龍淵に潜む秋・ミツキの求婚

倉美月飛鳥という人

「なにが二年なのよ? シュン?」


「もしかして……」



 姉さんと僕の話を聞いていたミツキは少しずつ意味が分かったのかもしれない。青ざめていく顔が深刻さを増していって、立ち上がり僕の目の前に立つと、肩を掴んで揺さぶり始めた。



「ねえ、シュン君!? まさか、ねえ!?」


「このままだと、余命は二年くらいだって。でも、助かる方法はあるんだ。心臓を取り換えれば……。でも、すごく怖い。それはすごく怖い」


「……知っていれば。こん……なこと……」


「ちょっと、シュン!! なんで早く言わないのよ!! 馬鹿なの!? 病院に早く戻りなさい!!」


「行くよ。決めたんだ。病院に行く。ミツキの言う通りだ。僕はミツキに甘えて、陰に隠れていたんだ」


「だって、それでも……」


「結局、最後は一人だ。僕はもう恐れない。とにかく、すぐに外科手術が必要だから、まずはそれからだって。その病院が、ちょっと遠いんだ。一か月はそこに行かないと……」


「シュン君……本当に、ごめん。やっぱり無理。シュン君を一人になんてできない。そんな話聞いちゃったら……」


「シュン……」



 志桜里しおりは泣いていた。泣き顔を見るのは小学生以来だ。泣きわめいて、ミツキを散々怒鳴り散らして。ミツキも泣きじゃくっていた。僕は、一人取り残される。


 僕の意思とは関係なく、僕のためだよ、と言ってブリキのおもちゃ達が僕を担ぎ上げる。僕はまだ生きているのに、なんで運んでいくの。涙を流しながら行き着く先は、燃え盛る真紅の揺らめきが身を焦がす川の淵。この先に行けばきっと、僕は一人で旅をしなくてはいけない。



「待ってよ。待って。僕はまだ生きているのに。なんで、僕を見ようとしないの?」


「シュン……だって」


「ミツキ教えて。なんでそこまでして、僕を遠ざけようとしたの? 本当にミツキの考え? 違うでしょ?」



 ミツキは僕をただ見つめていて、唇をんだままはなすすっていた。よく見なければ気付かないくらいにかぶりを振っていて。決して開かない口は、絶対に何かを隠している。その唇の中、口腔の奥、喉のふち、食道の底、心の遥か深淵しんえんの中に何を隠しているのか。



「ミツキ、何を言われた!? 分かっているよ。そういうことを言いそうな人を。僕のために離れろって、嫌われろって言われたんだろ」


「シュン……ぐん」


「敵が身内にいたんだろ。分かってるよ。薄々気付いてた」



 ミツキは立ち上がり、僕に抱きついてきた。その泣きようは、僕のTシャツがずぶ濡れになる程で。もはや、僕は考える気力すらミツキに奪われてしまっていた。もう、この子を守る他ない、なんて。自分でもどうかしていると思うけど。だけど、きっとミツキはかつがれたんだ。



 ————姉さん、倉山咲菜くらやまさな————倉美月飛鳥くらみつきあすかに。



「姉さんでしょ。僕のためにそうしろって言われたんでしょ。そのために、あの時、わざわざ僕を起こして、お別れを言いに来たんでしょ。僕との思い出を語った辺りから、変だなとは思っていたんだ。まるで僕とお別れをするのかな、なんて思ったら、案の定そうなったし」


「………………ごめん。アスカさんに、シュン君と離れないと、シュン君が手術できないって聞いたの。手術しないと死んじゃうかもって。手術をしたら元に戻れるからって。でも、そんな……二年なんて聞いていなかった。もし聞いていたら、絶対に————」


「ミツキは、それで姉さんの言葉を真に受けて? それが正しいと?」


「……うん。アスカさんの言葉がすべてだと思っていたの。アスカさんが言うことはすべて正しいって」



 沈黙をしていた志桜里が立ち上がり、もう一度ミツキの頬を叩いた。今度は優しく。その表情はいつもの志桜里に戻っていて、僅かに嘆息してから口開く。やっぱり馬鹿ね、と。

 その後、僕からミツキを引きはがし、ミツキを優しく抱きしめて耳元で何かをささやいた。僕はそれを聞くことはできなかったけれど、ミツキは微笑んでありがとう、と返す。



「姉さんならやりかねない。僕が躊躇ちゅうちょするのは、ミツキと一緒にいたいからだって思っていたのは確かだし。僕が話さなかったのは、ミツキを悲しませないためだって姉さんは確信していたんだと思う。それで、このままでは僕はずっとズルズルするって判断をして、ミツキに離れてもらおうって。姑息こそくだよね。許せない」


「アスカさんはわたしに謝っていた。シュン君が部屋に戻ったあと、シュン君の話をして。嫌われるようにしないと、いつまでも決断できないまま命を落とすことになるって。話していたら、それが絶対的に正しいって思えるようになってきて。それで……」


「もうわかった。いいよミツキ。姉さんは女優だから。人の心を掴むのがうまいんだ。確かに、こうでもしなければ、僕の決心が鈍っていたかもしれないし。僕が臆病だから。それがすべての原因だから」


「……シュン君許してくれるの?」


「許さない……」


「え……」



 自分が許せない。姉さんに審判を下させた自分。ミツキにここまでさせてしまった自分。志桜里に頼らざるを得なかった自分。すべて見抜けなかった自分。



 ————自分が許せない。許してはいけない。



「ミツキ。まだ気持ちが変わらないなら、僕と一緒に」


「————うん」


「帰ろう。許すも何ももう怒っていないよ。許せないのは自分。姉さんには僕からちゃんと話す。必ずミツキのことは守るから。だから」


「…………うん」


「別れるなんて、寂しいこと言わないでよ……」



 目頭が熱くなって、モノクロームだった世界が徐々に色を取り戻していく。ミツキの栗色の髪も、撫子色なでしこいろの唇も、硝子玉がらすだまのようなブラウンの瞳の中に映る自分も。やがて、その世界のすべてがにじんていき、腹の底からこみ上げる想いが、すべて喉の中間あたりに引っ掛かった。嗚咽おえつを上げて吐き出したかったのに、なかなか出てこない。悔しい。すごく悔しい。ミツキを少しでも失ってしまったことが、こんなに悔しいなんて。



「もう、帰ってからやりなよ。私の立場も考えてよね」


「志桜里。ごめん。埋め合わせするよ。キス以外で。だから、ほんの少し時間が欲しい。ミツキと話したい。本当にごめん。最低なのは分かっている。だから」


「————もう。シュンもミツキも絶対に呪ってやるんだからッ! 馬鹿ッ!!」



 呪詛じゅそを口ずさみながら扉の向こうに消えていく志桜里には、かなり悪いことをしているということは分かっている。本当に最低だと思っている。でも、それでも、ミツキと今、話したかった。ごめん志桜里。本当にごめん。



「シュン君……ごめんね。虫のいい話なのは分かっているけど、だけど……」



 優しく抱きしめたミツキの感触はとても華奢きゃしゃで、弱々しくて。これ以上強く抱きしめたら、君の身体が折れてしまわないか心配ではあるのだけれども。それでも、少しだけ力を強めていく。何回目の抱擁ほうようだろう。逃がさないように捕まえたのは何度目だろう。もうこれ以上すり抜けていかないで。



「ゆる……して。わたし、もう二度とシュン君から離れないから。絶対に。本当にごめんね。だから許して」


「もう怒っていないって。だから帰ろう。ね」


「うん……」




 部屋から出た僕の腕を掴み、志桜里は僕を振り向かせると、突然抱き締めてきた。頭の後ろに置いた手を思いきり自分に引き寄せて、僕は何も分からないまま柔らかい唇の感触に、思わず息を止める。何が起こったのか一瞬分からなかった。けれど、これが志桜里に対しての埋め合わせではないことくらい分かる。



「志桜里、なにを!?」


「シュン……絶対に奪い返す。ミツキから絶対に。そのためだったらなんでもする。だから、ミツキも覚悟しておきなさいよ。今日のは貸しにしておく。こんなのでは全然足りないんだから」


「志桜里ちゃん……」



 きびすを返して吐き捨てた台詞せりふを別れの言葉にして歩いていく志桜里は、僅かに僕を一瞥いちべつした瞳がどこか寂しそうで、僕はその切なさに胸が締め付けられた。志桜里は僕のために、時間を費やしてくれたのに。それなのに気持ちに応えることができない。仕方のないこととはいえ、一四年の付き合いから、志桜里に情が移ってしまう。それは、ミツキにもすごく悪いことだ。



「ミツキ、ごめん。志桜里はきっと本気だ」


「うん……」



 僕の袖を摘まむミツキは、長い廊下を真っ直ぐ歩く志桜里が見えなくなるまで、その姿を視線で追っていた。眉尻を下げながら。




 帰りの特急列車の中、ミツキは僕の右腕から離れようとはせずに、ずっと頬をつけていた。とても、とてもモヤモヤする気持ちが晴れずに、僕は一言も話せなかった。ミツキはそんな僕のことをどう思ったのかは分からなかったけれど、少しだけ不安の色で顔を染めていたことは分かる。帰って姉さんになんて言われるのか。戻ってきたとはいえ、僕から離れてしまったことによる僕への贖罪しょくざいに対する犠牲はどうするのか、なんて思っているのかもしれない。でも、僕はミツキが悪いとは思っていない。むしろ、帰ってきてくれて嬉しいよ。



「シュン君。わたしね、考えたの。シュン君が入院するなら、わたしがずっと付き添おうと思うの。東北だっけ? 有名な先生がいるのって。一か月くらいなら、わたし、シュン君と一緒に」


「……別にいいよ。たかが一か月くらい大丈夫だよ。一人でも」


「そうじゃないの。離れていたら、わたし、駄目になっちゃう。今回の件でそれがはっきり分かったわ。それに、一緒にいなかったら、すごく後悔しちゃうと思うの」


「でも、学校だって。復帰の件だってあるでしょ。写真はもう納品しているんだから、すぐに復帰できるんじゃないの?」


「ううん。学校はシュン君だって同じでしょ。復帰は、どうせ謹慎しているんだから一か月くらい伸ばしたって。明日になったら高梨さんに連絡入れておくね」


「いいの? 僕は、きっと、いっぱいミツキに甘えると思う」


「うん。いいの。それでシュン君が寂しさとか苦痛を紛らわせることができるんだったら、そばに居させて。お願い」



 また涙ぐむミツキが愛おしくて、僕はミツキにキスをした。少し長めのキスを。





 辿り着いた自宅には、やはり姉さんがいて、僕は今回の経緯を話した。姉さんは関与していたことを認めて、ミツキに軽く謝罪した。それと同時に僕の決意も話し、それはミツキのお陰だと丁寧に説明をすると、ようやくミツキは胸を撫でおろすことができたようだった。



「姉さん。今回のようなことは絶対にもうやらないで欲しい。僕はもう迷わないし、命を諦めたりもしていない。それに、僕はミツキがいれば、すべて乗り切るから」



 大正時代に舶来品はくらいひんとして持ち込まれた、丸みを帯びたロッキングチェアーに座りながらビールを啜る姉さんは、少しも悪びれる様子もなく淡々と話す。ミツキちゃんごめんね、なんて言う台詞は、全く心に響かない。女優なら迫真の演技で、ミツキに心から謝罪してみせろよ。



「姉さん、ミツキを騙したことを悪く思うなら、ちゃんと謝れよ」



 飲み終わった空のビール缶を握りつぶしてからテーブルに置くと、姉さんは立ち上がり、ミツキを抱き締めた。ミツキの、え、と漏れた言葉が宙を泳いで、その視線が僕を捉える。僅かに開いた口が閉じる頃には、姉さんは離れて笑顔でミツキの頬を両手で持つ。そして、手のひらで揉むように頬をもてあそび、困った顔のミツキが、アスカさ~~んと声を上げる。



「かわいい子には旅をさせろ。シュンが死ぬ気で追いかけたでしょ。これで、シュンの愛情の深さが分かったじゃない」


「姉さん!! 本気じゃないだろ。それ」


「本気じゃないわよ。分かる? 本気でこれからシュンと付き合うっていうことがどういうことなのか。生半可な気持ちでは、シュンのかせになっちゃうの。だから、本気でシュンを支えたいなんて思うなら、本気出して貰わなきゃ困るわけ。ドゥーユーアンダースタン?」


「つまり、わたし達を試したと? そういうことですか?」


「ミツキ……姉さんの口車だ。そんなわけないだろ」


「ミツキちゃんは、シュンが追いかけてきて、真実を聞いて、どう思ったの?」


「わたしは……シュン君を全力で支えたいと思いました。絶対にシュン君を一人にさせないし、もし、シュン君が迷ったときには一緒に考えて、一緒に答えを出して。それでも、勇気を出せなかった時には、わたしがシュン君の手を引きます。必ず」



 真っ直ぐに姉さんを見たミツキの瞳は、今までの彼女の顔とは別人のようだった。どこか吹っ切れたような表情で、力強く。そこに迷いはなかった。姉さんの口車で本気になってしまったのかな。それにしてもミツキは強い。いや、姉さんも志桜里も。僕は強い女性に囲まれている気がする。



「それが聞けて安心したわ。あんた幸せ者ね。シュン、分かったら、はやく入院の準備でもして寝なさい」


「姉さん、うまいこと言った、みたいな表情するなよ。全部、今つくったろ?」


「本気じゃないって言ったでしょ。本気のことを言えば、あんたは満足するの? ミツキちゃんは本気のことを本気できたいの?」


「い、いえ。なんとなくアスカさんの言いたいこと分かったので」


「いい。よく聞きなさい。あのままのあんた達が離れなければ、シュンもミツキちゃんも不幸のどん底でしょ。どこであんたは決断をするつもりだったの? いつか言ったでしょ。どれが将来後悔をしない選択肢だったのか、なんて未来にならなくちゃわからないって。逆に言えば、過去を見た時に、あの選択肢で良かった、って後悔しない未来をつくるために今をがんばるのよ。あたしにとって、今のあんた達を見れば、最上の選択肢だったと信じて疑うことなんてないわ。そうでしょ? ミツキちゃん」


「確かに。そうですね!」


「だから、ミツキ、それは姉さんの口車だって」



 らちのあかないやりとりはこの後しばらく続いたが、姉さんが三本目のビールを開けた頃に寝始めて、ようやく僕は解放された。



 ミツキは、眠い目をこすりながら、僕から離れようとはせずに、気付けばベッドで僕に寄り添いながら、僕に真実を告げ始めた。


「アスカさんの言っていたことは本当だと思うの」


「なんでそこまで姉さんを信じるの?」


「志桜里ちゃん。志桜里ちゃんがわたしを抱き締めたとき、教えてくれたの」


「え?」


「シュン君を助けてあげてってアスカさんに頼まれたの、って。アスカさんが本気で私たちを引き離そうとしたら、そんなこと志桜里ちゃんに頼まないでしょ」



 それは、僕が引きこもってしまったから、慌てて志桜里に頼んだんだろう。つまり、それすら口車に乗せられているのに。それに、まるで自分は関与していない、存じ上げない、という態度で僕に接していた数日間を見ると、やはり女優である。それとも、すべて、計算通りだったというの?



 姉さんは掴みどころのない人だ。



 ミツキはそのまま、瞳を閉じて、僕の頬にキスをするとゆっくりと寝息を立てた。優しくミツキの髪をいて、僕は当たり前だと思っていた幸せが奇跡の上に成り立っていることをはじめて気付かされた。自分の手の中にいるミツキが、こんなにもかけがえのないものだったなんて。絶対に大切にするし、絶対にこの気持ちは忘れないよ。


 

 ミツキ。帰ってきてくれて本当にありがとう。

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