だからそんなの解けやしない
満つる
久保かをり
久保かをり① 昼休みだって貴重な勉強時間だ
オレ、
赤い文字で「平和」。
横に並ぶカウンターの数字が、5からカウントダウンを始める。
ああ、急げ。思考を集中せよ。始まるぞ。
5、4、3、2、1、
GO……!
平和、
直近なら「ノーベル平和賞」今年は誰が候補に上がっていたか? ああ個人じゃなくて団体の可能性もあるな後で団体名までしっかり押さえておかねば オーソドックスなところでは広島「平和資料館」 少し先になるが冬だと「平和大通り イルミネーション」もあるか 今回はイルミネーションを中止にするところも多くなりそうだからその理由を推察して簡潔に書けるようにしておきたい 「平和でなければ成り立たない産業」といえば観光業だ 今年はそれを強く実感する年だった 「旅行は平和へのパスポート」と合わせて、使うにはタイムリーかと思う 変化球だとパチンコメーカーの「平和」があるが、さすがにこれは使いづらいか いやでも自粛要請の時にそれでもパチンコ屋に行く人たちが話題になっていたけど 後は、えーっと、えーっと、
ブーーーーー
終了を告げるブザーが脳内で鳴った。
ああ、30秒経過。早いな。
で、6、か?
うーん。手固いお題だった割には少ない気がする。
いかんな、頭の回りが今ひとつのようだ。
だって、なあ。
オレはあくびをしながら、大きく伸びをした。
そうでなくても眠気を誘う秋の昼休み、窓側後ろから2番目の席に座るオレの目には、うちのクラスの連中の姿が異世界並にかっ飛んで平和に見える。
今日もあり得ないくらい、平和だ。
平和過ぎる。
いいのか、こんなんで?
これでもオレら受験生だぞ??
高3の秋なんてもっと皆、ガチで勉強してなきゃヤバいんじゃないかと思う訳だ。
それこそ昼休みのこの時間だって無駄にしないで。
それなのにこのクラスときたら、ろくに問題集も参考書も広げてなんかいやしない。
オレ以外は。
小論文の題材に何度か使われたという評論集を弁当を食べながら読んでいたオレにかかれば、クラスの連中を見て抱いた”平和”という感想ですら、しぜんと勉強に結びついてしまう。
例えば、
平和、という言葉を聞いて、何を思うか――?
これが総合型選抜(旧AO入試)対策用小論文か何かのお題なら、この後に
「以下の評論を読み、これからあげる10の単語のうち5つ以上を用いて、あなたの考えを1200字以内にまとめなさい」
とか何とか続くんだろう。時間は20分程度か?
なんて即座に思っちまう訳だ。
ないしは。
今のクイ研(※)もどきな、単語からの連想ゲームをいきなりおっ始めちまう訳だ。
これはもうオレにとってはほとんど条件反射的なヤツだ。
だが、オレの眼前に広がる、我が3年3組の光景ときたら。
どうせまた午後の体育の後に飲むジュースでもかけているんだろう。
教室の一番前では教卓を使って、宮地と松川が腕相撲をやっている。それを何人かの男子が囲んで囃し立てている。
あいつらムダに体力が有り余っているとしかオレには思えない。
廊下側後ろ。メガネをかけた文化部男子が数人集まって、ニヤニヤしながら皆で何かを覗き込んでいる。あれは多分、木崎の席だ。
木崎の描いた二次創作イラストか何かを見ているのか、それともその手の元ネタをスマホででも検索しているのか。
どっちにしろ好き者集団だ。オレには何がそんなにいいのかよく分からんけど。
女子は女子であちこちで小グループを作り、スマホをいじりながらお菓子をつまんでいたりメイク用品の貸し借りをしていたりする。
二言目にはヤセたいっていつも言ってて弁当箱は幼稚園児並みにちっちゃいのを使ってるくせに、なんでアイツらお菓子はあんなに食べるんだか。
でも、そんなことうっかり口にしたら倍返しどころでは済まなくなるのもよく知っているから、女子にはアンタッチャブルが一番だ。
な?
とても高3受験生の秋とは思えないのどかさだろう?
あまりののどかさに再び浮かんできたあくびを噛み殺し、滲んだ涙を指の端で拭っていたら。
久保と目が合った。
今日も久保のセミロングの茶髪は頭の右上あたりでひとつに結かれて揺れている。
緩めたYシャツの首元には、だらしなくぶら下がったワイン色のリボン。
ピアスが片側の耳元にだけ一粒光って見える。
スマホを弄ぶ爪先には濃いピンクが施されていて、ここからでも目につく鮮やかさだ。
その上あの唇は、えーっと、その、何だ。何かの果物みたいな、ぷるぷるん、とした、キレイな色の何かを塗っているのか、いないのか。
ま、ともかく、見る気がなくてもつい目が行ってしまうのは、ギャルって外見がウチの学校では珍しいから、ってだけじゃないと思う。
そんな久保が、
アレ?
もしかして、泣いてる?
あくびの涙のせいで見間違えたかと、オレは瞬きをした。
そのわずかな隙に、久保はオレから視線を外し、ご丁寧にも体ごと向こう向きになっていた。
だから、
本当のところは分からない。
ただ。
気にはなった。
久保はその外見とは違って? それともその外見に違わずというべきか?
ともかく人懐っこくて気のいいフレンドリーなヤツだ。
今みたいにわざとらしく顔を隠すようなヤツじゃあないはずだ。
そもそも久保と一緒に机を囲んでいる3人とも、やけに神妙な顔をしているのも妙だ。
そう思って改めて見てみると、その一角だけクラス中に満ちている”平和”なニオイが感じられない。
でも、それ以上、久保と、その周りの様子について詮索する気にはならなかった。
だってそうだろ?
偶然、涙らしきものをちらりと見たくらいで何かできるというものでもないし。
何か不穏な気配を感じたからと言って、それを確かめるすべもない。
そもそも見間違いかもしれないんだ。
オレは視線を窓の外に移すと、もう一度、大きなあくびをしてから肩を回した。
そして今、見た気がしたものを、頭の中からいたって自然に追い出した。
秋の午後の日差しは、その後オレに何も思い出させないようにするのに十分過ぎるほど、心地よいものだった。
📖 📖 📖 📖 📖
放課後。
カバンを手に椅子から立ち上がったところで、またしても久保と目が合った。
ああ、そう言えば、と昼休みの久保の顔を思い出した。
今度は涙(のようなもの?)は彼女の顔に見当たらなかった。
当たり前か。
最後の6時間目はクソ面白くもない田中の現代文で、クラスの大半が寝るか内職をしているような授業だ。きっと久保は前者だったんだろう。
すっきりした顔をし……、
ってアレ? てない、な?
アレ? あれれ?
それどころか、なんだか怒ったようなムッとしたような顔でオレを見返してくる。
その勢いというか、顔の圧力に負けて、昼とは逆に今度はオレの方が目を逸らした。
なんか、ちょっとだけだけど、負けた感がある。悔しい。
負け惜しみみたいに視線を戻そうとする間もなく、オレの横を久保がすり抜ける。
すれ違いざま、短いスカートの裾がひらりと揺れた。
瞬間。
匂いが立ち昇った。ふわっと。
ギャル系の久保とは思えない、なんとも優しく柔らかい匂い。
どきりとして振り返る。
彼女の背中はオレの視線を貼り付けたまま、あっという間に廊下の突き当たりまで駆け抜けると、下に続く階段へと消えていった。
なんだかなあ。
なんだかなあ、としか言えない。
女子ってヤツは突然、こっちの隙を突いて不意打ちを食わせてくる時がある。
今の久保がまさにそれだった。
昼の涙? みたいなのもそうだったけど、今の。
圧をかけてこっちを見た挙げ句、いい匂いがする、って。
いや別に、久保がオレに向けていい匂いをさせてた訳じゃないのは分かってる。
分かってる、けど。
でも、なあ。
なんとも言いがたいもやもやした気分で、オレは久保が駆け下りていった階段をひとり下りた。
もちろん彼女の姿はとうにない。
あの反則みたいな匂いも消え失せている。
犬よろしく鼻をくんくんさせながら階段を下り、履き替えようと下駄箱から靴を取り出す、その勢いで、
うわ。バカだオレ。自分の下駄箱の中と靴の匂い、うっかり吸い込んじまった。
……クセぇ。
わざわざ臭いを嗅ぐなんてこと普段はしないから今まで気にならなかったけど、買ってから一度も洗った記憶のない靴はやっぱりクセぇな、おい。
顔をしかめながら上履きからスニーカーに履き替え、外に出た。
昇降口の外に出て、新鮮な空気を思いっきり吸い込み、胸の中の空気と入れ替えていると、なんだかこう、まとわりつくような気配を感じて、思わずむせそうになった。
ん?
んんん。
ごくりとつばを飲み込み、むせるのを回避しつつ、あたりを見回す。と、
体育館に続く横の通路脇に、ひっそりと立つ久保の姿があった。
その目はさっきと同じ、やけに挑戦的な目をしている。
向けられた視線の先は――オレ。
へ?
オレ?
なんで、オレ?
意味も分からず、オレは立ち尽くした。
そんなオレから久保は目を離さない。
久保の視線に捕獲されたオレは、さながら蛇に睨まれた蛙のようだった。
※クイ研/
クイズ研究会の略称。超難関進学校に多く見られるが、近年テレビ番組の影響か、立ち上げる学校が増えているらしい。
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