花神楽美月という人

花山充希はなやまみつきです。よろしくお願いします」



 自己紹介した少女は、俯き加減にネクタイを人差し指に絡ませると、もてあそぶようにくるくると回しながら先生の指した席に歩いていく。椅子を引いて座った花山充希は、背中に鉄の板でも入っているように真っ直ぐ座ると、首筋からお尻にかけて美しい黄金比で計算されたようなS字のラインが制服の下に通っていた。


 しかし、酷く人見知りに見える。

僕にはその表情の理由がなんとなく分かった。



 花山充希という名前よりも、彼女は花神楽美月はなかぐらみつきと呼ばれるほうが自然かもしれない。

 人気絶頂だった歌って踊れるアイドルグループ『花鳥風月プリズムZ』のリーダーとして、テレビやネットで見ない日はないほどの有名人だったのだから。

 東京ドームや武道館のコンサートチケットを入手するのはほぼ不可能で、まぐれでも当たれば羨望せんぼうの目で見られる。

 先月も新曲がサブスクのサイトで堂々の一位を獲得するなど、好調に見えた。

 僕もそんな彼女たちの曲はすべて聴いているし、ジャズ調だけどロックなサビの曲はヘビーローテーションするほど好きだった。



 それが今や目の前で、まるで、素知らぬ顔でウィンドウショッピングを楽しむ女子高生が店員をあしらうかのように、かしましい声を無視して席に座り込んでいる。

 静かに————という先生の声は、色めく黄色い声の主たちには遠く及ばず、特に男子のアイドルなどという遠い世界に生きる彼女に対して、色眼鏡を通してみるような視線を遮るには、怒鳴るほかなかったようだ。



 僕はそれでも花山充希を見ていた。

 明るい栗色の髪——明らかに校則違反——が、少しだけ開いた窓から注ぐ優しい春風に吹かれて彼女の頬を撫でる。

 絹のような髪を耳に掛けて、ノートとシャープペンシルを取り出した花山充希は、可愛らしい普通の女子高生だった。

 その瞳は太陽の下の硝子玉のような海の水面を模していて、桃色の唇が僅かに開くと、誰にも気づかれないように嘆息する。

 まさにペチュニアの桃色吐息とはよく名付けたもので、可憐な彼女の醸し出す雰囲気そのものを表しているようだった。





 「なあ、春夜しゅんや、お前のインストグラム、昨日の写真いいね一〇〇件超えてたじゃん」



 僕の肩に手を回し、スマホを片手に顔を寄せてくるのは、涼森新之助すずもりしんのすけだ。

 キシリトール配合のガムを手渡し、これこれ、とスマホを見せながら僕に迫る。

 昼ごはんの前にも関わらず、ガムを食べさせる新之助は、単に僕に弁当の味をすり替えようとさせているに違いない。清涼感のある粒子の歯ざわりを楽しみながら、僕は腕を振り払った。


 昼休みになると新之助は、毎日僕に絡んでくる。

 高校一年生の時に転校してきた僕を温かく迎えてくれた新之助には感謝しているが、少々暑苦しい奴だった。



「あー。駅前の銅像の前で、高倉と撮った変顔のやつ?」


「そうそう。高倉が変顔するなんて、珍しいよな」



 新之助は、インストグラムの『いいね』の数が表示されない仕様になってからは、僕の投稿のいいねをした人のアカウントを目視で確認して数えている。相当うざいやつだ。



 僕が弁当箱を広げると、新之助はコンビニで買ってきた冷やしラーメンの封を開け始めた。しゃかしゃかと煩わしいそうにビニールを破り捨ててふたを開けると、パッケージされた汁を透明な器に入れていく。まるで何かの実験をしているように、交わった液体を割りばしにつけて新之助は一口ぺろりと味見をした。麺はいまだに絡まっていて、正方形のラーメンは座布団のようだ。


 そんな新之助の太い眉毛を横目に、僕は弁当に視線を落とす。キャラ弁を作る姉さんに、辟易した。僕の年齢も考えろよ。


 今日は、某ケーキ屋の女の子のキャラ。すごく甘そうで、きっとママの味がするのだろう。かまぼこで彩られた頬と、あざとくカニカマで舌なめずりをしていて、髪の毛はこんにゃくというあまりおいしそうではない弁当に、僕は思いきりため息をついた。



「お、おう。春夜。今日も派手にやらかした弁当だな」


「————コンビニでいいって言っているのに、姉さんが駄目だっていうんだ。結局この弁当ならコンビニのほうが栄養ある気がするよね」


「春夜の身体考えているんだろ。ありがたく頂けよ」



 みんな僕に気を遣う。

 僕が体育を例外なく見学するから、みんな触れてはいけないおできのように、優しくそっとオブラートに包み込んだ言葉を僕の心の外側に置いていく。

 それが少しだけ悲しい。



 新之助はほぼ毎日ラーメンを食べている。それも冷やし系のラーメンだ。販売されていない冬はサーモスの水筒に熱湯を入れてきて、カップ麺にお湯を注ぐ。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いても、残酷な残り香は消えることはない。毎日繰り返すうちに、女子からクレームが来た。制服が臭くなるからニンニク系だけはやめて、と。

 だが、女子のクレームはおかしいと思う。だって、ニンニクじゃなくても臭い。

 例えば、とんこつだ。あれだって冬の密封された教室では相当な臭気だったはずなのに。



「ラーメン毎日食べて飽きないのかよ」


「飽きるよ」


「じゃあ、たまには違うの買ってくればいいのに」


「ラーメン皆勤賞狙っているんだから、仕方ねえだろ」


 さすがに、家ではラーメンは食べないんでしょ、なんて聞いたのが失敗だった。彼は土日の昼でも部活があろうがなかろうがラーメンを食べているらしい。ここまでくると、尊敬に値する。



「————ぷっ」



 誰かが堪えきれずに噴出した——ような気がした。

 僕と新之助が、声の主を確認しようと顔を向けると、花山充希が顔を背ける。

 教室の隅で一人、弁当箱を広げていたが何一つ手を付けていないみたいだ。

 それどころか、頬を膨らませて何かを堪えながら、弁当箱に蓋をしてしまった。



 食欲がないのだろうか、それとも腐っていたのか。いや、もしかしたら、派手なキャラ弁だったのかもしれない。きっと、彼女のお母さんは僕の姉さんのようなキャラで、ベルばら風のタッチで器用に描かれたサザエさんのキャラ弁でも作ってもらったのかな。間違いなく、瞬時に蓋をするはずだ。僕のように。


 そうだ、きっとそうに違いない。



「ねえ、花山さん。一緒に食べない?」



 花山充希の弁当が、どんなものだったのか無性に気になった。アイドルでもキャラ弁作ってもらうのかな。それとも、野菜たっぷりで鶏の胸肉をゆでた薄味ヘルシー弁当なのだろうか。とにかく、彼女のような出るところは出ていて、引っ込むところは引っ込んでいるような身体つきにするには、食生活も大事なはずだ。それでもキャラ弁は作ってもらうのかな。



「ば、ばか、春夜! お前、相手はあの……」



 新之助は慌てふためき、眉根を寄せながら花山充希に背を向けて、僕に何かを言いたそうに金魚のように口をパクパクとしたがすぐに沈黙した。僕は、いいから、と少し強めに言って新之助を退けて花山充希に目配りする。見たいのだ。弁当がどんなのなのかを。


 そして笑ってあげたい。一人寂しく過ごす昼休みなんて、僕には苦痛で仕方ない。心の外側で、遠くを見つめるような瞳と、気遣いで置いていく当たり障りのない台詞なんていらない。笑ってあげたい。一緒に。



 そうしてくれたら、僕もどれほど気楽なことか。



 花山充希は赤いバンダナに包まれた弁当箱をリュックサックにしまって、小さくかぶりを振ると、なにも言わずに席を立ってしまった。表情は無理やり口を閉じて、少し泣いているようにも見えた。硝子玉のような少し茶色がかった瞳が、わずかに潤っている気がした。



 僕は悪いことを言ったのだろうか。僕だってまだ当たり障りのない領域から足を出してもいないのだから、花山充希が傷つくはずもない。もしかしたら、彼女は、一緒に食べない、という台詞にトラウマでもあるのだろうか。それなら納得がいく。


 だが、そうだとしたら、なんと申し訳のないことを言ってしまったのだろう。



「だから言ったじゃねえか」



「————ああ。新之助の言うとおりだったね」




 ホームルームが終わり、チャイムの音で一斉に動き出す群衆に、僕は取り残された。僕は部活動をしていない。いや、正確に言えばできない。文科系の部活に入ろうかとも考えたが、そんな時間があるなら家で寝ていたい。ようはぐうたらだ。


 そんな僕とは正反対で、意外にも新之助はサッカー部でエースだった。廊下の窓から見下ろす景色に溶け込んだサッカー部員が、ふざけながら校庭に足を向けていた。新之助の姿が見えたから手でも振ってやろうかと思ったが、どうせ気付くはずもないのだからやめておこう。



 急こう配の坂は下りだったとしても、僕にとっては命がけだった。ゆっくりと歩かないと呼吸が乱れ、めまいを起こし、最悪、気を失ったりすることがある。だが、過剰に心配する必要はないと医者に言われているし、学校に通えなくなるのはつらい。だから、少しでも自分のペースで歩いていく。



 坂の中腹くらいまでは水平線が見えて、大型のクルーズ船がゆっくりと動いているのが見えた。ひと際大きい建物はイオンとブックオフだけで、あとは住宅街が広がっている。この街に引っ越してきて、そろそろ一年になる。だが、祖父の家が近くにあり、よく訪れていたために新生活という実感はあまりなかった。


 


 古びた商店街は、意外と活気があり、車の通りも東京ほどではないが多かった。和菓子屋のおばちゃんに手を振って、僕は一本向こうの通りに入る。四月だというのに、いまだに肌寒く、いつ桜が咲くのだろうと思いを馳せていた。東京はもうすぐ満開なのに、この辺りはそれよりも一週間くらい遅い。でも、東京とは違い、桜の絶景を人がいないスカスカのガラガラで見られるのだから贅沢は言えないな。



 “スタジオムーンフォト”



 古民家を買い取り、改築して作り上げたフォトスタジオが僕の家だ。無駄に土地が広くて、離れがあるのは正直すごいと思った。大正ロマンよろしく、こだわったインテリアの趣味はさすが父さんと母さんだ。家の中もスタジオの中も、離れまでも洋館のような佇まいになってしまった。中もアンティークで揃えなくてはおかしいでしょう、と母さんは言って、数百万円を投じたのだから、呆れるしかない。


 玄関を入って、すぐの廊下に置かれた置時計が三分遅れで、ボーンと鳴ることには未だに慣れない。廊下の突き当りにある、なぜかそれだけゴシック調の棚の上にあるヴィンテージの人形は、夜な夜なナイフを持って暴れそうな雰囲気で、僕はいつもこの子に警戒をしなくてはいけない。



「おかえりーシュン。今日は歓迎会やるから手伝ってね」



 姉さん——倉美月飛鳥くらみつきあすか——は、リビングの扉を少しだけ開けて、顔だけ出すと僕にウィンクをした。目元が緩んでいて、何かを企んでいるときの表情だ。きっと、弁当がどうだったのか、感想を訊きたいに違いない。


 今日のお弁当はミルキー並みに甘くて最高だったよ、がいいのか、それとも、今日の弁当ははにかむ笑顔が素敵だったね、か。どっちにしても、姉さんとのやりとりは、いつもそんなネタ合わせから始まる。



「ただいま。姉さん。今日の弁当はママの味だったから、頬っぺたが落ちそうだったよ」



「————は?」



 予想外の反応に、僕の方が、は、と言いたかった。いや、実際に言ったが。だが、姉さんの反応はいつもよりもだいぶ、凝ったものだった。まさか、青ざめるとは思ってもみなかった。さすがは姉さん。活躍する世界が違う人だ。



「シュンの弁当って、ベルばら風のサザエさんじゃなかったの?」



 まさしく以心伝心とはこのことか。花山充希が弁当を食べずに泣きそうになりながら席を立ったところから、妄想を脳内で這わせたのだが。姉さんも同じようなことを考えているとは、さすが姉弟。



「間違いなくぺこりん。ぺこすけ。でも、珍しくヘルシーな感じじゃなかったね」



 姉さんは、額を左手で抑えながら、大正時代に舶来品として持ち込まれたのだろう丸みを帯びたダイニングチェアーに寄りかかりため息を吐いた。やばいなぁ、と呟き、しばらくそうしたあとに気を取り直して顔を上げる。



「やっちまったもんは仕方ねー。さて、今日は歓迎会だから、シュンも手伝ってよね」



 誰を歓迎するのか分からなかったが、冷蔵庫に入りきらない食材がダイニングテーブルの上に置かれているところを見ると、豪勢な食事を作るのだろうと予想できた。



「いやいや、弁当の話はどうなったの? 僕の弁当と父さんの弁当間違ったとか?」



 しかし、姉さんは気にしないで、と言ってまな板の上のにんじんを激しく叩いた。ガーリックの香ばしい香りにバターが溶ける音が換気扇の音にかき消されて、まだ外は明るいことを忘れてしまうくらいに、食欲をそそられる。



「ところで誰の歓迎会なの?」



「うーん。かわいい子。お母さん人がいいからさ」



 答えになっていない答えは、いくら僕が咀嚼しても頭の中を堂々巡りするだけで、なにも吸収しない。そればかりか、かわいい子という言葉によって、さらに迷宮の奥に取り残されてしまったのだから姉さんという人は、人がいいのか悪いのか分からない。

 だが、誰かを、何かに歓迎するのは間違いないみたいだから、深く考えないで姉さんの手伝いをするために洗面所に向かう。手を洗って戻ると、姉さんは笑顔に戻っていた。




 だいぶ陽が伸びたな、と胸中で呟いて、僕は窓の外を見て訝しんだ。だって、離れの電球が点いていることなんて、滅多にないのだから。たまに父さんが写真の現像を一人で集中してやりたい、と離れでフォトショップとにらめっこをしているくらいだ。父さんは珍しく母さんと出かけていて、東京から茨城の県北地域であるこの辺までは最低でも二時間はかかる。一時間半前に今から帰る、と電話があったのだから、帰ってくるには少しばかり早い。



 では、誰が離れを使っているのだろうか。



「あ、シュン、そろそろ主役呼んできて。離れにいるから」



 姉さんの言葉に、僕は納得した。歓迎するかわいい子が離れを使っている。よくよく考えれば当たり前のことじゃないか。だが、考えれば考えるほどおかしいことに気付く。この家は、大正ロマンの立派な客間があるし、人をもてなすなら、そちらで粗茶でも出すのが当たり前だと思う。それに、離れは殺伐としていて、いわば物置のような存在なのだ。そこに客人を通すというのはどういった理由からなのだろうか。



「主役って誰なの? もったいぶりすぎだろ。姉さんはそうやって僕をからかうんだから」



 この場所ではないが、実は姉さんがあらかじめ電球を点けていて、恐る恐る僕が近づくと、うそぴょーん、と死語を言いながら背後から驚かすといういたずらを受けたことが幼少時にあった。それ以来、僕は姉さんのいたずらを相当疑っていた。実は、客人など存在せずに、なにかの記念日——例えば両親のはじめて付き合った記念日とか、両親の初同棲記念日とか——を祝おうとしているだけなのではないか。だとすれば、なんと用意周到なことなのだろう。


 両親はなにかにつけて、記念日を祝おうとする。今でも新婚のようで、見ているこちらが恥ずかしくなる。とても思春期の子供がいる夫婦には見えない。ああ嫌だ。



「そんな顔してないで、はやく呼んできてよ」



「————わかったよ」



 渋々、僕は玄関に置いてあったサンダルにつっかけて、離れに向かう。距離にして約一〇歩なのだから、いい運動だ。ダンスが出来なくなった僕はますます体力が落ちていくばかりで、できることならもっと心臓に優しい運動をしたい。だが、一〇歩進んだところで、胸が騒ぎ始める。


 離れの引き戸の隙間から見えたローファーが、まるで女子高生の履くそれと瓜二つだったからだ。引き戸を開けると、シャープペンシルをノックする音と、制服——それもスカート——の擦れる音は、確実に僕の予想通りだ。恐る恐る上がりまちを踏みしめて廊下を歩く。離れは短い廊下の両脇に二部屋があるだけで、どちらも倉庫になっているはずだった。


 しかし、いつもとは違い、妙に綺麗になっている気がした。まるで女の子が住んでいるかのような仄かに漂う香りが、僕の心臓をとくっと叩く。誰が何のためにここにいて、何を歓迎しなくてはいけないのか。



「えっと」



 なんて声を掛ければいいのだろう。

 ご飯できますよ?

 そろそろ歓迎会です?

 姫、お迎えに上がりました!



「あの、そろそろご飯ができ……」



 引き戸を開けて半身を覗かせる制服姿の女の子の姿を見て、僕は倒れそうなった。美しいブラウンがかったトンボ玉のような瞳が、僕を見てわずかに眉を動かす。ゆっくりと踏み出して、申し訳なさそうに会釈をした。



倉美月春夜くらみつきしゅんやくん……ですよね?」



 ひよこでも握るように優しく丸めた拳を口元にあてて、花山充希は僕の視線から目を逸らした。眉尻を下げる彼女は目じり側で僕を見た後に、少しだけ伏し目がちに呟く。



「お昼はせっかく声をかけてくれたのに、ごめんなさいッ!」



 暑くもないのに背中を伝う汗が不快と感じる余裕もなく、ただ僕は花山充希を見つめた。なぜ花山充希がここにいるのか、と。



 だが、母さんと姉さんを考えれば、不思議なことではないな。そう考えると、頭痛がしていることに気付く。


 歓迎会は花山充希のため、か。

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