キスして
今日は母さんがいないのはともかく、姉さんも父さんも不在だった。姉さんは収録がどうしても伸びてしまい帰れない、と。父さんは仕事の打ち合わせでやはり、帰れそうにないとそれぞれからメッセージが入っていた。つまり、ミツキと二人きりということになる。
「夕飯は、仕方ないあれで行こう」
「あれ……ですか?」
呼び鈴がなって、玄関に
「東京にいたころは、食事どうしていたの? 実家?」
「お母さんは、三年前に亡くなって、お父さんも、再婚して……」
いきなり地雷を踏んでしまった。僕の足の裏にくっついた円形の丸い地雷は、僕が足を離すと大爆発する。僕の顔は引きつっている? 地雷原はまだまだ続きそうだ。
「ごめん。変なことを訊いちゃったね」
「あ、いえ。全然。もう大丈夫ですので。食事は、高梨さ……マネージャーさんとすることが多かったですね。あとは、楽屋のお弁当とか、外食とか」
ダイニングテーブルに座って食事をはじめると、ミツキは、今日はごめんなさい、と謝り始めた。何のことか分からない僕は思わず、言葉を探し始める。眉尻を下げたミツキは、世界崩壊後の大地に立った、美少女ミュータントの生き残りのような表情で僕を見つめている。ミツキが謝るようなことがなにかあったのか。僕が知らないだけ?
「なんのこと?」
「昨日、いろんな人に見られちゃったみたいで。本当にごめんなさい。もう、行かないほうがいいですよね」
寂しそうに空揚げをつつくミツキに、僕は立ち上がってかぶりを振った。絶対にそれは違う。悪いのは全部僕であって、ミツキは何も悪いことはしていない。
「違うって。全部僕のせいだから。ミツキちゃんはなにも悪くないよ。それに、僕だって楽しかったんだから。だから、ミツキちゃんが嫌じゃなければ、一緒にまた」
「でも、シュンくんの迷惑じゃないですか? わたし、すごく申し訳ないことしているなって思って」
「ぜっんぜんそんなことないから。むしろ、もう行けないってことになったら、僕はミツキちゃんを拉致するからね。誘拐して、フードコートでアイス目一杯、口に入れるからね」
ミツキは堪えることができずに笑い出した。良かった。笑顔を見ることができて。本当にかわいくて。僕の肺の奥底が熱を帯びて、吐き出す息で身を焦がすよう。身体は熱感を持っているのに、芯は冷たい。鼓動を不規則なリズムで奏でる旋律は、逆流していくような血流の先にある脳幹を刺激していく。僕が倒れたあの日と同じような感覚。
自分でも何を必死になっているのだろう、と思う。頭の中がミツキでいっぱいになっていく。白かった布が、ミツキの色に染まっていく。もう半分は染まったみたい。あと半分も、ゆっくりと侵食していって、やがてすべて染まるころには後悔してしまうのだろうか。
————なんで僕はミツキに恋をしてしまったのだろうって。
もしそうなったら、ミツキと出会ってしまったことにすら、自分自身で呪ってしまいそう。ミツキを知らなければ、こんなにつらい思いをしなくて済んだのに。
「本当ですか? お言葉に甘えちゃいますよ。わたし、シュン君しか頼れる人いなくて」
でも、それは裏を返せば、僕以外の誰かに頼れる人が現れれば、僕の元から飛び立つ小鳥のようにいなくなってしまうのだろう。きっと、その人は僕なんかよりもすごく頼りがいがあって、強くて、輝いていて、いつでもミツキの傍で守れるナイトのような存在なのかな。僕はそんなナイトにミツキという姫をかけて、挑んだとしてもコテンパンにやられてしまうのが想像できる。勝者にミツキ姫への求婚の権利を与える。姫、わたくしと結婚を。喜んで。
「うん。僕もミツキちゃんのこと……」
好きだ、と言ってしまいたい。まだ出会って数日。こんなに早く恋に落ちるなんて、きっとシュン君は目移りしやすい人なのですね。朱莉ちゃんもそうやって捨てて来たのでしょう。志桜里ちゃんもそうだったの。信じられない。もう近づかないで。あなたは一生部屋に閉じこもっていて。————大嫌い。
「わたしのこと?」
「ミツキちゃんのこと、ちゃんとエスコートさせていただきますよ。お姫様」
「王子、恐れ入ります」
ミツキの伸ばした手を軽く握って、その指先にキスをするフリをすると、案の定ミツキは噴出した。僕もつられて笑う。一体、なんの余興か、と。これが現実だったら、僕は騎士にでも魔法使いにでもなって、命がけで守るのに。ミツキがいれば何もいらない。
明日の志桜里と落ち合う時間と場所の確認をした。一〇時に駅前の郵便局前にタクシーで乗り付けることになっているらしい。当然の待ち合わせ方法だ。鳥山志桜里や花神楽美月がその辺で突っ立っていたら目立つだろうし、第一、スマホのレンズの集中砲火は間違いない。
なるべく目立たない店で会いたいと、当たり前の希望を出してきたミツキに、僕はある提案をした。その案は、少しだけ危険を伴うが確実に目立たないし、人目を気にせず話すことができる。
————朱莉の実家だ。
朱莉の実家はカフェを経営していて、この街で一番お洒落でおいしいと評判である。しかし、経営している朱莉の母はあまりやる気がない。他に職を持ちながらの傍ら、カフェを経営しているのだから、やる気がないというよりはやらなくても良い、が正解なのだろう。土曜日は基本的に休んでいる。人がたくさん来るから嫌だ、と聞いた。そこで、場所を貸してほしいと相談したところ、喜んで使っていいと言ってくれた。無論、朱莉には、あくまでもミツキの友達が遊びに来ると伝えているために、問題はない。それに朱莉は、明日は友達と出かけるために不在のはず。もう、この案しかない。
ミツキは、僕の案を快く承諾してくれた。まさか、朱莉の実家がカフェを経営していて、しかも貸し切り状態にしてくれるなんて、夢のようだ、と喜んだ。僕もミツキが喜んでくれてうれしい。
お風呂を済ましたミツキは、明日はよろしくね、おやすみ、と微笑んで、僕の寂しさに寄り添うように優しく告げる。鼻歌を歌うような機嫌を保ちながら離れに帰っていった。まるでミツキは、僕の伸ばした手からすり抜けていく蜘蛛の糸のように、僕は真っ逆さまに落ちていく。襲ってくる孤独が、どれほど自分を苦しめるのだろうと思うと——自分勝手ではあるが——ミツキを引き留めたかった。僕の足元には亡者もいないし、蜘蛛の糸も切れそうにもないのに、無慈悲に地獄に落とされる。お釈迦様、お願いですから、僕をミツキの元に。
ミツキが帰ったあと、僕もお風呂に入って、女々しく色々なことを考えていた。ミツキの残り香が僕の肺を満たすと、すでに脳内は再起動していて、それ以上なにも考えられなくなっていた。お風呂を出てからは、スマホでニューチューブでも見て、気を紛らわそうとダイニングテーブルに座っていたものの、もうすでに二三時を過ぎていることに気付く。一体、どれだけお風呂の海を漂っていたのだろうと、嘲笑せざるを得なかった。
ダイニングテーブルの上に何気なく置かれていたハンドタオルの下が、なにやら振動している。もしかして——とハンドタオルを退けると、ミツキのスマホがはやく気付いてよ、と言わんばかりに激しく震えていた。可愛らしいイチゴのドットが背面に描かれたケースは、ブツブツに拒絶反応を起こしてしまうトライポフォビアの僕にとって、あまり見ていて気持ちの良いものではなかった。
このまま置いておいても、問題はない——いや、もしかしたら、志桜里と連絡を取る必要性が出てくるかもしれない。スマホがないことに気付いたミツキは、きっと取りに来るだろう。そうなると、僕はいつまでも玄関の鍵を掛けることができない。それに、まだ肌寒い夜にわざわざここまで取りに来るのは、なんだか可哀そう。やはり、届けるべきか。
玄関のサンダルをつっかけて、僕は離れにゆっくりと歩いていき、引き戸越しに声を掛ける。
「ミツキちゃん、夜分にごめんね。スマホ忘れているみたいなんだけど、どうしよう?」
しばらくしても反応がなかった。やはり寝てしまったのだろうか。もし、そうだとしたら、明日の朝、早めに起きて届ければなんとかなるだろう。
だが、離れの引き戸が唐突に開く。電気も点けず、暗闇の中から現れたミツキは俯いていて、表情が見て取れない。言葉を発することもなく、ただ暗闇に佇む姿は僕の知っているミツキではなかった。鼻を啜る音が僅かに聞こえた気がした。——泣いているの?
「ミツキちゃん? どうしたの?」
ミツキは突然、僕のお腹に顔を埋めると、背中に手を回して抱きついてきた。彼女の柔らかい感触と、フローラルの香りなんてどうでもよくなるほど、僕は頭に血が上っていた。沸点に到達しそうな血液の源流が全身の筋肉を硬直させて、僕は何が起こったのかを理解できないまま天に召されそうになる。いや、精神体だけでいえば、確実に一秒程度はあの世に行っていただろう。
「シュン君。お願い。少しだけ……でいいから一緒にいて」
僕の胸に顔を埋めたミツキは、僕のスウェット越しに声帯を震わせていた。かすれた声は、まるで水を求める砂漠の漂流者のようで、僕の中の水分を奪っていく。あまりの緊張に唾液すら枯れてしまった僕の口腔は、脳内から迷い込んできた言葉を呑み込んでしまう。あの強いミツキにいったい、なにがあったというのだ。
「ミツキちゃん、もしかして泣いているの?」
小刻みに震えるミツキは、心が折れたいつしかの僕のようだった。
ミツキは強くなんかない。弱いのだ。そうじゃなくて、強い人間なんか存在しない。みんな弱いのだ。他人からすれば強く見えるだけで、強い人間なんていない。みんな絶望や失望を全身に浴びて、恐怖や不安におののき、見るに
「怖いの。夜が怖い」
「わかった。こっちにおいで」
僕はミツキの手を引いて、
リビングに移動しても、僕に密着をしたまま離れようとはしないミツキをソファに座らせて、僕も隣に腰かける。未だしゃくりあげるミツキの肩を抱いて引き寄せると、ミツキは僕の腰を抱いたまま膝に頭を乗せた。ひどく弱り切ったサバンナの迷子の小象のように、行く当てもない大地を彷徨うミツキは、きっと
恐る恐るミツキの髪に触れた。人差し指と中指で震えながら。一度より二度。二度より三度。髪を
「シュン君。気持ちいい。もっと」
敬語ではないミツキの言葉が新鮮だった。もしかしてこれが素の花山充希なのだろうか。ミツキは僕のなんなのか。僕はミツキのなんなのか。お互いの距離がよく分からない。ミツキは僕のことをどう思っているの。
「ねえ、ミツキちゃん。僕でいいの?」
ミツキは、そうだよね、と言って僕の身体から離れて髪を直し、目の周りを手のひらで拭いて唇を噛んだ。鼻を一回だけ啜ると立ち上がり、深々と頭を下げる。
「本当にごめんなさい。シュン君に甘えてしまいました。シュン君の気持ちも全然考えていなくて。わたし何をしてるんだろう」
再度、ごめんなさい、と言って部屋から出て行こうとするミツキの腕を握り、僕は待って、と引き留めた。
今度は絶対に離さない。僕だって孤独が辛い。“あの日”が怖い。ミツキが溺れる失意の海とはまた別のところで喘いでいる僕には、ミツキの闇を知ることは到底できない。でも、漆黒の中で門戸を叩く音は聞こえる。必死に叫んでいる声は届いている。
僕も辛いよ。でも、現状のミツキに比べれば、僕なんて恵まれている方だ。まだまだミツキを守ることくらいできるだろう。
だから、行くな。一人で悲しむ夜は今日で終わりにしよう。
「行かないで。君を一人にしない。君が良ければ、僕ともう少し一緒にいて」
ミツキの体温を感じていたい。自分の中の欲望とは別のところの願望。何も望まないから、ただ僕の傍にいて欲しい。ミツキを守るふりをして、僕はなんて
「シュン君」
ミツキは振り返って僕の首の後ろに手を回した。そのまま。しばらくそのまま、ミツキと僕は抱き合っていた。
「お願い。もう少しだけ……こうしていたいの」
「ここは安全だから、絶対に大丈夫だから。一人にしないから、だから……」
「シュン君。なんで夜は暗いんだろうね。こんなに怖いなんて、知らなかったの」
「電気点けようか?」
ミツキはゆっくりとかぶりを振って、再び僕の腰に手を回すと強く抱きしめる。鼻を啜る音が止んだかと思うと、しばらく沈黙した。そして、ゆっくりと顔を上げて呟く。
「シュン君お願い。キスして……」
「ごめん。それはできないよ。僕は————ミツキちゃんのことを」
「いいの。分かってる。でも、なんでだろう。シュン君と一緒にいるとつい甘えちゃうね」
ソファで肩を寄せ合って、いつの間にか寝てしまった僕とミツキには、一枚の毛布が掛けられていた。姉さんはなにも言わずに、朝起きると朝飯を作ってくれていて、なにごともなかったように笑顔で接してくれる。キッチンで姉さんの隣に立ち、再び僕のところに戻ってきたミツキは、僕の知っているいつものミツキだった。
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【お知らせ】
ミツキ視点の物語「一目惚れの憧れ男子の家に居候して相思相愛になった件。【染め上げてよ王子】」を公開しました。こちらは、ミツキの心情がよく分かるように書いております。もし、興味のある方がいましたらチェックしてみてください。
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