初デート【後編】

 女子高生と別れて、僕たちはドラッグストアを目指して歩き始めた。僕は言葉を忘れてしまったのか、はたまたどこかに置いてきてしまったのか。腹のどこかで言葉たちは右往左往していて、出口を見失ってしまったのかもしれない。そんな僕に気付いたのか、ミツキは僕の手を取って優しく握る。僕は、え、と言葉の欠片が口から逃げていった。



「シュン君、だまっちゃってどうしたのですか? もしかして、さっきの子のこと考えているのですか?」


「いや、いろいろと頭の中がぐちゃぐちゃで。ごめん。それよりも——これ?」



 繋いだ手をミツキに見せて問う。なぜ手を繋いだのか。僕の手は滲んだ汗でとてもじゃないけれど握れるような清潔感はないはずなのに。ミツキは何を考えているの。なぜ手を握ったの。



「わたしがまだ小さい頃、嫌なことがあると、お母さんがいつも手を握ってくれました。こうやって、なにも言わずに。わたしは、それが嬉しくて。言葉がなくても、人は励ませるんだって、その時思ったのです」


「ごめん。僕、もう少し強くならなくちゃ。怖いんだ。すごく怖い。僕のことをすごいとか、できる子って思わないで欲しいのに、みんな僕に期待していて。僕はできないのに」


「それでいいんじゃないですか? 人のことを理解するのは難しいけれど、シュン君は自分のこと一番理解していますよ。怖いのも、期待に沿えない、と思っているのも、すべてシュン君なのですから。誰かのために強くなったり、期待に沿うために努力をしたりすることは間違ってはいないと思います。けれど、もう少し自分に正直に生きてもいいのではないでしょうか。弱くたって、みんなの期待通りにならなくたって、シュン君はシュン君なのですから。わたしは、目の前にいるシュン君を応援しています。結果がどうなっても、シュン君を応援し続けます」


「それって、弱いままでも大丈夫ってこと?」


「はい。過去は過去ですよ。人は誰でも弱いのですから。ゼロから始めれば、弱くたってそのうち強くなりますし」


「……ミツキちゃ……ん。ありがとう」



 泣くわけにはいかない。こんなところで泣き喚いていたら、僕はもっともっと嫌われてしまうかもしれない。


 この一年、僕はずっと腹の中に黒いヘドロのようなものを抱えてきて、毎日毎日溜まっていくのが分かった。志桜里しおりに救ってもらった人生なのに、ずっと過去を引きずって。あの頃はよかった、とか、もっとやりたかった、とか。地に堕ちたダンサーは、帰宅部。諦める前にすでに試合終了。


 それが、今、一気に溢れている。気付くとぼろぼろと涙が零れていた。泣くわけにはいかないのに。ミツキに嫌われてしまうかもしれない。なんで止まらないんだ。誰か……。


 ミツキは僕にハンカチを渡すと、無言で手をつないだまま歩いてくれた。俯く僕の方を見ることもなく、ただ僅かに指先に力を込めて。柔らかい感触は一生忘れられないと思う。こんなに優しく、僕のすべてを包み込んでくれるように手を握られたら、僕はきっと、ミツキを好きになってしまう。だめだ。それだけは絶対に。だめだ。




 ドラッグストアに着いた僕たちは、ようやく手を離した。僕は店舗の前で、ここで待っているね、と告げてベンチに座り込む。スリープ状態のスマホに映る自分の顔は泣きはらしていて、とてもじゃないけれど誰にも見せられない——ミツキ以外。知り合いばったり会えば、大惨事だと思う。

 スマホを確認すると、志桜里からメッセージが入っていた。このタイミングで志桜里を思い出すのはつらい。



 今週末って、暇? 会いたいんだけど。そっちで。



「は?」


 僕は思わず仰け反りながら、声を上げてしまった。すぐに周囲を見回して、誰にも見られていないことを確認する。当然、ミツキもまだ店舗の中だ。そっちってどっちのことを言っているのか。当然、ここを指しているはず。いや、僕は東京でしか活動しないことにしているのに、なぜ、こんな田舎に来たがるのだろう。すぐに返信をする。



 無理だよ。こっちは田舎なんだから、目立つし。それにマネージャーさん一緒なんでしょ?



 すぐに返信が返ってくる。まるで僕のメッセージを待っていたかのように、既読が一秒もかからずにつくところを見ると、移動中なのかもしれない。



 ごめん、もう向かっているの。シュンの家の近くでロケがあって、月曜までそっちにいるから。高梨さんは今回、うまく撒くから平気。土曜日あけておいて。



 なんて勝手な奴だ。まあ、それが志桜里なのだけれども。

 それにしても、これは危機的状況である。万が一、ミツキが僕と同じ敷地内に住んでいることがバレてしまえば、大変なことになる。ミツキと志桜里は親友らしいが、そこに亀裂が入ってしまうのは間違いない。別に僕と志桜里は付き合っているわけではないのだが、志桜里はアイドルを引退したら僕と結婚すると言い張っている”痛い人“なのだ。僕の意思は完全に無視。絶対にバレたらただではすまない。それに、こっちで会うということは、知り合いに遭う可能性がきわめて高い。志桜里はミツキと違って変装などしない。バレたら引退してめでたしめでたし、などと公言している”痛い人“だ。人の迷惑を顧みない。ああ、本当に困った。



 急すぎる。土曜日は予定があるかもしれない。



 しかし、既読がつくことはなかった。なんて勝手な奴。やはり移動中で貴重な睡眠時間に入ったのだろう。言いたいことだけを言って、勝手に戦線離脱する脱走兵だ。敵前逃亡もいいところ。軍事裁判だったら、とっくに懲役刑だ。ああ、腹が立つ。



「怖い顔してどうしたのですか?」



 買い物を終えたミツキは、怨念を背中から滲みだす僕に少し引いたのだろうか。それもそうだ。泣いていたと思っていた弱虫野郎が、今度は誰かを呪おうとしているのだから、ドン引きもいいところ。まして、それがミツキの親友の志桜里なのだから、本人が知ったらなんと言うのだろう。怖すぎて、想像もしたくない。



「あ、いや。うん、大丈夫。荷物持つよ」



 ミツキの抱えている袋を両手に持って、僕は思わず嘆息してしまった。ミツキは僕の顔を覗き込み、やはりなにかあったのですね、と訝しんだ。ああ、神様助けて。



「そういえば、土曜日ってお暇ですか?」


「え!? ど、土曜日はえっと、なんで?」


「親友が来るのです。花プリのメンバーの鳥山志桜里ちゃんなんですけど、近くに来るから、会いたいって。それで、この辺りまだ詳しくないので、良かったらご一緒していただけませんか?」



 僕は思わず立ち止まり、半開きになった瞳が完全に色を失うのを感じていた。これは一大事なんてものじゃない。死の宣告に近い。よくよく考えてみれば、ミツキと志桜里は親友なのだから、連絡くらい取っているはずだ。どこに住んでいる、という情報も筒抜けなのは当たり前だろうし、もしかしたら僕がミツキの近くにいることを志桜里は知っているのかもしれない。いや、絶対に知っている。



「ええっと、鳥山さんは、ミツキちゃんの住んでいるところは知っているの?」


「いえ。住んでいる場所は絶対に誰にも教えないでって、和佳子さんに言われているので」



 良かった。最後の砦だけは死守しているみたいだ。もし、この砦が突破されてしまったら、きっとスマホに怒涛のメッセージが押し寄せるに違いない。半月刀を持って、僕の寝首をくと同時に、ミツキは蹂躙じゅうりんされて、きっとさらし首だ。ああ、助けて。志桜里をしずめて。酒でも米でも奉納しますから。



「そ、そうだよね。バレたら大変だもんね。ははは……」


「どうしたのですか。シュン君なにか様子がおかしいですよ?」



 もし、仮にだ。仮に僕が土曜日行かなかったとする。そうすると、ミツキはきっと僕のことを話すだろう。倉美月春夜という人と一緒にダンス部入りました、と。それだけで、志桜里は大激怒。大噴火。日本沈没。世界終焉。



「いや、土曜日はぜひお供します……」



 くっ。と唇を噛んだ。もしダンス部の話が出なかったとしても。この前、ショッピングモールに初めて行ったのですよ。倉美月春夜くんという弱虫芋虫と。手を繋いでデートしちゃいました。本当楽しかったです。はい、志桜里大激怒。大火球落下。日本崩壊。地球粉砕。



「良かったぁ! 楽しみです。志桜里ちゃん元気にしているかな」


「きっとね……はぁ」




 バスに乗り込んで一番後ろから二番目の席に座ると、ミツキはすぐに寝息を立てた。バスの心地よい振動に、ゆりかごで眠る首も座らぬ赤子のように眠りの淵に落ちたのだろうか。それとも、よほど疲れているのだろうか。僕の肩に頭を乗せて、まるで西洋人形のように可愛らしく、今にも折れてしまいそうな首が可哀そうで、僕は悪いと思いながらもミツキの肩に手を回した。自分のほうにミツキの身体を寄せて、その軽い体重を僕に預けさせた。



 まるで恋人じゃないか。何しているんだろう僕は。でも、このバスに乗っている間だけは、こうしていたかった。ミツキのことを好きになってはいけない。絶対に。僕がミツキを好きになってしまえば、ミツキを壊してしまう。彼女は必死に這い上がろうとしているんだ。邪魔したくない。でも今だけ。このバスの中だけは————。




 家の前のバス停に着く頃には、すっかり目が覚めたミツキに逆に僕が起こされてしまった。いつ寝たのかも分からない。ミツキは少しだけ微笑んで、ありがとう、と呟いた。何のことか分からなかった僕は、バスを降りてから訊いたが、ミツキは答えなかった。


 

「本当に楽しかったです。シュン君、あのもし、迷惑でなければ……」


「うん?」


「またお買い物お願いしてもいいですか?」


 

 振り向きながら微笑を浮かべるミツキは、春風になびく毛先が頬に当たり、髪を耳に掛けていた。視線を少しだけ逸らしたかと思うと、また僕の瞳を見据えるミツキは、唇が少しだけ開く。そして口角を上げて白い歯が見えた。まるでシャンプーのコマーシャルのように、僕の心を打ち抜いていく。



「もちろん! また行こう。僕もすごく楽しかった」



 離れに入っていくミツキを見送って、僕も自室に帰った。すごく寂しい。こんなに近くにいるのに、なんでこんなに切ないんだろう。



 ————はやくミツキに会いたい。

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