう人たちに実際に教えてもらえるって凄くない? 凄いよね?

だから、ずっと頑張ってきたんだ、私。早水に行きたくて」


えっ、と声を上げそうになった。

いつでもどこでも冷静沈着、声を荒げることもなければ、笑い崩れることもない。

どんなクラスの揉め事もアクシデントも慌てず的確にさばくため、生徒だけでなく先生からの信頼も厚い。

そんな井川と”頑張る”が、オレにはうまく結びつかなかったから。


「推薦取るのにそんなに頑張ってたの? オレ、井川を見てそんな風に思ったこと、今まで一度もなかったけど」


多分、オレは本当に驚いた声を出してたんだと思う。

井川は可笑しそうな、でもちょっとだけだけれど悲しそうにも見える顔をした。


「それ、よく言われる。いつも涼しい顔してる、って。

でも、そうでもないんだよ? 内心、焦ってヒヤヒヤしてる時も多いし。

本人的には『もう限界、無理』って思ってることもよくあるし。

かいてる汗が顔に出ないタイプなのかもしれないね。

でも、汗臭いひとだけが、頑張ってるって訳じゃあないでしょう」


分かるよね? 三崎くんなら。


そう言って、井川がオレの顔を覗き込んだ。




ああ。そうだ。本当に。

そういうのを誰よりも分かっているつもりでいた。


運動部的な熱血には、自分には向いていないこととしての憧れはある。

だから否定する気なんて全くないけれど、でも。

分かりやすく汗を流すだけが”一生懸命”な訳では決してないと、

汗を流してなくったって、例えば涼しそうな顔して実は必死で勉強してるのだって同じじゃないのかと、

汗を流している姿をひとに見てもらわなければ”一生懸命”と認めてもらえないなんてのは何かが違うと、

オレは教室の片隅で、いつもそう思っていた。


それなのに。





「ごめん」


ひと言、言って、オレは頭を下げた。


「やだ。ごめん、なんて言わないで。そんなつもりで言ったんじゃないのに。


今年は特に指定校推薦の人気が高いから、普段だったらあまり応募がない学校まで全部埋まりそうな勢いだ、って早くから先生が言ってた。

成績上位層でも不安が先立って、国公立志望だったのが急に私立指定校に変えてきたひともいる、って。

だから、余計、頑張らないと、ってずっと思ってきただけ。


それより三崎くん。

あなた、それこそ勉強に一生懸命な顔してるけど、実はそれ、ポーズだったりしない?」



息が詰まった。

心臓を掴まれたような気がした。


何気ない口調でさらりと付け加えられた井川のひと言。

それはオレにとって、思ってもみなかった言葉だったからだ。




「……そうかも知れない。ポーズかもしれない。井川がそう思うのなら。

もしかして、オレ、井川とは逆なのかな。


でも、これでも本気でやってるつもりなんだ。一生懸命だ。自分ではそう思ってる。


何がいけないんだろう。井川にそんな風に思われるなんて。

ああ、イヤだな。オレのはポーズだったなら。

まだまだ甘いのかなオレは」




衝撃が大きすぎて、つい、口が滑った。

相手が井川ということもあっただろう。

いつになく本音というか弱音というか、泣き言めいた言葉を漏らしてしまったら、井川が慌ててオレの言葉に被せてきた。


「ごめん。そういう意味じゃなくって。

三崎くんにはもっと余力があるように思えたんだ。

勉強以外のことに時間を割いても負担にならないどころか、かえってそれ以上のやる気が出てきて、今以上に効率よく勉強できるような感じ。


私、聞いたんだ。実は。この前の久保さんの一件」



「……ああ。

あれは別に余力うんぬんではなく、成り行きで、つい」


「にしても、三崎くんらしいと思った。

勉強しかしませんって顔しておきながら、そのくせさり気なく気を配ってくれてるっていうか。困ってるひとのこと見て見ぬ振りをしないっていうか。

とにかく、クラス委員としては、ありがたいです」


わざとおどけた口ぶりで井川が笑うから、オレもおどけて返すしかなくなるじゃないか。


「それ、買いかぶり過ぎ。そんなできた人間じゃないよオレは。

井川、知ってるくせに。ずるい。ずるいな。


それより、早水大の話。

やりたいことがそんなに明確にあるってほんと凄い。

オレなんかそんなしっかりとした目的意識があって勉強してる訳じゃないから、」


「え。三崎くんは、そういう目標みたいなのがはっきりとしてないのに、そこまで勉強に集中できてるの?


だったらそっちの方が私からするとよっぽど凄いけど」


珍しくわずかながらも驚いた顔を見せた井川に、オレも驚いた。


「そうかな? オレみたいなヤツの方が世の中、多いと思うけど」


「そうなの? そういうものなの?」


「大半の人間は皆、そうじゃないかなあ?

とりあえず少しでも偏差値の高い学校に行ければそれでいいや、って。

今年は特に、大学に足を運んで見比べることもろくにできなかったし。

全部の学校、きちんと受けられるかも分からなくて不安だし。

井川と違って、やりたいことも何もまだ全然分かっちゃいない人間の方が多いだろうから。そういうこと含めて全部、どこかに受かりさえすれば、大学に入ってからゆっくり考えればいいか、って棚上げして勉強してるだけで」


ああ、オレはやっぱりイヤなヤツだ。つまらないヤツだ。

言いながらどんどん気持ちが落ちていくのが自分でよく分かる。


ふぅん。

曖昧に頷いた井川に、オレはもう一度だけすがるような気持ちで尋ねた。


「それでさ。結局、コスプレって、井川はしたかった?」


井川は声もなく笑った。他人事みたいな顔をして。


「……どっちでも。

正確に言えば、自分の意見はこういう場合、不要だからと、あえて考えないようにしてきた」


ああ、そうか。

井川のその答えに妙に納得がいって、オレはそれ以上、尋ねる気が失せた。




一生懸命やることをやった上で、

どっちでもいい、と言える強さ。

どっちも選ばない、という選択。

白か黒か、ではなく、そのどちらでもない、柔らかな選択。

こと入試問題においてはあり得ない選択。


どっちでもいい、

オレもそう思えたらいいのに。


でも、そうは思えないオレがいる。

受験生だから、今は仕方がない、のか?


でも、受験生でなくなったら?

――今のオレにとって、井川の選択は、とても新鮮で目が開かれるようだった。



井川、ありがとう。

やっぱりおまえは、聖母マリアの如き存在、なのかもしれない。

少しだけだけれど、気持ちが落ちていくのに歯止めがかかった気がする。



だからと言って、取り違えコスプレを”どっちでもいい”なんて言う気には、

オレは死んでもなれないけれど。


そこだけは絶対に譲れない。

絶対、だ。







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