進路指導室にて 井川静佳



出ていったかと思うと、三木先生は小さな足音をひとつ余計に重ねて、すぐに戻ってきた。

井川が一緒だった。



戻るなり、立ったまま先生は話し始めた。




「三崎くん。

井川さんがね、あなたときちんと話をしたいと言っているのです。誰にも邪魔されず、二人だけで。

昨日、井川さんから話を聞いた私も、そうした方がいいかな、と思いました。


来週末は高校生活最後の文化祭です。

そんな時に、言葉が足りないがために、伝わりきれない気持ちやつまらない誤解、わだかまりが残ってしまったら、それはあまりに残念なことだと思うのです。

とはいえ、話せば必ず分かり合えるとは言いません。話しても理解し合えないことだってあります。だったらせめて、伝え合うその努力だけはしておいた方がいいかと思いまして、井川さんの要望に応えました」


って、何だよ、先生。

先生までオレのことだまし討ちかよ!


オレの心は黒く塗りつぶされそうになった(※)。

ただし、オレは先生ではないから、シャウトもヘドバンもしない。

ただほぞを噛むだけである。ち。



「先生、ありがとうございます。ここから先は、私が三崎くんに自分で説明しても構いませんか?」


「そうね、そうしてください。私は職員室に戻ります。話終わったら二人共そのまま帰っていいですからね? 何かあった時だけ、職員室まで来てください」


先生は長テーブルに置きっぱなしだった紙の束を抱えると、「では、お先に」とひと言残して部屋から出ていった。





井川がオレの前に黙って座った。

オレはどこを見ていいやら分からなくて困る。

困る。本当に、困る。

黒い心の逃げ場も失われる。


井川はそんなオレを見て、いつものように微笑んだ。


「三崎くん、これ」


そう言って、オレの前に分厚い紙の束を差し出した。


「これ。私が書いた台本と論文。

読んでほしいの」


ホッチキスで丁寧に綴じられたその紙束の一番上には

「『人権擁護団体・啓蒙活動コンクール』応募作品」

と書かれていた。その下に「作・井川静佳」とある。




これは。





オレが目だけで問うと、


「そう。前に三崎くんに言ったよね?

指定校推薦が決まったら、やりたいことがある、って。

これのこと」


説明したいことはたくさんあるのだけれど、まずは読んでもらえる?

話はその後で。



静かな、けれども決然とした井川の声に、オレは黙って頷いた。

机の上の紙の束。

オレはそいつにまっすぐ手を伸ばすと、すぐにめくって文字を追い始めた。




📖 📖 📖 📖 📖




記されていた文字量はかなりのものだったが、受験勉強で鍛え上げた自慢の長文読解のスピード。オレは駆け抜けるように目を通した。

ただ。

内容は。

駆け抜けることはできなかった。


立ち止まって、考えさせられた。

いい意味でも、不可解な意味でも。



いい意味としては、気付きがあった。男と女の明確な差だ。

それは、服を通した人の目。

男のオレは人前でも服を脱いで着替えられるし、汗も拭ける。中学時代、サッカーのユニフォームなんて、誰を気にすることもなくピッチの上で脱ぎ着していた。オレが『男のおとこのこ』と影で呼ばれるようなヤツだったにもかかわらず、だ。

どこで何、着てたって、気になった、気にした記憶なんて特にない。

これはオレがこの間、二度も女装をさせられたから、なおさら実感として強く思えることだった。



女装。

そう。例えば、あの、網タイツ。

あれを履く時、ひとりなのにとにかく恥ずかしくて、履いたあとはそれこそ人目がやけに気になったのはなぜだろう。

あれが男性向けではないから? 違うと思う。エロく見えるから? それだけじゃない、何かもっと別の理由がいくつも隠されているような気がする。

例えば、短い丈のスカート。

ズボンの時にはまるで気にならなかったパンツが、スカートを履くだけで別の何かに変わる。気にかかる。電車の中で倒れた時に『見えたら』と思っただけで焦ったのはなぜだろう。体操着に着替える時には気にしたこともないパンツと、それは全く同じものなのに。


では、人から見られると思っただけでも羞恥心を抱くパンツに、顔も知らない他人の手が伸びてきたとしたら?

パンツって何だろう? スカートって何だろう? ズボンって何だろう?(※2)

男って何だろう? 女って何だろう?

考えてみたこともなかったことが、女装して初めて浮かんだのは確かだ。

そして、この論文を読んで、そこにつながる何かを感じているのも事実だ。

オレがいくら『男の娘』と言われるようなナリに化けられたとしても、そこには大きな意識の違いが横たわってみえる。

オレはあくまで、女装がたまたま似合って見える、『男』、なのだ。





不可解な意味としては。


冒頭の部分はたしかに、オレだけに秘密にしていた昨日の台本のようだった。

しかし、その部分は、全体からするとごくわずか。

そこから先、この冊子の大部分は、もっと重量感のある論文だった。

さっきの気付きも、この部分を読んでのことだ。


どういう意味だ、これは?





📖 📖 📖 📖 📖




ぱたり。閉じて目を上げると、井川が読み始める前と寸分違わない顔をして目の前に座っていた。



「よく書けてると思う。特に論文。これを、その人権なんちゃらに応募する予定なんだろ?」


「そう。勢いだけの走り書きみたいなものだし、まだ時間もあるから、これからもっと手を入れるけど」


「だったら、この冒頭の台本、昨日のは要らなくないか?」


「うん。そうだよね、私もそう思う」


「だったら、なぜ?」


なぜ、書いた? なぜ、撮ろうとした?

クラスの宣伝にもならないあの動画を、オレたちを巻き込んでまでして、なぜ?

その言葉は出さずに、口の中にとどめた。






「現実を、動かしたかったから」






唐突な言葉に、オレの思考が止まる。


何だ、それ。





「私たちは今、皆、言葉として形作られる直前の気持ちを、心の中に曖昧なまま抱えているように、私には思えてた。

自分のものとして自覚できるまで、あと一歩、ってところまで来ている気持ち。


私たち皆、っていうのは、

久保さんも、川原さんも、真田さんも、木崎くんも、宮地くんも、──ああ、宮地くんはあなたにバレないように出演こっそりお願いしていたんだけれど──私も、

そして三崎くん、あなたも。


でも、その、あともう一歩が、なぜか出ない。出せない。

だから、何も変わらない、変えられない。


あともう少ししたら私たち、高校生じゃなくなる。同じ教室にはいられなくなる。

一緒にいられるのは、残り数ヶ月だけ。

それなのに、不確かで淡い、でも、たしかに今、存在する、この気持ちはどうなるんだろう。

このまま、教室に置き去りにされていくんだろうか。

形になる前に、消え失せてしまうんだろうか。

忘れ去られてしまうんだろうか。

失くしてしまうんだろうか。


そんなの、嫌だ。

そう思ったの。


何か、きっかけがあれば。

きっかけひとつあれば。

言葉があれば。

行動があれば。


みんなの抱えた気持ちの後押しをしたかった。

何かを変えたかった。

自分を変えたかった。


変えられると思った。



そう思って、あの台本を書いた。

あの台本で動画を撮るよう、皆にうまく話を持っていった。

起爆剤を作るマッドサイエンティスト気分で」


ふふふ。

いつもと変わらない笑みのはずが、やけに妖しく揺らいで見える。

あの時も、もしかしたらこんな顔で井川は笑っていたのかもしれない。

LHR、2人で話していた最後に「楽しみにしていてね?」と言った、あの時の笑顔。

オレが気付かなかっただけで。

いや、きっと、そうだ。



「で、何か変わったのかよ?」


たぶらかされないように、オレは井川から少しだけ視線を外した。


「うん。変わったよ、っていうか、分かった」


「分かった、って何が」


「私ね、三崎くんのこと、ずっと好きだったの」





突然過ぎる言葉が、オレの心を撃ち抜いた。

あまりのことに身じろぎもできない。





「でも、好きということだけは分かっていても、それが何を意味するのか──

友情なのか、恋愛なのか、それとももっと別の何かなのか──

自分でもまるで分からなかったの。

ひとのことは見ていればなんとなく分かるのにね」


「……ひとのことは分かる?」


「ほら、例えば、本人にはまだその自覚がなくっても、近くにいる人間の方が、ああ、このひと、あのひとが好きなんだろうな、って先に気付いたりすることがあるでしょう。あんな感じ」


「そんなこと分かったことなんてオレにはないけど」


「それは三崎くんが今までちゃんとひとのことを見ていなかっただけだと思う。きちんと見るようになれば気付くはず。ううん。きっともう、今なら分かってるんじゃないかしら」


井川の目がきゅううっと細くなる。



「で。結局、今回の件で分かったの。

私は三崎くんのことが好きだけれど、恋愛対象としては全く見ていないんだ、ってことが。

もし、そんな風に見ているのだとしたら、とてもあの動画は撮れないんだな、いや、そもそもあの台本からして書けないんだろうな、って気付かされた」



井川はそう言って、嬉しそうに笑った。



何だよ、恋愛対象じゃないって言いながらそんなに嬉しそうな顔するなよ。

オレはやけにカチンと来た。

と同時にホッとした。心の底から。


「私にとって三崎くんは、とても大切なひとだと思う。本当に。

だけれど、それは恋愛ではない。

では何かと問われたら、それはまだよく分からない。

でも、恋愛ではないとはっきり分かったから、今はそれで十分。次に進める。

これからは自信を持って三崎くんに接することができるし、恋愛を考えずに済む」


実は、恋愛、って、どうも苦手みたいな気がするのよ私。


そう言って、井川が困ったように眉根を寄せる。


「いいんじゃないか、苦手でも別に。何も恋愛しなきゃいけない訳じゃ無し」


「まあね。でも、ブンガクやるなら必要かと思って」


バカか。

必要だからと思って恋愛するヤツがどこにいるんだよ。


そう言ってやりたくなったが、そういうことに一番疎い自信があるオレが言うことでもなかろうと思って、思いとどまった。

そして、やっと腑に落ちた。

井川が自分のことを「そう見えなかったとしても、これでも一生懸命なんだ」と言っていた、その言葉が。

ああ、こいつ、涼しい顔して見えるけど、本人が言ってた通り、やっぱり必死なんだな、って。

要は、バカなんだ、オレと同じくらいこいつも。


そう思ったら、

気持ちがふっと緩んだ。何かのタガが外れるように。

外れたと同時に、何か訳の分からない熱くて重たいものが腹の底から突然、吹き上がってきて、







「おまえの話は分かった。

で、他の皆のことは、オレには正直、よく分からん。

おまえと違ってオレはひとのこと、ちゃんと見てないからな。

だけど。

オレのことは言わせてもらう。


いいか、はっきり言うぞ。





迷惑だ」





こんなことを言うつもりはこれっぽっちもなかった。

本当だ。

こんなこと思ってたつもりだって爪の垢ほどもなかった。

本当に。


でも、なぜか出てしまった。言葉が。

そして、止まらなくなってしまった。言葉が。





「オレが曖昧な気持ちを抱えているのは本当だ。

さすが井川、そんなことまでよく分かると感心していたよ。あのLHRの時から。

だけどな、オレはそれをわざとそのままにしていたんだ。

形にしたら引き返せなくなりそうで、それがイヤだったから。

今はその時じゃないと思ったから。

後回しにしたかったから。

それをおまえは、そんなオレの気も知らないで、どうしてそうしているかも考えないで、勝手にそういうことをする権利がどこにあるんだよ。人の気持ちを弄ぶようなことする権利がどこにあるんだよ。そんなことしてくれって誰も、少なくともオレは言ってない。なのに、なんで。

オレは今、そんなことを考えていたくなんてなかったし、形にもしたくなかった。

いいか、おまえのやったことは、少なくともオレにとっては、迷惑以外の何物でもないんだ」




こんな勢いでひとに話したことなど、オレの記憶になかった。

こんなことは言うべきじゃないと言いながら思っていた。

こんなことを言ったら井川を傷付けると言いながら思っていた。

恋愛ではないけれど、オレのことを好きだと言ってくれた、井川のことを。

とてもとても信頼していた、井川のことを。

それなのに、言葉がどうしても止められなかった。

止めたくても止められなかった。




オレの目に、井川の目が急に色を失くして見えた。


心が突然、しん、とした。


言葉が止まった。












気がつけばオレは進路指導室を飛び出していた。














※ Paint It Black(黒くぬれ!) The Rolling Stones/

全英、全米共にシングルチャート1位を記録したヒット曲。ヘビメタ、ハードロック系アーティストらによるカバーも数多い。

受験においては、早く黒く塗るためのマークシート用鉛筆、シャープペンシルが各メーカーから多種類販売されている。

共通テストではマークシート用に指定されているのは鉛筆で、硬度はH、F、HB。シャープペンシルは、機械が読み取れないことがあるからとの理由により、計算やメモに限ってその使用が認められている。


※2 パンツ/

スカートでしか痴漢に遭わないということでは全く無い。ズボンでも当然のようにある。痴漢に遭う男性がいることを思えば当然であろう。言い換えれば、何を着ているからダメ、これなら安全、などということは有り得ないのである。

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