朱莉の決意

 朝から朱莉あかりに絡まれた。それはいつものことだけど、今朝は少し違っていた。重い足を引きずるように歩く僕の右腕に絡みつくと、朱莉は開口一番に告げる。



「……シュン。彼女できたんだって。おめでと」



 力なくうな垂れる朱莉は、僕の腕をまるで編み上げたマフラーの毛糸を解くようにすり抜けて、坂を駆けあがっていく。僕に彼女なんていたのか。ああ、そうか。昨日のミツキとイオンに行ったことが公然の噂になっているということなのだろう。



「あかりぃぃぃぃぃ。待って」



 珍しく僕が叫んだことにより、一斉に登校していた生徒の注目の的になってしまった。こんな時に走れないのがきつい。朱莉は振り向いてこちらを窺うと、叫ぶ。



「もうばかぁぁぁぁぁぁぁ」



 なぜののしられなくてはいけないのか分からなかった。僕は馬鹿なのか。それは確かに間違いはないのだけれど、朱莉にとって僕が何か悪いことをしたのだろうか。もしそうだとしたら謝らなくてはいけないけど、心当たりがない。それでも、朱莉には弁解をしたい。ダンス部の活動だってあるのだし。面倒極まりない。



「一回戻ってきて」



 腕組みをして仁王立ちする朱莉は、風神か、雷神か、いや仁王像か。鬼の形相で僕を見つめる朱莉もやはり、酒か米を奉納ほうのうして鎮めるしかないのか。いや、生娘でも生贄に捧げようか。御鎮おしずまり下さい、荒神さま。



「なんですか? リア充どの」


「なにを怒っているの? 僕に彼女なんていないんだけど」



 そもそも僕の回答だっておかしいのだ。もし、僕に彼女がいたとしても、怒られることは理にかなっていない。僕は朱莉のなんなのだ。彼氏? 所有物? 奴隷? 



「昨日、超絶美人と買い物していたって専らの噂ですよ。この浮気者!」


「う、浮気者って、僕はそもそも誰とも付き合っていないのに。それはないじゃん」


「うるさいばか、変態。意気地なし。人に気も知らないで。もう知らないッ!!」



 まるでひと昔前のののしり方だな、と呆れかえるが、そんな僕をよそに朱莉は踵を返して走っていく。その背中を見ながら僕は立ち止まった。坂を上る生徒の視線が痛い。きっと、今日の噂はこうだ。


 倉美月春夜くらみつきしゅんやに彼女ができた。倉美月春夜の嫁、大激怒。朱莉と春夜の大バトル。の三本立てでお送りします。チャンネルはそのまま。



 

 昼休みになると、新之助まで僕を罵る。本格サッポロの味という一風変わったカップ麺を片手に呆れ顔で僕にちくりと刺す。



「春夜はさ、リア充すぎ。朱莉かその彼女にするか、どっちか選ばないと刺されるぞ」



 しかしながら、僕は朱莉の彼女でもないし、告白されたわけでもない。それなら朱莉という選択肢はないのではないだろうか。すでに朱莉が僕の彼女みたいな扱われ方は、僕にとって不公平だ。そもそも誰とも付き合っていないのに、なぜそんなことを言われなくてはいけないのか。おかしい。絶対におかしい。



「だから、誰とも付き合ってないし」


「はいはい。そうやって、幅広く味見をしていくのですね。リア充どの」



 背後から現れた学園一のアイドルの声に、新之助の顔が引きつった。なぜこの場所に現れたのですか。荒神さま。昼休みのこの場所は、僕と新之助の聖なる空間。まさに秘密基地のような隠れ家なのに。とはいえ、最近は、一つ席を飛ばしてミツキが座っていて、きっと僕たちの会話も筒抜けだろうけど。



「どうしたの朱莉。昼休みなんかに珍しいじゃん」


「お、お前ら、ここで喧嘩するのだけはやめろよな。これはフリじゃないぞ。真面目に、喧嘩するなら外にいけよ」



 何を恐れているのか。新之助は、飲み干してしまった汁も残っていないカップを片手に、右手の割りばしで僕と朱莉を交互に指す。俺に近寄るな、と言わんばかりに新選組に囲まれた刀を振り回す維新の志士のよう。討ち入りじゃ!



「……朝はごめんね。それだけ。じゃあね」


「は? なにそれ?」


「だから、ごめんねって。あたしが悪かったって言ってるでしょ!!!」


「べ、別に。そんな謝ることでも」



 朱莉は言葉だけを自分勝手に置き去りにして、走り去っていった。あまりの様相に、それまで喧騒であふれかえっていた教室が静まり返る。突然台風が島を訪れて、一瞬で暴風域が過ぎ去ったあとのように、教室はまた元の雰囲気を取り戻していく。台風の目は、僕のことなど関係なく、教室の空気を荒らすだけ荒らしてどこにいったのやら。今日も窓の外は快晴です。




 重い足取りで多目的室のドアを開けると、ミツキはすでに着替え終わっていて、ストレッチをしていた。ポニーテールの子——三國雫みくにしずくと、ツインテールの子——赤坂美瑠久あかさかみるくも着替えが終わり、ストレッチをしようかと床に座って脚を伸ばし始めている。やはり、朱莉の姿が見えない。今日はこないのかもしれない。少しだけ、ちくりと胸が痛かった。



「朱莉はやっぱり来な——」



 僕が言いかけたときに、扉が開いた。不敵な笑みを浮かべて朱莉が登場する。朝から昼までの行動が嘘のように。どこかで吹っ切れたのか。それともあきらめの境地に至り、僕を道連れにしようと地獄から這い出て来たのか。とにかく、自信満々で僕を見下ろすのはやめて。



「あたし、決めたの。倉美月春夜の彼女になるために、絶対にがんばるから。今まで自分の気持ちしか考えていなかった。でも気付いたの。それじゃだめだって。きっと、シュンを振り向かせるから。だから、覚悟していてよね!」


「あ、ああ。は? はぁぁぁぁぁぁ!?」



 三國雫も赤坂美瑠久も、呆気に取られて口を開いたままストレッチで倒した身体を起こそうとしなかった。まるで彫刻の森に佇む、なにかの彫像のように。芸術とは奥深い。


 ミツキは、少し引き気味で朱莉を見ていたが、意を決したような表情で朱莉の前に立って、深く息を吸った。その様子に朱莉は眉を潜めて見ている。何やら不穏な空気が流れているのを感じた僕と彫像二人は、立ち上がって少しずつ後ずさりをする。そう、ゆっくりと、まるで目の前に現れた猛獣から目を逸らさずゆっくりと逃げるように。ハンターを呼べ!



「朱莉さん。ごめんなさい。昨日の彼女っていうのはわたしなんです!! まだ引っ越してきたばかりで、右も左も分からないから、倉美月くんにお願いして案内してもらっていただけなんです!!!」



 深く頭を下げるミツキに、朱莉は慌てふためいた。まさか、彼女だと思っていた当の本人がこんなところにいるとは露知らず。しかも、親切心で引き受けてもらったのよ、と言わんばかりのミツキも鬼気迫るものがあった。謝っているのに、圧倒するというのはすごい。まさに演技派。主演のドラマも好調だったわけだ。



「あ、えっと。花山さんがそういうなら……うん。ごめんなさい」



「……すごい気まずいんだけど」



 しかし、僕の言葉は羽を生やしてどこかに飛んで行ってしまったようで、誰の耳にも入らなかったようだ。戻ってこい言霊。




 カウントの練習と、一から振り付けの確認とフォーメーションの確認、それに軽い筋トレをして今日の部活は終わった。ミツキの指導は目を見張るものがあり、こんな充実した部活ははじめて、と朱莉を含む部員が漏らしていた。




 もう夕方五時を過ぎているのに、まだ陽が落ちないところを見ると、夏が少しずつ近づいていることに気付く。

 忘れもしない昨年の初夏。紫陽花が咲き始めた街角。志桜里が珍しくポカリを奢ってくれた日。僕が倒れた雨がざあざあ降りの夜。あれから一年も経つのか。転校してきてまだ一年も経たないのか。坂を下りながら思いにふけった。


 僕がそんなことを考えていると、ミツキと朱莉は、明日の話に花を咲かせていた。明日は憂鬱ゆううつな土曜日。決戦の日。朱莉は友達と映画鑑賞に行くらしい。もちろんイオンだ。明日は絶対にイオンには近づかないでおこう。出会ってしまったら最後。骨すら残らない。



「花山さんは友達と会うんだね。いいよね。久々に会う友達って、すごく、わくわくしちゃう」


「朱莉ちゃんも、そういう友達がいるのですか?」


「うん。中学の時の友達で、県立に行っちゃったから。たまに会うとやっぱり楽しいよね」



 じゃあね、と朱莉と別れて、僕とミツキ二人きり。会話をしたいのに、何を話していいのか分からない。ミツキは何が好きなの。ハマっていることとかあるの。休みは何して過ごしているの。……好きな人は……いるの。

 心の中で、叩けば弾んで飛んでいくバスケットボールのように、僕のシュートは決まることはない。当たり前だ。ボールすら投げていない。意気地なしだ。



 この二人きりの時間が意外と貴重なことに気付いたのは、昨晩のことだった。同じ敷地に住んでいるのだから、気兼ねなく会えると思っていた。だが、そうはいかない。家族の目もあるし、第一、僕はミツキの彼氏でもないのに、何の考えもなく部屋に行ったり、招き入れたりできるはずがない。同じ敷地に住んでいるだけで、家は別なのだから、距離が近いというだけで他の生徒と何も変わりがない。しいて言うならば、朝ご飯と夕ご飯を一緒に食べるくらい。それでも、アイドルと同じ空間で食事を共にするのだから貴重な時間ではないのか、と言われればそうなのだが。



「ねえ、シュンくん。明日の打ち合わせしたいのですが、今晩、部屋に行ってもいいですか?」


「あ、うん。もちろん」



 しかし、状況は急展開を迎えたようだ。だが、それも明日のことを考えると素直に喜べない自分がいる。志桜里とミツキから放たれるミサイルをいかに迎撃するか。ミサイル回避できません。メーデーメーデー。


 志桜里しおりにすれば、僕とミツキの距離がこんなに近いことを知らないし、ミツキからすれば、僕と志桜里が幼馴染だという事実を知らない。それに対してのミツキの反応は未知数なのだ。志桜里にはすごく悪いが、僕はミツキと今の関係を保ちたいと思っている。


 しかし、すでにどうやっても隠し通せるはずがないから、正直に打ち明けようと思う。それしか残された道がないのだ。

 昨晩、あまり眠れない傾眠のような睡眠状態のなかで夢を見た。パステルのような淡い夢の中でミツキは泣いていた。志桜里は失望していた。僕はただ何も言わずそれを見ていた。僕は二人とも好きなのかもしれない。最低だ。

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