高鳴る鼓動

 「ええっと。わたし入部したいのですけれど」



 申し訳なさそうに告げるミツキに、朱莉あかりは我に返ったようで、え、と声を漏らした。朱莉は現状を呑み込めずに、しばらく瞬きを繰り返す。他の部員たちも一斉に、声を上げていた。まさか、ダンス部に現役のアイドルが入部することになるなんて、夢にも思わなかったのだろう。僕もここに来るまで、信じられなかったくらいだから。



「まじか。シュン、これはまじか」


「多分、まじでガチなやつ」


「えっと、花神楽はなかぐらさん、うちは部員三人だけど大丈夫? それに、指導者もいないから本当に下手なの。顧問の小野先生はダンス経験ないし」


「大丈夫です。あ、わたし花山充希と言います。よろしくお願いします」


「野々村朱莉です。こちらこそッ!! よろしくお願いしますッ!!!!!」


「朱莉、よろしく頼むよ。じゃあ、僕はこの辺……」



 踵を返し、退出しようとした僕のブレザーの袖を摘まむミツキは、俯きながら上目遣いをして僕に待って、と漏らす。さすがの上目遣い。かわいくて、かわいくて失神しそうだった。狙ってやっているなら、なんて恐ろしい魔術だ。一瞬で人を操る禁忌魔法に違いない。ケセラセラ。



「もう少しだけ、付き合ってもらえませんか?」



 横を見ると、面白くなさそうな顔をした朱莉が僕を睨んでいた。そして、朱莉は僕の肘を力強く掴んで、角の椅子に座らせる。ああ、これがいわゆる監禁ってやつなのか。逃げ出したいのに逃げることができない。朱莉はこの後、ダンスを見せつけて精神的に追い詰めて僕を発狂死させるに違いない。その名も、トラウマ電気椅子。ダンスを見るたびに頭の中に電気が流れて、瞳を閉じても光景が浮かんでしまう最悪にして最凶の拷問方法。僕は無実です。




 その後、着替えてストレッチを終えたミツキ含めた部員たちは、ひと呼吸を置いてから曲を流し始めた。ボーカロイドが歌うニューチューブでよく目にするキャッチ―なメロディが室内を包む。この曲に振り付けがあることは知っていたが、僕は当然見たことはない。曲はすごく好きだ。



「ものすごおおく、お見苦しいとは思うのですが、一応これを来週の桜まつりで披露するので、見てくださると……」



 本当に申し訳なさそうに朱莉が告げる。曲に合わせてフォーメーションが入れ替わるのだが、どうもぎこちない。三人のテンポは一見合っているように見えて、コンマ数秒ずれている個所も見受けられた。でも、必死に練習したことは十分伝わった。指先の動きまで精錬されていて、振り付けも完ぺきだった。だからこそ惜しい。



 久々に見るダンス——ど素人が真剣に取り組んだ練習風景が目に浮かぶ——に心を打たれた。確かに、人に見せるにはどうかと思うが、それでも僕は素直に応援したくなった。絶対さくら祭りは見に行くから。



 息を切らして座り込む部員たちに、僕とミツキは盛大に拍手を送った。この振り付けは難しい。パーツがところどころ振付師の癖が入っていて、リズムの裏拍で合わせる箇所もいくつかあるのだから、難儀して当然だ。



「この振り付けをここまで踊れるんだからすごいよ朱莉」


「……そうやって優しくするんだから、シュンは。自分たちでも分かってるよ。これじゃだめだって」


「そうでしょうか? わたしには、とても輝いて見えましたよ?」


「花山さんまで。本当に悔しい。もっと上手になりたい」



 朱莉は向上心が強い子だ。おそらく、イベントに出演すれば他の高校やダンススクールが遠征してくるに違いない。その時、必ず比べてしまうのだ。自分たちとどれくらい差があるのかを。点数が出ない分、どれくらい差がついているのか理解することも難しい。そうやって泥沼にはまっていく。これは、点数がつく大会に出ないダンサーにとっては死活問題だ。

 逆に言えば、そこまで問題が見えている子は上達も早い。大多数は自分たちの出番が終われば他人事のように他のチームのパーフォーマンスを見ているだけなのだから、朱莉の向上心はすごいと思う。



「朱莉、一つ訊いていいか?」


「な、なに?」


「練習をカウントでやっているか? ちゃんと口に出して」


「一応……でも、カウントもよく分からなくて、合わないの」



 俺とミツキは顔を見合わせた。カウントが取れなければ、いくら振り付けが上手にできたとしても合うはずがない。たまに自然と踊れてしまう天才がいるのだが、成長がそこまで止まりで、決してそれより先に行くことはない。リズムが分からなければ、当然ダンスなどできるはずもない。つまり、カウントとは楽器で言う音符と同義だと僕は思っている。



「じゃあ、カウントを取る練習からしたらどうでしょう?」



 ミツキの言葉に、部員たちは頷く。ミツキは優しく手ほどきするように、部員たちに曲のカウントを教えた。部員たちははじめて、ボーカロイドのこの曲のはじめの小節がカウントにしてみれば、一からではなく、四からはじまることを知ったみたいで、ミツキが来て本当に良かったと朱莉は言う。また表拍と裏拍があることを知ったという朱莉の言葉も、僕には衝撃的だった。




 「わたしも混ざっていいですか?」


 

 ミツキが訊ねると、部員たちは、えぇぇ、と合わせたように声を上げた。もう振り付けを覚えたのですか、とポニーテールの子が驚愕していたが、ミツキにしてみれば当然だと思う。振り付けを覚えることは、さほど難しいことではなく、ダンス脳に改造された僕やミツキであればすぐに覚えられる。ただし、完璧にとまではいかないとは思うが。やはり練習してきた人にかなうはずはないのだ。



 曲が流れた瞬間、ミツキの柔らかい表情が一瞬こちらを睨むように変わって、すぐに笑顔になった。スイッチが入ったように、動き、表情、気迫、すべてが一心不乱にミツキの周りの空気を一変させる。とてもダンス部員たちと同じダンスとは思えず、まるでミツキの上からスポットライトが当たっているかのように一人浮き出ていた。



 花山充希はなやまみつきの顔ではない。確実に花神楽美月はなかぐらみつきだ。



 部員は唖然としていた。ミツキのダンスを間近で見た朱莉は悔しそうに頭を抱えて座り込んでいた。他の部員二人は羨望せんぼうの眼差しをミツキに向けて、じっとしている。ミツキの周りの空気が張りつめていて、恐ろしいまでに愛おしく、強く、ボーカロイドの歌う切なさと儚さと、突き進む力を身体全体で表現していた。



 花神楽美月は死んでいない。まだこの大海原を悠々と泳いでいる。その目は常に獲物を捉えていて、輝いている。



 とんでもないキレッキレのダンスを披露したミツキは、少しも疲れた様子を見せずに僕の横に座る。踊っていたときの表情が嘘のように笑顔で僕に優しく微笑みかけた。それはまるで、地獄の真っただ中にいる僕に手を差し出す女神のように。ああ、やはり女神はいたのですね。こんなに近くにも。僕はあなたの顔を真っ直ぐに見ることができません。



「シュン君も少しだけやりませんか?」



 思わず口に出したであろう呼称が、朱莉にも届いていたようで、シュン君? と声を漏らすのが聞こえて来た。僕は聞こえなかった振りをして、ミツキに無理だよ、と返す。


 できるはずがない。できるはずがない。できるはず————。



「歩けるくらいの活動量の振り付けでも難しいのですか?」



「————正直、ダンスをしちゃうのが怖いんだ。できるかもしれないし、できないかもしれない。でも、しちゃったら、今まで抑えていたものが溢れちゃうかもしれないし」



 自分でも何を言っているのか分からなかった。医者には倒れた当初こそ、絶対運動はだめだと言われていた。しかし、最近は、運動はしないほうがいいけど、多少なら大丈夫かもしれない、とどっちつかずの意見を述べられて、僕はどうしたらいいのか悩んだ。多少がどれくらいなのか。学校まで歩くのは大丈夫なのだから、ダンスだって少しくらいなら、と思ったことは何度もある。



 だけど、もし本当にできなかったら? ダンスをしている最中に倒れてしまったら? あの時のように僕は息もできずに、苦しいまま気付くとベッドの上で人造人間のように管を張り巡らされて、生死を彷徨うの?



 希望を見出した直後に、やはりできなかった、という結果に陥れば、再び絶望を味わうことになる。きっと僕は再起不能になってしまう。僕はもう二度と部屋から出てこられなくなってしまう。せっかく、志桜里が僕を引っ張り出してくれたのに。



 僕は怖いんだ。絶望することが怖いんだ。本当はダンスがしたい。みんなと一緒にステージに立ちたい。汗を流したい。みんなと感動を分かち合いたい。ぶっ倒れるまで、朝まで踊りあかしたい————でも怖いんだ。



「じゃあ、無理しないくらいでやってみましょう」



 ミツキは僕の手を取って立ち上がらせると、壁際にちょこちょこと走り、スイッチを押して音楽を掛けた。振り付けはすでに覚えたが、僕の身体は恐怖でおののいている。冷たい汗が背中と脇腹を伝っていき、身体の細胞が拒絶を始める。脳は無理だ、と言い張って、僕の全身に電気を送っている。震えろ、と。恐怖に支配された身体は、力が入らず、今すぐにここを飛び出して、部屋に戻って鍵を掛けたい。だれか助けて。



「ストレッチしてないから、軽く、ね?」



 だが、右手の指先を伸ばした瞬間、身体は遠隔操作されているように自然と動き始めた。流れるような動作と、視線、足の指で地面を掴む感覚、そして心臓がリズムに乗る。呼吸は少しだけ乱れたけれど、腹筋あたりに酸素を送り込んでカバーする。忘れていた感覚が一気に身体の中の細胞を刺激する。



 朱莉、ポニーテールの子、ツインテールの子が、真顔で僕を見ていた。まるで息を吸うことを忘れてしまったように、微動だにしていない。その表情はまるで、目の前に天使、もしくは悪魔が降り立ったかのように動きを封じられてしまったようだ。



 結局、すべて踊り切ってしまった。息切れが激しく、僕は倒れこんだ。肩をぶつけてしまい、猛烈に痛いはずだったが、それも感じなかった。ただただ、やり切ったという爽快感が頭のてっぺんからつま先までを支配する。心臓も少しだけ喜んでいるように高鳴っていた。僕は踊れたのか。僕は勝ったのか。自分に打ち勝てたのか。良かった、死んでない。生きている。あの時のように、気を失ったりしていない。



 やればできるじゃないか。



「シュン君、大丈夫ですか?」



 ミツキが心配そうに僕の前髪を上げて、顔を覗き込んだ。まるで僕が戦地から命からがら帰還した兵士のようにミツキは僕に微笑みかけて、言葉には出さなかったけど、がんばったね、と瞳が言っていた。僕は泣きそうだった。ミツキに抱きついて、子供のように泣きたかった。ミツキは僕のことを子供のように見ているのだろうか。僕のことを、まるでできないだめなやつが、ようやくがんばったと、そう思っているのだろうか。どちらにしても、ミツキは僕に優しかった。



「シュン……ちょっとすごいんだけど。感動しちゃった」



 朱莉は泣いていた。なぜ泣いているのか、僕には理解できない。そんなに僕はすごいことをしていたわけではないのに。ただ、みんなと同じく少しだけ踊っただけで、なにもすごいことはしていない。自信がない弱気な人間が、ちょっと勇気を出しただけ。僕は、みんなと同じなのに。


 僕は高鳴る鼓動を抑えるのに必死だった。火照る身体の毛穴という毛穴から希望の雫があふれ出す。身体の真ん中あたりでくすぶっていた炎が僅かに着火したのを感じた。


 僕は、その後、ミツキに言われるがまま入部させられることとなった。

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