重なる肌と火照る身体 身を焦がすほど熱く震える夜に
潮が満ちると映し出される深い夏色は、海と空の境界線の向こうまでも続いていて、
僕の手を引いて微笑むミツキは、白いワンピースの長い裾をもう片方の手で持って、そのつま先は砂の中に消えていく。足の指の隙間が崩れていって、えぐり取られた浜辺に足跡が残された。
「海に来たの久しぶり」
ミツキはそう言って、風に舞う白い砂から顔を背ける。
夏休みに入ってからは毎日何もすることがなく、部屋で宿題をするか、客がいないフォトスタジオで一人、ストレッチと筋トレ、そしてダンスをする日々によほどストレスを抱えていたのだろう。海に行くことを提案した時のミツキの喜びようは、学校で過ごす無口でクールなミツキとは別の人間、別の人種、別の人格のようで、とても歓喜していた。
僕の家族は全員、今頃ハワイで休暇を楽しんでいる。僕とミツキも誘われたのだが、無論ミツキは断った。特に、ミツキは日本人の多いオアフ島では絶対に目立つだろう。それよりも、この茨城の田舎の海の方がよほど楽しめるはずだ。特にこの県北地域は人がまばらなのだから。
園部三和子は実のところ、この田舎リゾートの地に立つ歴史ある温泉旅館オーナーの一人娘なのである。紫陽花の森でのお礼に、といただいた宿泊券を消化しなければいけない義務が生じたために、家族がいないタイミングで使おうと密かに計画をしたのである。
「僕も、こんなに綺麗な海ははじめてかも」
「わたしは、一昨年以来かな」
波打ち際の天女のような少女は、反射する光を全身で受け止めていて、比喩などではなく白いワンピースとともに輝いていた。
「ねえ、シュン君。お部屋に温泉ついているんだよね?」
「うん。結構良い部屋用意してくれたみたい」
一緒に入ろっか。というミツキの言葉に僕は、思わずバスタオル一枚のミツキを想像してしまい、動けずに腰のあたりまで波を被ってしまった。いや、実際に同じ部屋に泊まるという事実を、旅館に着いてから知った時点で、僕はどぎまぎしていて正気を失いかけている。いつ発狂してミツキに食らい付いてもおかしくない。そう、僕はゾンビになりかけている。
砂浜から少し歩いて、坂を上る。切り立った崖の上に建つ温泉旅館は、よくミステリードラマの犯人が、罪を告白するシーンで使われるくらい景観が良かった。なんといっても、この温泉は海を一望できる露天風呂が売りであり、日の出を温泉に入りながら拝むことができる温泉宿ベスト一〇に入っているくらい有名であった。
旅館に戻りロビーで鍵を受け取って部屋に入ると、畳の部屋と、ベッドが二つ並んでいる洋室が隣り合わせになっていて、二人で使うにはあまりにも広すぎた。また、テラスには大きな桶にたっぷりと赤茶色のお湯が張られていて、やはり海を臨むことができる。
「すごいね~~~~!!」
「ほんとすごい!! 地元にこんな場所があったなんて!」
ミツキはテラスに出ると、両手を上げて伸びをしながら気持ちよさそうに瞳を閉じた。心地よい潮風が彼女の髪をなびいていき、僕はその後ろ姿がたまらなく可愛くて。思わず背中を抱き締める。後ろ髪が僕の頬を撫でると、ミツキは振り向いて瞳を再び閉じた。柔らかいミツキの唇を奪うと、僕の右肺と左肺の中心がたまらずに震える。君をもう少しだけ僕だけのものにさせて。アイドルに戻る前に。
「シュン君。温泉に入ってみたいの」
「うん。露天風呂にでもいく? それとも部屋の?」
「露天風呂に行ってみない?」
「うん。そうだね」
外廊下を渡って、離れになっている建物に入ると、そこでミツキとはお別れ。少しだけ寂しかった。だが、僕よりもミツキのほうが重症である。その表情はもはや今生の別れ。繋いでいた手を離す瞬間もミツキの指は僕の指先を求めていて、列車で戦地に向かう恋人の兵士を追いかける
「シュン君。なるべく早く戻るね。待っててね。先に帰らないで……」
「いや、そんな涙目で言う台詞なの? 大丈夫だよ。絶対にここで待っているから」
待ち合わせ場所は自販機が置いてあるちょっとしたカフェテラス。自販機にはコーヒー牛乳からアイスクリームまで揃っている、湯上りで瀕死の戦士のオアシスのような場所だ。なによりも、女子の帰還を待つ男子にとって、この場所は心の拠り所であろう。それもそのはず。このカフェテラスがなければ、数少ないマッサージチェアを
予想通り、僕の方が先に帰還してしまった。未だに任を解くことを許されないのだろうか、ミツキ一等兵が帰る気配もなく、ただ僕は彼女の無事を待つ。
きっと、
コーヒー牛乳を片手に、丸テーブルに座って廊下を行き交う人視線を注ぐ。
浴衣を着た美少女を、通り過ぎる人々が
恐らく、いや絶対にすっぴんなのだろうけど、確実に
「おいし~~。染みるね!」
「温泉のあとっていったら、コーヒー牛乳かフルーツ牛乳だよね!」
「明日の朝はフルーツ牛乳にしよう!」
朝日を見ながら入ることも計画のうちであるために、ミツキはスマホのアラームをこの旅館に着く前から五つもセットしていた。しかも朝四時から五分おきに。スヌーズという機能があることを知らないらしい。
渡り廊下を戻ると、エレベーターの前のにぎやかな空間に視線が行く。温泉旅館、特有のゲーセンだ。先ほどのミツキにもぬけの殻にされた彼氏と、それに業を煮やした彼女がクレーンゲームをしていた。ああ、まずい。ここは、見なかったことにして通り過ぎよう。だが、そうはいかないのが、うちの姫様だ。
「シュン君。ゲームセンターに行ってみたいの」
「言うと思った。温泉旅館といえばゲーセンだもんね」
きっと、ミツキはすっぴんだから、自分が花神楽美月だとは思われまい、なんて思っているに違いない。甘すぎる。すっぴんでもナチュラルメイクをしているような肌だし、エクステをしていない
クレーンゲームの中に閉じ込められた地方限定の猫キャラ。キャティちゃんを所望する姫のために二百円を投下する。持ち上がり、出口付近で墜落して脱出失敗。もう一回救出を試みると、キャティが縦穴に真っ逆さまに落ちていく。
「これ、シュン君からのはじめてのプレゼントだね」
「あ……。もっとマシなものをあげればよかった」
「え。可愛いからこれで良かったよ?」
「クレーンゲームの景品が初プレゼントとか。なんかごめん」
いいの、すごく嬉しいから、と言ってミツキは僕の右腕に自分の左腕を絡めてきてゲーセンの奥に進んでいく。右手で抱いたキャティちゃんも笑顔で良かった。ミツキの幸せそうな笑顔に、僕も思わず頬が
部屋に戻ると食事が準備されていて、海鮮を中心とした料理はとても一人では食べきれる量ではなかった。なぜ田舎はこうも料理の量が多いのか。蕎麦屋にしかり、この旅館にしかり。しかも、あん肝とか白子とか、内容もマニアックすぎる。
しかし、ミツキはお構いなしに珍味を味わって食レポのような感想を僕に伝えると、食べるように勧めてくる。以前、旅番組に出ていた花神楽美月の食する姿が、演技ではないことが明白になった。ちなみに、志桜里は不味いと生放送で口走ってから、食レポはさせてもらえなくなったらしい。
さて、問題の入眠について、だ。ベッドは二つある。ミツキはベッドに入ると部屋を暗くすることを拒んだ。夜が怖い、と。
それについて、僕はまだ聞いていない。なぜ夜が怖いのか。暗闇が怖いのではなく、夜が怖いとミツキは言う。だが、ミツキがなにかトラウマを抱えているのなら、あえてそれを掘り起こす必要もないし、『ミツキは夜が怖い』ということを理解していれば済む話なのだから、騒ぎ立てる必要もない。そう思いながら、電球を点けたままミツキの入ったベッドの隣のベッドに潜り込んだ。
「おやすみ。ミツキ」
「ちょっとぉ。シュン君っていじわる」
「え? 僕なんかした?」
「そうじゃなくて、このままじゃ眠れない」
「……なんで?」
ミツキはベッドから抜け出して、僕のベッドに忍び込んでくる。タオルケットの海を泳いで海面から顔を出すと、僕の鼻先五センチメートルの前で、愛らしい瞳を僕の視界にフェードインしてくる。ベッドサイドのスイッチを押して、電球の明かりを消すと、僕に抱き着いてきた。
「夜は怖いんでしょ。大丈夫なの?」
「シュン君が一緒に寝てくれるなら。多分」
しかし、ミツキは震えていた。まるで怯える子猫のように小刻みに震える姿は、僕にとってもいたたまれずに、ミツキを優しく抱きしめるほかなかった。そんなに怯えないで。なにがあったのか知らないけれど、僕が守ってあげるから。
「電気点けようか?」
だが、いつかのミツキのように、僕の腕の中でかぶりを振る。
ねえシュン君。いいよ。シュン君なら。シュン君ならわたしの全部あげてもいいの。少しだけ怖いけど、シュン君ならきっと大丈夫。だって、シュン君はきっと私の最初で最後の人だから。
重ねた唇が少しだけ震えていて、ミツキの潤んだ瞳が僕を求めている。僕の首筋に這わせたミツキの柔らかい感触が僕の理性を完全に脳内から消し去って、心臓から
あ。と声を漏らしたミツキは、たまらずに僕の唇を食べた。激しく、舌で味わう僕の舌をおいしそうに転がす。まるで飴玉を舐めるように。僕の手はまるで、僕とは別の人格を持ってしまったようにミツキの身体を探っていく。何を探しているのか、何を求めているのか。
白く柔らかい豊満な胸を優しく
————シュン君。わたしのこと好き?
好きに決まっている、と肺の底から湧き上がる熱い吐息とともに吐き出した台詞が、ミツキの身体をさらに折り曲げて、
僕の殻を抜け出した魂がミツキの魂に絡みついて、やがて一つになる。それは、愛を育むなどという簡単な言葉で済ませるほど単純な行為ではない。火照る身体を抱き締めて重なる体温と、何度乱暴に奪っても満たされない唇が、ミツキをさらに求める。
シュン君お願い。このままわたしを……。シュン君大好き。シュン君。止めないで。シュン君大好き。シュン君。
————シュン君。愛している。
◇◆◇
まだ怖いの?
そう訊いた僕の言葉に、少し考えて、ベッドから起き上がったミツキはバスタオルを身体に巻いて窓を開けた。月に照らされた美しい
怖いけど、シュン君と一緒なら平気。
再び僕の元に歩み寄るミツキは、僕の頬にキスをして、微笑みながら言う。
シュン君。これでもう結婚するしかないね、と。
————————
【お知らせ】
ミツキ視点の物語「一目惚れの憧れ男子の家に居候して相思相愛になった件。【染め上げてよ王子】」を公開しました。こちらは、ミツキの心情がよく分かるように書いております。もし、興味のある方がいましたらチェックしてみてください。
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