神様は平等
向かいに座る
「ミツキちゃん、ごめんね!! まさかシュンのと間違っちゃうなんて」
笑い事じゃねえよ、とツッコミを入れたが、姉さんは何食わぬ顔でポッキーを一本くわえながら満足そうに笑った。花山充希は、姉さんから視線を外さずにしばらく眺めているようだった。まるで憧れを抱いていて、姉さんのきめ細かな肌を食べたいのかな、なんて印象を受ける。
「
テレビの中で見る
だが、こうして姉さんの芸名を出して、ファンです、と告げる花山充希は、そんなことは関係ないただの女子高生だ、と言わんばかりに姉さんに笑いかけていた。倉山咲菜は、
「それで、花山さんはうちに住むってことなのかな?」
それはそれで嬉しいような気もするが、その反面、同じ学校に通うアイドルが自分の家から毎朝出てくる姿を想像するだけで寒気がした。もし、だれかに見られたらきっと、僕まで変な噂が立ち、やがて、みんなの輪の外に追いやられてしまう気がしていた。きっと僕に優しく接する友人たちは手のひらを返して、僕を無視し始めて、僕の心は蝕まれていく。
僕は————いつからこんなに弱気になったのだろう。
「めい……わくですよね」
花山充希の表情からこぼれていた笑みが消える。桃色の唇が一文字に閉じると、俯いて拳を握っていた。僕は慌てて、そんなことないよ、と伝えるが、果たして彼女の耳、いや心には届いたのかな。思ったことが顔に出てしまったのかもしれない。それは本当に申し訳ないことだ。彼女にはなんの落ち度がないのだから。
「いいのいいの。シュンはね、ちょっと病んでいるだけだから。それに、シュンだって少しは気持ちが紛れるんじゃないの?」
それはどうだろうと思ったが、とりあえず、うん、と答えた。でも、こんなかわいい子が近くにいるなら、へたれ切っている僕の心臓でも少しは元気になるといいな。高鳴った衝撃で元の心臓に戻ればいいのに。
「う、うん。気が済むまでいればいいよ。田舎だけど、慣れれば楽しいし、いい人ばっかりだし。東京だって、行こうと思えばすぐにいけるし」
深く息を吐きながら漏らした花山充希の言葉を聞き取ることができなかった。ありがとう、と言いかけたのかもしれない。花山充希が天井を見上げて瞼を閉じた時には涙が一筋流れていて、僕はそれを見ないふりをして席を立った。自分の部屋に戻って、防湿庫からミラーレスカメラを取り出して、ダイニングに戻る。花山充希と姉さんが談笑を始めていて、変な空気が浄化されたことに安堵した。
アイドルの仕事は大変だったね。倉山咲菜さんはもっと私生活クールなのかと思っていました。新曲はすごくよかったね。わたしやっぱり続けられないかもしれないです。それもいいんじゃない。そうですね。シュンも新しい道を見つけて極めようとしている。そうなんですか。
二人にレンズを向けて、シャッターを切る。小気味好いシャッターの感触とほぼ同時に痛快な音が響く。液晶の中の小さな世界に、花山充希と倉美月飛鳥が無意識下の表情で自然と笑みがこぼれていた。姉さんは気にも留めなかったが、花山充希はきょとんとしている。僕は、カメラを持っている時だけは自分に自信が持てる。ある時を境にすべてを失った僕は、いつの間にかカメラを両手に持って、必死にファインダーを覗き込んでいた。ファインダーを覗いている時だけは、自分の世界に入り込めるから。
花山充希を撮りたいと思った。本当にきれいだった。
「シュン。あんたさ、そうやってすぐに写真を撮りたがるのは悪い癖だよ。あたしはいいけど、花神楽美月ちゃんは、撮っちゃだめだと思うな」
指差した姉さんが、眉根を寄せて僕に告げる。だが、花山充希は意外にも立ち上がり僕の隣に立つと、カメラの液晶を覗き込んだ。倉山咲菜さんと一緒のフレームに入れるなんて嬉しい、と漏らす。花山充希の髪が僕の鼻先をかすめていき、フローラルの香りが右脳と左脳を同時に麻痺させた。髪が肩を滑り落ちて、うなじがわずかに見える。僕の心臓は心拍数を上げようと必死に動き始めて、胸の内側から壁を叩く音が花山充希に聞こえてしまうのではないかと危惧して、思わず胸を押さえた。
「わたし、写真すごく好きなんです。好きな写真家さんがいて」
振り返って僕に向けたはにかむ笑顔を、僕は受け止めきれなかった。天使、などという簡単な言葉でしか表せない僕の語彙もどうかと思うが、こんな、ほぼ初対面の僕とこんな近くで言葉を交わす花山充希の距離感は、とてもアイドルとは思えない。
まるで長年、同じ時間を共有した腐れ縁の幼馴染のようだ。
「そ、そうなんだ」
「インストグラムってやっていますか? ミツキノミコトっていう人なのですが、すごい人なのです!!」
「え……えぇ?」
姉さんは僕を見て噴出していた。なぜ噴出したのかは容易に想像がつくのだが、姉さんを無視して、僕は花山充希から一歩遠ざかった。
「
知らないはずがない。花鳥風月プリズムZのメンバーで……。
「う、うん」
「彼女がミツキノミコト様に定期的に撮ってもらっているらしくて。今度写真集出すのですよ。わたしもいつか撮ってもらいたいなぁ、なんて。おこがましいですよね。わたしなんて、もう……」
「そんなことないよ!!! 花山充——花神楽美月のこと絶対に撮りたいって思っているよ」
多分、と付け加えて、僕は俯いた。花山充希がどのような表情をしていたか分からなかったが、姉さんが、そろそろ帰ってきてもいい頃なんだけど、とぽつりと呟いた声が聞こえて顔を上げた。
「倉美月くんありがとう」
「あ、いや、うん」
「シュンって呼んであげて。倉美月は意外にもこの家に四人もいるからさ。あと、あたしもアスカって呼んでもらって大丈夫よ。むしろ、外で倉山咲菜の名前で呼ばれると、ちょっとまずいのよね」
父さんと母さんが帰ってきたのは、それから一時間も経ってからだった。首都高の事故のせいで迂回してきたために、予定よりもかなり遅くなってしまったのだという。
忙しい母さんは普段なかなか帰ってこない。週に一回帰ってくればいい方で、あとはすべて都内のマンションで過ごしている。父さんはそれを寂しく思うこともあるようで、晩酌をしながら愚痴る。姉さん——倉山咲菜は週に四回も帰ってくるのに、なぜ、と。
ダイニングテーブルについた母を見て、花山充希——ミツキは、完全に固まった氷の彫刻のように微動だにしなかった、というよりできなかったみたいだ。母さん——
「もう~ミツキちゃん、そんなに緊張しないで食べなさい」
怖い姑役だったり、怖い刑事役だったり、怖い女将さん役ばかりを真田和佳子という女優が演じているものだから、笑顔で話しかけられたミツキは相当違和感があったようだ。引きつった顔が面白くて、姉さんは噴出していた。
「ここは安全だから、ゆっくりと羽を伸ばしなさい。聖域だから撮られることもないし、失礼な記者もいないから」
母さんの力は、まるでファンタジー世界の魔術師のように結界を張り巡らせて、悪者を寄せ付けない。黒魔術でも使っているようだ。神々の力を借りて、安全地帯を作り出した母さんの庇護下にあるミツキは、感謝の言葉を丁寧に述べる。
母さんのツテは相当なもので、記者が近づけない裏の力もさることながら、それ以前に、まさかこの茨城に真田和佳子と倉山咲菜の家があるとは夢にも思わないだろう。
「和佳子さん、本当に感謝してもしきれません。わたし、もしあのままあそこにいたら、今頃——」
「ミツキちゃんは、きっと悪いことなんてしてないでしょう。悪いのは悪意のある記者とインターネットユーザーなのだから、気にしないの。身を潜めていれば、そのうち収まるから」
優しく微笑む母さんに、ミツキは感情が堪えきれなかったようだった。肩が小刻みに動いたかと思うと、顔を両手で覆って嗚咽を上げ始める。姉さんは立ち上がりミツキの後ろに立つと、しゃがみ込んで頭を撫でた。
「き、聞いてくれシュン!! 未現像の写真が、さ、三万枚になってしまった……」
青い顔をして席につく父さんはそう言って僕に、助けてくれ、とすがる。なぜそんなに溜まってしまうのか理解ができなかったが、父さんはたまに東京で芸能人を撮ったりしている。このフォトスタジオは普段は大して賑わうことはないのだが、四月という季節柄、それなりにお客さんはいるようだ。それで撮った写真が溜まりに溜まってしまったのだろう。そのくせ、夜は晩酌をして寝てしまう。つまり、単なる怠惰だ。
「がんばって。僕だって、自分の——」
「そう言わずに頼むよぉ~。シュンの現像した作品評判すごく良いんだ!」
「話すり替わってるし。現像終わらないから手伝うのと、僕の現像の評判はまた別の話じゃない」
「分かった! 一枚百円出すから!」
「……仕方ない。じゃあ、データSSDにいつものように入れておいて」
まるで僕と父さんのやり取りを、暗号を解く工作員のように耳を澄ませていたミツキは、結局意味が分からなかったようだ。諦めて鳥のから揚げを一口食べることに集中し始める。
食器洗浄機に食器を放り込んで、僕は自室にこもった。父さんの写真はともかく、自分の作品を仕上げなければならないからだ。
ノートパソコンの画面いっぱいに、中野ブロードウェイで撮った女の子のスナップが並んでいた。僕と同じダンススクールに幼少時から通っていた彼女が、僕とミツキと同じ敷地内に住んでいると知ったら、どういう反応をするのか。とても怖くて言えない。学校は違えど、幼馴染の彼女がいなければ、僕は立ち直れなかったかもしれない。トラックパッドを二本指でなぞりながら、サムネイルを確認していく。
突如ノックをする音がした。
はい、と扉に向かって声を掛けると、ミツキが少しいいですか、と申し訳なさそうに立っていた。扉を開けて、どうぞと部屋に招き入れる。
「どうしたの?」
「ちょっと、学校のことで教えて欲しいのです。今、時間大丈夫ですか?」
僕は、背の後ろのノートパソコンが開きっぱなしであったことに気付いて、慌てて画面を閉じた。
「あ、なにか作業していましたか。それなら」
良かった。見られていないみたいだ。
「あ、いやいや、全然大丈夫だから」
良かった、と言って床に座ろうとするミツキを、ベッドに座って、と誘導して僕は椅子に腰かけた。学校のこと、と言っていたが何が訊きたいのか。僕の知識で事足りるのだろうか。
「学校で部活動に入りたいのですが、やはり難しいでしょうか」
それは無謀すぎる。ただ立っていて息を吸っているだけで目立つ存在なのに、部活動なんて活躍する場に出てしまったら、それこそ悪意ある記者のみならず、渇き飢えた猛獣たちが牙をむいて襲ってくるに違いない。僕にミツキを守る義務はないが、なにかあれば母さんや姉さんからどつかれることは間違いないのだから、できればやめて欲しい。
「無茶じゃないかな。目立っちゃうでしょ?」
「和佳子さんが、部活でもして発散させなさいって」
あの人は何を吹き込んでいるのだ。
もし、運動部にでも入って、そう例えばテニス部なんかに入ったら、スコートから伸びる長い脚を目当てに、不純な男がまるで海外ドラマのゾンビのように金網にしがみつく。そのうち数の暴力で金網を倒したゾンビが群がり、ミツキは餌食になってしまうかもしれない。それを僕が守ると言うことは、不可能に近い。
じゃあ、文科系はどうだろう。例えば、美術部なんてものに入ってしまったら、彼女の絵のモデルになりたい不純な男が美術室になだれ込んで、取り囲まれてしまう。そのうちモデルになりたかったはずの男たちがいつの間にかゾンビになっていて、ミツキは食われてしまうだろう。
「ちなみに、何かやりたい部活でもあるの?」
「ダンス部……」
僕は力なくうな垂れた。自分でも気づかないうちに指先が真っ白になるほど力を込めていて、爪が手のひらに食い込んでいた。僕が下唇を噛んでいたことに気付いたのか、ミツキは、立ち上がって、ごめんなさいッ、と頭を下げる。僕は慌てて立ち上がり両手で手を振った。
「ち、違うんだ。ほんとに。これは僕の問題だから」
「たしか、シュン君、ダンスをやって……。でも————」
ミツキの唇が僅かに震えた。触れてはいけない、まるですぐに割れてしまう薄いガラスのビードロのように僕を扱うのかな。それで僕の心の外側にどうでもいい言葉を無責任に置いていく。やはり、ミツキも同じ人間——に違いない。
「うん。そうだよ。僕は激しい運動ができないんだ。だから諦めるしか……」
「そう、なんだ。本当に、少しも……?」
「……うん。だめみたい」
「ごめん……いやなこと言わせちゃいましたよね」
「いいんだ。僕はもう踊ること以前に運動することができなくなっちゃった。悔しいよね。僕もみんなと一緒に、もっとステージに立ちたかった」
ミツキは俯いてしばらく沈黙していた。小刻みに震えて、鼻を啜りながら顔を上げると、涙で頬が湿っていることに気付く。僕は、息を呑んだまま肺が機能するのをやめてしまったのかと思うほど、呼吸が乱れた。
「うぅ……そ、そんなのって……そんなのって、あんまりです。も、もし」
ミツキは俯いて泣いていた。強く拳を握りしめて、わなわなと震えて泣いていた。僕の止まっていた肺が再び活動を始めると、え、と口から飛び出した一言が宙をさまよう。
「もし神様がいたら……そんなの不公平……って言わ……なきゃ」
なぜミツキは泣いているの? 僕のため? 自分のため? 泣かなきゃいけない理由がどこかにあって、それを単に実行しているだけなのかもしれない。
だが、実際のところ、ミツキはすごく感受性が豊かで、僕の立場になって考えてくれている、ということが濃厚だった。彼女は、ダンスがしたくてダンス部に入りたいと言っているくらいダンスが好きなはずだ。その彼女がダンスをしたくてもできない僕の立場と、自分の立場を重ねることは容易なはず。
そこで、彼女は考えた。きっとこうだ——自分はまだダンスをする機会が残されているが、シュンはそれができない。ああなんて絶望的なの、と。
どんな理由であろうと、ミツキの瞳から溢れる涙は本物で、それは僕の前で重力に従って雫となって床に当たって弾けている。この事実は、僕の心を突き動かすには十分だった。
「ミツキちゃん。僕はそうは思わないよ」
ミツキは、え、と顔を上げた。僕の言葉は相当意外だったようで、何度も瞬きを繰り返して、僕の次の言葉を待っているようだった。まつげの上にちょこんと乗った雫がくるんと弾ける。
「ダンスの代わりに必ず得るものがある————幼馴染に言われたんだ。自暴自棄になっていた僕を救ってくれた幼馴染は、僕が駄目になった日からずっと僕の心の内側で叫び続けてくれたから、こうして今の僕がいる。だから、神様なんていなくても、救ってくれる人、手を差し伸べてくれる人は必ずいるから」
「そう……ですよね。わたし、全然、人の気持ちとか考えられなくてごめんなさい」
ミツキにティッシュペーパーを数枚渡すと彼女はありがとう、と言って涙を拭った。僕のために流した涙は、絶対に無駄にはさせない。
「ダンス部か。うん、いいと思うけど、本気でやっていたミツキちゃんには物足りないんじゃないかな。大会に出るわけでもないし、この辺のイベントに出演するだけだよ?」
「それでもいいんです。身体を動かしたいし、ダンススクールもこの辺はないですよね?」
「そうだね。スクールに通うには、電車を使うようだから、ちょっとおすすめできないかな。ダンス部知り合いいるから、明日連れて行こうか?」
「ほんとですか!?」
ミツキは目を輝かせて、まるでおもちゃを買ってもらった子供のように頬を綻ばせる。僕の手を取ってお願いしますッと頭を下げた。柔らかい手の感触に、思わず僕は手を引っ込めて、立ち上がり、ひぃ、と変な声を上げてしまった。
泣いたり笑ったり、いきなり手を掴んだり。テレビで見るキャラとは全く違うことに、僕は少しばかり面食らっていた。花神楽美月の、はつらつとしていて、いつも元気でため口で挑発するようなライブパフォーマンスは、見ていて格好良かった。
おまえらぁぁぁぁー! 今日はありがとぉぉぉぉ!! 愛してるぜぇぇぇぇぇ!!
扉を開けて踵を返すミツキは顔だけこちらに向けて、おやすみ、と呟いた。僕もその横顔にうん、おやすみと言って肩の力を抜いた。思わず腰を落として、ため息を吐く。ノートパソコンの画面を開いて優しく微笑む幼馴染————花鳥風月プリズムZのメンバー鳥山志桜里に告げる。
「志桜里。僕はやばいかもしれない」
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