幕間 星も見えぬ空 心の荒む激動の一夜
くそ野郎を問いただしたい。
こんなことを
新宿駅東口の改札を抜けた志桜里が、手を振りながらこちらに向かってくる。相変わらず、全く変装などしていない。むしろ、僕の顔が知り渡っているのに、それはないだろうと思う。ドッド柄のシャツに
「やほー。シュンは元気……じゃないね。シュン、ちゃんとご飯食べてるの?」
「うん。大丈夫だよ」
嘘を吐いた。実際、食欲があまりなく、毎食高カロリーのゼリーで済ませているのだから、それを志桜里が知れば激高するのは間違いない。だから、僕は嘘を吐く。心配かけたくないから。
「志桜里、今日はごめん。忙しいんでしょ。僕のこと殴りたいと思っているのは分かってる。終わったら、好きにしていいから」
「ちょっと、シュン。水臭いわよ。シュンのためなら一肌脱ぐのが私でしょ。それに、シュンがミツキと付き合っていたって、最終的に私のところに来てくれればそれでいいんだから」
心が広いようで、狭い。それが志桜里だ。そして、設定した目標にたどり着くまでにはどんな方法を使っても、突き抜ける。まるで弓から放たれた矢だ。的を得るためには、勢いを止めることができない矢。そんな志桜里と知り合って、一四年になる。出会った瞬間のことなど覚えていないけれど。気付いたらそこにいた、なんて。
僕はなぜ志桜里を好きにならなかったのだろう。いや、好きだけど、ミツキを想う気持ちとは別のものだ。もし、志桜里を選んでいたら、こんなに苦しい思いをすることはなかったのかもしれない。
「……ごめん。勝手だけど、約束はできない」
「そうやって、真面目なところも変わらないね」
「毎日、メッセージくれてありがとう。志桜里には話しておかなきゃいけないことがあるんだ。今日、終わったら話すよ」
なぜだろう。ミツキには話せないことが志桜里には話せる。そうか。志桜里は僕の親友なんだ。気兼ねなく、気遣うこともなく、すべてを許せる——委ねられる存在。僕は、そんな親友に甘えようとしているわけではない。ただ、知っていて欲しい。僕のことを。
熱帯夜の絡みつく湿度に蒸し焼きにされた身体を、ギンギンに冷えた水を喉に突っ込んで冷やしていく。一気に飲み干したペットボトルをコンビニのごみ箱に投げ捨てた。
歌舞伎町の一角にあるクラブに入っていく志桜里の背を追いかけて、僕も防音扉の先に吸い込まれていく。九〇年代のダーク・エレクトロが赤いレーザービームを彩っていて、凍てつく魔女の放つ氷の魔法のように冷えたクーラーが、僕の頭を締め付ける。
無機質。
周りの景色にも、音楽にも、踊り狂う人にもなんの感情も沸かない。ただ、ミツキの残り香を追う自分は、そのストロベリーの感触だけを頼りに進んでいく。きっかけは、白木坂慶介だ。そいつを見つけて話を聞き、場合によってはぶん殴る。もうどうなっても構わない。
僕を
ストロボのような白い閃光がなんども志桜里の背を浮かび上がらせる。部屋の一角のテーブルに座り込む男女。一人は、風見碧唯。背中まである長い金髪を一本に束ねていて、
「
「……まさか、倉美月春夜!? なんでこんなところに!?」
「あ、あんたが……まさか」
「そのまさかだよ。白木坂慶介さん。シュンは、ちょっと……今、やばいよ」
僕をみんなで襲撃に来た魔王のように扱う。意味が分からない。まだ何も話していないのに。僕はできるだけ
「白木坂……さん、
僕の一言で、その場が凍り付く。それもそのはず。白木坂慶介の彼女である風見碧唯が目の前にいるのだから、答えようがないのかもしれない。でも、僕は絶対に追求を止めない。ミツキに触れただけでも許せない。許すことなどできるはずがない。
「あ、ああ。それは……気の迷いというか」
白木坂慶介の言葉に、風見碧唯は何の反応もしない。むしろ、少し僕を睨んでいるかのようにも見える。まるで、僕のほうが悪いことをしているような表情に、僕は睨み返した。てめえの彼氏くらい、ちゃんと見張っておけよ、と言いたい。僕は怒っている。風見碧唯、お前にもだ。
「気の迷いで、ミツキに触れた、と?」
握り拳が震えるくらい力を入れていて、脳を満たす熱い血流が急激に脈打ちはじめる。顔が熱い。肺から漏れる吐息は灼熱を帯びていて、僕は思わずため息を吐く。Cut capersのSay whatがアレンジされて流れる軽快なラップが、僕の心拍数とシンクロしていて、流れる汗を手の甲で拭った。レーザービームの閃光が白木坂慶介の蒼白の顔を撫でていき、僕の顔を焦がしていく頃には目元は焼け落ちていて、鼻からは炎が漏れる。口からはどす黒いヘドロが零れ落ちていたのだと思う。
「ち、違う。そうじゃなくて、なんていうか。花神楽が……」
「はっきり言えよ……」
「だから、俺は……」
「ふざけんなッ!! てめえ、なんのつもりで!!!!!!」
気が付くと、テーブルに足を掛けていて、白木坂慶介の
「シュン、ちょっと!! だめだって!!!」
「志桜里離せッ!! 僕は、こいつを殴らなくちゃ気が済まない!!」
「ま、待てって!! 誤解だ。誤解。本当に」
もはや、何も考えられない。こみ上げた怒りが全身を毒していて、脳を巡る思考よりも行動の方が数百倍速い。激流のように駆け巡る血液が、心臓を激しく震えさせる。分かっている。こんなに興奮したら命取りなことくらい。でも、止められない。こいつを殴らなくては、僕は収まらない。こいつを今すぐ、殺してやりたい。志桜里を思いきり振り解いて、再び拳を上げて振り下ろす。
拳が白木坂慶介の頬に当たる前に、待って、と、風見碧唯が口を開いた。僕は、その声の大きさに、拳を止める。風見碧唯を瞳孔の
「いい迷惑ね。ミツキよ。ミツキと取引したの。抱き合っている写真を撮って欲しいって。それで慶介にお願いしたのよ。慶介ならもうそういうチャラいキャラで世間一般が通っているから」
「ミツキが取引!? まさか碧唯、あんた!?」
「仕方ないでしょ。ミツキに知られちゃったんだから。あの子、あんな顔と言動で、とんでもない切れ者なのよ。
「……分かった。まあいい。それより、シュン、どうするの?」
ミツキは何を取引したのだろうか。今の話の脈からは、僕の知らないミツキを垣間見た気がする。でも、それでもミツキを追わなくてはいけない。僕は決意したのだから。だから、それをミツキに言わなくちゃならない。
「ミツキの居場所を教えて欲しい。今のことは謝る。悪かったよ。ごめん」
「……俺は知らない。本当だ。それに、あれっきり一度も会っていないし、あれ以上のことは何もしていない。誓う。だから、俺も悪かった。あんたの気持ち、少し分かるから」
「……この場所に行ってみたら」
風見碧唯がナプキンに書いた住所は、少し滲んでいたけれど、今はそれが宝の地図のように輝いて見えた。丁寧にお礼を言って、そして、謝って。ぐちゃぐちゃの心を整理できないまま、クラブを後にする。
「私、シュンのキレたところ見るの初めてだったかも。怒ることはあってもね。シュンをあんなにキレさせるなんて、ミツキのこと許せないわぁ」
「ごめん。志桜里が止めてくれなかったら、僕は今頃、警察のお世話になっていたかも」
風見碧唯の書いたメモの指す場所は、虎ノ門にある高級ホテルであった。広大な中庭には滝が流れていて、カヌーで滝下りなんて遊びをしたら楽しいだろう。また、セキュリティもしっかりしていて、僕一人では入ることができなかったかもしれない。
豪華なシャンデリアが
だが、志桜里が自分の名前と身分証をロビーで見せると、すぐにカードキーが差し出された。なぜなら、その階層は彼女たちの事務所が借り上げているからだ。
「シュン、私、すごく損な役回りをしている気がするんだけど」
「うん。ごめん。埋め合わせは必ずする。なにがいい?」
「キスして。それですべて流すから」
「…………それは」
エレベーターの扉が開き、
メモの通りに書かれた部屋の前に立って、瞳を閉じる。ゆっくりと息を吐いて、瞼を開くと同時にインターホンを押し込んだ。この先の世界はきっと異空間になっていて、僕を受け入れてくれるか、それとも拒絶して押し戻されてしまうのか。どちらにしても、相当な覚悟が必要であって。僕は、自分の暴れる心臓を言い聞かせることなど不可能であった。熱く漏れる吐息の音と滴る汗を見たのか、志桜里が、シュン、大丈夫よ、と背後から優しく呟く。
分厚い扉の向こうの音を聞くことはできない。ただ、開くのを待つばかり。
開いた扉から顔を出したのは、真っ赤に目を
「シュン……くん?」
「ちょっと、シュン、どいて」
扉を強引に開いて、ミツキの肘を力強く掴んで部屋の中まで引っ張っていった志桜里は、平手をミツキに浴びせる。ぱちんという音が響いた時には、ミツキは倒れて腰を床につけていた。何が起こったのか分からないミツキは、茫然と志桜里を見上げて呟く。なんで、と。
「シュンを、シュンをこんな風にさせたミツキが憎い。あんたのせいで、シュンは白木坂慶介をさっき、殴り殺しそうになったのよ! もし、シュンになにかあったら、私は絶対にミツキを許さないからッ!!」
少し大げさすぎる気もするが、真に受けたミツキは地面に腰を落としたまま、口をパクパクとさせていた。ミツキは、もしかして激高する志桜里を見るのが初めてなのかもしれない。僕は何度も見ているけど。それに、僕に視線を浴びせるミツキの表情は、泣きじゃくる子供そのもの。いや、ミツキが悪いのではなくて、すべて僕のせいなのだけれど。
「志桜里、もういいから。僕は大丈夫だから」
「良くないッ!! シュンはね、あんたを一番に考えて、それで悩んで、苦しんで。あんたが本当にシュンを好きなんだったら、しっかりと受け止めなさいよッ! ばっかじゃないの」
「し……おり……ちゃん、ごめん。でも、わたしがいるとシュン君は……」
「それで、あんな記事を
しばらく静寂が空間を支配した。痛いほどの張りつめた沈黙が、僕の喉に侵入してきたころには張り裂けそうな心臓が脈打って、目頭が熱くなる。乾いた舌がぎこちなく動き、言葉を放つことを諦めた声帯がゼンマイの切れたオルゴールのように音を漏らす。
言ってしまえば、僕は消えてなくなってしまうかもしれない。生きているのに死んだように扱われる。それは嫌だ。
「このままだと。二年。二年なんだ」
二人とも意味が分からなかったようで、口を開いたまま固まっている。何が二年なの、と。二年という七三〇日は長いようで短い。
だから、僕には時間がない。
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