霜夜の冬・ミツキの雪

三億の代償

 吐く息はりんとした冷気の中に溶け込んでいき、再び吸い込むと喉を刺すような酸素が肺を凍てつかせる。重くのしかかるような雲が時雨しぐれる午後の一幕に、僕とミツキは都内のスタジオに入った。



「ごめんねシュン君。仕事は本当にこれが最後だから」


「大丈夫だよ。それよりもなんで僕も一緒に?」



 IT関連の会社のコマーシャルフォトがどうしても外せないから助けて、と高梨さんに頼み込まれたミツキは仕方なくスタジオ入りをしたのだが、なぜか僕も一緒に来て欲しい、と。全く意味が分からなかった。しかも、その話を持ち出した相手が、そのIT会社の社長だというのだから驚きだ。なんの理由があって僕が来なくてはいけなかったのか。



「分からないの」



 せわしなく人が乱れ歩くスタジオ内の一角に用意されたベンチに座るミツキの、とりあえずシュン君も座ってよ、という言葉に従い腰かける。ミツキから差し出される温かいペットボトルのお茶の封を開けたところで、高梨さんが僕のほうに歩いてくるのが見えた。



春夜しゅんや君、ごめんね。どうしても来て欲しいって楠川田くすかわだ社長がね。それで相談なんだけど、ミツキと一緒に写ってくれないかって」


「————は?」


「それがね。もし一緒にミツキと出てくれたら三億出すって言うのよ。あなた個人に。もうこっちも訳が分からなくて」



 一口飲んだお茶が気管支に入って、思わず咳き込んだ僕の背中をミツキがさすってくれる。三億っていうお金を出してまで、なぜ僕を引っ張り出したいのか分からない。



「僕個人ってことは、事務所に入っていない僕は————」


「そう。まるまるふところに入れて大丈夫。源泉徴収げんせんちょうしゅうはあるけどね」



 視線を送る僕の瞳を見て、ミツキは良かったね、と。いや、そんなこと言っている場合じゃなくて、これはミツキにとってもチャンスなはず。税金を引かれたとしても、ミツキの違約金の足しにすれば、大きく前進するはずだ。



「じゃあ、やります。それで、ミツキの貯めたお金と合わせれば、ミツキの違約金が払えるでしょ?」


「シュ、シュン君、それはだめ。わたし個人の問題だから。シュン君にそんなお金払ってもらう訳にはいかな————」


「借金抱えた子をお嫁にもらえないよ。それに、ミツキと僕はもう一心同体なんだし」


「シュン君……」



 呆れ顔の高梨さんは、撮影スタッフに呼ばれて向こうに行ってしまった。残された僕とミツキは話すこともなく、沈黙の時間がその場を支配する。話すことがないわけではなく、話さなくても言いたいことが分かるようになってきたから。目を合わせれば微笑み合い、ため息を吐けば、もう、とミツキが声を漏らし、僕の右手にその華奢きゃしゃな左手を重ねた。



「君が倉美月春夜くらみつきしゅんやくん? 思っていたよりもしっかりしていそうだね」



 突然背後から声を掛けてくるダークスーツの男は、僕を一瞥いちべつするなりそう声を掛けて、ミツキに微笑みかけた。まだ二十代後半なのだろうか。それにしては、随分と堂々としていて貫禄がある。まさに、若社長。そして、その予想のとおり、楠川田賢二くすかわだけんじというIT会社の代表取締役は、取り巻きの中年の男たちに指示をしていく。まさに圧巻のオーラ。



「この度は、僕のような者にお話しをいただきありがたく存じます」


「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。それよりも、君はダンサーだったんだろう。病気で引退せざるを得なかったとか?」


「はい。不本意ながら……」


「そうだよね。俺も見たかったよ。君のダンス」



 微笑みかけるその顔は、どこか飄々ひょうひょうとしていて、その瞳は常に周囲を警戒しているようにも見える。射抜かれた部下は、まるで雪まつりで氷漬けにされた人間の像のよう。だけど、そこまで怖い人には見えない。懐柔かいじゅうさせるような優しい口調に対してのアンバランスな視線の鋭さは、トップに立つ者の証なのかもしれない。



「すいません。ご希望に添えられずに」


「だけど、今日は花神楽美月はなかぐらみつきさんと共演していただけるのでしょう?」


「はい。あの」



 なぜ三億もの大金を僕に、と訊こうと思った矢先、撮影スタッフがミツキを呼んだ。言葉を遮られた僕は、ひとまず深呼吸をする。僕のことを察したのか、楠川田社長はテーブルに書類を置いた。契約書のようだ。ざっと読んだ限りでは今回かぎりの契約で、報酬は三億円と確かに書いてある。だけど、どことなく怪しいと感じてしまう。なぜ三億もの大金を僕に使うのか。お金を稼ぐための広告なのに、お金を使ってしまっては意味がないのではないか。それも、こんな僕のような名前を知られていない、素人のような男に。



「なぜ自分が、こんな大金を貰えるのか、と思っているね」


「……はい」


「それは、倉美月君が世間の興味を引くからよ。余命幾ばくの王子様」



 僕の横に突然現れる感情のない顔の大女優は、僕の首の後ろに手を回して優しく抱きつく。キャラメルのような甘い香りを漂わせて耳元でささやく言葉は、連絡くれないから寂しいじゃない、と。誰が連絡なんてするか。新井木遥香あらいぎはるかのせいでミツキはどれだけ苦しんだと思っているんだ。


 新井木遥香の腕を振り解いて、僕は彼女に向き合う。そして、なぜ現れたのか、と訊く。だけど、返ってきた言葉は予想外のものだった。



「あなたと共演するために決まっているでしょう」


「は?」


「言っていなかったね。今回、花神楽美月さんと共演したあとに、新井木遥香さんとも共演してもらうことになるんだ。もちろん契約書に署名した後だけどね」


「どういうことですか? 楠川田さん!?」


「世間に認知度のある二人と君がタイアップしてくれれば、こちらも嬉しいのでね。そう、君は余命幾ばくの王子だ。当然、そういう報道がなされる。それに対して、君は余計なことを口にしないで欲しい。心移植すれば治るなんてことも言わなくて結構。ただ死に行く者として生きてくれればそれでいい。その慰謝料として三億もの大金を払うと言っているんだよ」


「————それが狙いか。同情票が欲しいということなんですね」


「世間一般を賑わすことは間違いない。それでしばらく話題は君とうちの広告で持ち切りだろうね」



 そんな契約に署名なんかしたくない。だけど、ミツキのためにも乗るべきだ。でも、ミツキと相談しないと。これはミツキにも関わってくることだし。



「分かりました。だけど、ミツキと話をさせてください」


「残念だけど、彼女は撮影中だし、俺も時間がない。今決断してくれないと困っちゃうんだ。大丈夫、君には迷惑を掛けない」



 引退をすぐにでもしたいミツキの助けになるなら。もし、ここで契約を断ってしまえば、ミツキの引退が遥か先まで遠のいてしまうかもしれない。再び過労で倒れてしまうことだってあり得る。

 それに、冬が過ぎて上手くいけば、僕は普通の高校生に戻れるじゃないか。なにを悩む必要がある。



 ————すべてミツキのためだ。



「分かりました。契約の件。締結ていけつしましょう」




 ★☆☆




「倉美月くん。話があるの。花神楽美月と別れなさい」



 お疲れ様でした、という怒号のような声で見送られる中、僕は新井木遥香の背中に視線を送っていた。この人の思惑が全く分からない上に、僕のことを敵視しているのではないかという行動にも疑問符が生じる。すべてのシーンが撮了さつりょうして安堵あんどの息を漏らすのもつかの間、新井木遥香は振り返りながら、そう告げる。僕には全く意味が分からなかった。



「嫌です。なにを言っているんですか。それに、この前の病院の件だって納得がいきません。なんであんなことをしたのですか?」


「ねえ。倉美月君は、どうにもならない相手と立ち向かわなくちゃいけない時に、逃げちゃう人? それとも最後まで抵抗する人?」



 控室の扉の前に貼ってある新井木遥香様という張り紙を剥がして、ビリビリに破り捨てた彼女は、廊下に紙吹雪を飛ばして僕を冷たく見つめる。その表情はまるで氷の女王のよう。ほこりを優しく吹くように紙吹雪を飛ばす彼女の吐息は、きっとてつく風だ。



「何を言っているのか分からないのですけど。どういうことですか?」


「花神楽美月はね、ある意味被害者で、ある意味当事者なの。あの子のスキャンダルはでっち上げよ」


「そんなこと知っています。ミツキに限って、そんなことするはず——」



 ゆっくりと僕に近づき、肩に手を置いた新井木遥香は耳元で囁く。誰が犯人か私は知っている、と。不意に新井木遥香の瞳を見た時、彼女は微笑んでいた。なにを考えているのだろう。この女は。いったい。



「でも、それが誰なのかを言うわけにはいかないの。でも、あなた一人を助けることくらいできる。今すぐ、あの子から離れなさい」


「————ミツキと一緒にいると、僕までなにか被害を?」


「そう。絶対に。必然的に。絶望的に」



 微笑んでいた瞳の奥が照明に照らされて輝いたかと思うと、細めた瞳を目尻に寄せて僕を見るその表情は険しく、鋭い切っ先のような言葉で僕を罵倒ばとうする。



「やんわりと忠告してやったろうがよぉ!!! なんで気付かねえんだッ!! あぁん。てめえ、こっちが優しく言ってんのに」


 

 しびれるように破裂する空気の振動が鼓膜を叩く。新井木遥香を中心に渦巻く重圧が、僕の胸を押し付ける。激震のような新井木遥香に圧倒されそうになるも、歯を食いしばってなんとか耐え忍ぶ。



罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせようが、僕は変わりませんッ!! 何がしたいのですか」


「……ひるまないのね。やはり、あなたは立ち向かう人みたい。いいわ。教えてあげる。鳥山志桜里とりやましおり風見碧唯かざみあおいに会いなさい。本当に倉美月君の花神楽美月に対する気持ちが変わらないなら、彼女たちが教えてくれる。私にできることはここまで。あの子たちから聞きなさい」


おっしゃる意味がすべて分からないのですが」


「とにかく、あの二人に会って、新井木遥香に言われてきた、と言えば分かる。このことは花神楽美月にはくれぐれも内緒にしておくのよ。バレると話がややこしくなるから」



 じゃあね、と言って控室に入っていく新井木遥香に何も言えず、しばらくその扉を眺めていた。僕の知らないところでミツキは何かとんでもないことに巻き込まれているのか。やはりミツキの拉致事件と関係することなのだろうか。




 ☆★☆




 お待たせ、と言って控室から出て来たミツキは、新井木遥香と一緒だった僕を疑うこともなく、僕の左腕に右腕を絡めて来た。今日の変装は、黒髪のショートカットのウィッグをつけてベレー帽を被った少し暗い少女をしているのか。珍しくアイシャドウが黒色で、眼鏡をかけていない。黒い軍服のようなロリィタファッションで、胸元の臙脂えんじの大きなリボンとフリルが特徴的だった。ゴスロリというファッション。正確に言えば、ゴスロリに近い上品な出で立ちといったところか。こういう服をきたミツキを初めて見たために、僕は固まってしまう。そんな僕に掛けるミツキの言葉は、どうシュン君似合う、なんて。



「似合うよ。なにを着ても似合う。でも、どうして、それを着ようと思ったの?」


「この前、実は一人でショッピングモールに行ったの。そしたらエクシーズファムっていうところのお洋服が中世ヨーロッパをイメージしたようなデザインですごく魅力的で……」


「————うん。それで買いだめしたのね」


「うん……ごめんなさい」


「あ、いや、なんで謝るの。可愛いからいいじゃない」


「一人で行っちゃったこと怒らないの?」


「怒らないよ。ミツキだってたまには一人で羽を伸ばしたいでしょ。ただ、気を付けてね。それと一応、行先は教えてくれると嬉しいかな」



 誰にでも隠し事の一つや二つある。それに、告げられない行先だって。僕は新井木遥香の言われたとおりに実行すべきか悩んでいるけれど、おそらくそうせざるを得ない。つまり、ミツキに言ったことを僕が破ることになる。本当に申し訳ないことだ。



「うん。シュン君ありがとう!! 今度からそうするね。ねえねえ、それでね。ショッピングモールでペアルックの人がいたの。すごく可愛くて。だから……ねえシュン君」


「まさか、したいとか……? 本気で?」


「…………ダメ?」



 付き合ってからもたまにしてくる上目遣いが可愛くて、つい僕はミツキのいいなりになってしまう。これは家にいても同じ。この魔力にあらがうことはできない。つまり僕はミツキの言いなり。悔しいほどに可愛い。



「仕方ない……今度じゃあ、服、見に行こうか」




 駅に着いて特急列車に乗り込む頃には、すでに青紫の闇が空にまとわりついていた。凍えるようなつむじ風で冷えるミツキの手を握り、コートのポケットに仕舞い込んだ。すぐに壊れてしまう大事な宝物をそっと包むように。



「そういえばシュン君、来週の三者面談は誰が来るの?」



 座席に座り、コートを脱いだミツキは棚に荷物を置いた僕が座り込むなり、そういてくる。そういえば、ミツキの面談には誰が来てくれるのだろう。考えてもいなかった。ミツキのお父さんはきっと来てくれるはずがない。そうすると、僕の姉さんか母さんが来るということになる。つまり、僕の場合、必ず姉さんが来るから必然とその流れになるのかな。



「姉さん。でも、来ると大変なんだよ……」


「変装して来ないの?」


「多少はしてくるけど、倉山咲菜くらやまさなそのものだからさ。気まずいったらないよ」


「ふぅん。そっか」


「ミツキは?」


「アスカさんに来てもらえたら、それはすごく嬉しいんだけど……ね」



 お父さんに会いたいミツキの心情は、僕には分からない。会えなくて悲しいことは確かだろうし、恋しい気持ちもわかる。だけど、今のミツキの家族は僕の家族だと思ってくれているなら、そうだとしたら、嬉しい。



「ねえ、ミツキはもう僕たちの家族の仲間入りをしているからさ。気兼ねなく言いたいこと言ってよ」


「甘えちゃっていいのかな。迷惑じゃない?」


「母さんだって、言っていたじゃない。娘がもう一人増えたみたいって。姉さんだってミツキのことあんなに可愛がってくれているんだし」


「————うん。ありがとうシュン君」



 だけど、やはりお父さんには会いたいはず。ミツキのお父さんはどこでなにをしているのだろう。一言だけでもいいから、声を聞かせてあげたい。でもそれが叶わないなら、僕たちが温かく受け入れてあげたい。この孤独な少女を。



 ミツキの肩を抱き寄せて、触れるミツキの髪が優しく僕の頬を撫でていく。ほのかにかおるラズベリーが美味しそうで、その唇を食べた。シュン君、と声を漏らすミツキが映る車窓の中のもう一人の彼女はとても悲しそう。



 いつの間にか寝てしまったミツキは、どんな夢を見ているのだろう。



 優しい母に抱かれて、笑顔の父に見守られている。そんな幻想の中に浸る夢の世界ができる限り長く続くように、僕は優しくミツキの髪を梳いた。何度も何度も。優しく。

 

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