霜夜の冬・ミツキの雪

 日本を発つ日を明日に控えた僕の心残りは、両手で数えても足りないくらいあって、そのほとんどが指の隙間からこぼれ落ちてしまった。だけど、どうしてもやっておきたいことがある。



 二月二八日。三月が春のはじめの日だとしたら、今日はまぎれもなく冬の終わりの日になる。明日になれば春の訪れを感じることができる、なんてことはまずない。そんなわびしい気持ちのまま僕は旅立つ。




 ————ミツキの誕生日を祝うこともできずに。




 僕とミツキは——永遠ではないにしても——離別しなければならない。お釈迦様の言う愛別離苦あいべつりくがこんなに切ないものだとは夢にも思わなかった。



「ねえ、シュン君。まだだめなの~~?」



 僕の部屋の前でつまらなそうに声を上げるミツキは、僕が部屋の中で何をしているのかを知らない。もう、今日しかゆっくりできる日ないのに、と半ば怒りを言葉の端々に滲ませていて、早くしなければミツキの逆鱗げきりんに触れる可能性もある。



 喫茶店のおじさんに借りた機械の中に腕を突っ込んで、割りばしを素早く回していく。魔法のように召喚されていく雪は、次第に僕の指ごと絡みついて離さない。アルコールで手指しゅしを除菌しているからまあいいか、と諦めの境地ではあったものの、ミツキの口に入るとなるとそれも悪い気がしてきた。



「よし、こんなものかな」



 もう、シュン君なんて知らないんだから、もういいよ。



 いよいよ泣き声に近づいてきたミツキに、入っていいよ、と告げると、ゆっくりと扉が開く。きし蝶番ちょうつがいを横目に、視線を部屋の中ほどに移すミツキは驚愕の声を上げる。



「は? え? なにこれ……ええッ!?」


「ミツキ、少し早いけど誕生日おめでとう!!」


「もしかして、これ一人で全部してたの……?」


「うん。ごめん。でも驚かせたかったから」



 綿菓子を紙皿に置いて部屋中に敷き詰めた僕の苦労は、ミツキの感嘆の声に溶けていく。また、天井から降りしきる無数に吊るされた綿菓子は、甘い香りの粉雪。幻想的な室内とは裏腹に足の踏み場がない。ベッドの上に座るのにも相当な苦労を要したのだけれども。



「いつか約束したでしょ。ミツキの誕生日には綿菓子で雪を降らせてあげるって」


「うん……したね。覚えていてくれたんだ」


「ただ、思ったより見栄えは良くないけど」



 はい、とできたての綺麗な綿菓子を手渡すと、ミツキは涙ぐみながら一口頬張った。やっぱり口の中ですぐになくなっちゃうね、なんて言って。だけど、こんなにあるじゃない。好きなだけ食べてよ、と僕が言うとかぶりを振ってミツキは何も言わなかった。ベッドで横に腰かけるミツキの頭を優しく撫でながら口にした綿菓子は、確かに雪のよう。



「そうだ、お腹いっぱいにしないでね」


「え? 綿菓子でお腹いっぱいもすごいと思うけど」


「確かにそうだね」



 待っていて、と言って綿菓子の隙間を縫って台所に向かい、冷蔵庫から取り出した箱は大きめのケーキが入っている。部屋に戻ってミツキに見せると、わたしの部屋で食べよう、って。確かに綿菓子まみれで、ケーキを食べるスペースもあったものじゃない。


 スマホで様々な角度から部屋の写真を撮ったミツキは、その綿菓子一つ一つを丁寧に綺麗なビニール袋に入れていく。シュン君を思い出しながら毎日食べるんだ、なんて言って。綿菓子って悪くならないのかな。そしたら、冷凍にするから、と。それは本当に大丈夫なの。



 ミツキの部屋で祝うハッピーバースディは、数日前のフライングであったものの、僕の気持ちは伝わったみたい。苺の代わりにラズベリーが沢山乗ったレアチーズケーキがなかなか見つからなくて。県庁所在地まで行って買ってきたことは内緒にした。ミツキはそんな僕を絶対に心配するから。



「ミツキ、そうだ、誕生日プレゼント。ごめん、気の利いたものを用意できなくて」


「え……うそ」



 ミツキの首に手を回した僕は、ぎこちない手つきでチェーンの留め具を結ぶ。プラチナのチェーンを伝っていくと首の下に飾られた銀色のペンダントトップは輝く結晶のよう。舞い落ちる雪の結晶は散りばめられたダイヤモンド。うん。まるでミツキの瞳のきらめき。



 雪は嫌いだろうけど、綿菓子のペンダントなんて売ってなかったから。なんて言うと、抱きついてくるミツキはささやく。シュン君ありがとう。大切にするね。綿菓子の件は冗談のつもりだったけれど、ミツキは本気にしたみたい。でも、雪の結晶のデザインが好きな僕にはマストバイだった。



 ケーキの表面を彩るスカーレットのカシスジャムの香りは、まるで薫るミツキみたい。切り出してしまうのが勿体ない、なんて言った僕に瞳を閉じたミツキが唐突にキスをする。甘いラズベリーの色に染まるキス。甘くてとろける綿菓子のようなスノウキス。



 スマホの動画で空間を切り出していくミツキは、僕とケーキを交互に撮って、プロさながらのアナウンスを入れていく。彼女のストレージは僕一色で、僕のスマホもミツキのデータで埋め尽くされていた。お互いに撮り溜めた大事なメモリーは、笑ってしまうほどふざけていて、笑い合っていて、切なくキスをして。スマホを投げ出していて。音声だけが残る動画の台詞は————愛している。



 どれも大事な思い出。ミツキのスマホのスケジュール帳には、喧嘩した日まで記録されていて、それすら大事な思い出だと語る。志桜里ちゃんに殴られた日、と書いた夏の日。朱莉ちゃんにシュン君共々怒られた秋の日。絶望した冬の数日間はシュン君がヒーローになった、と。



 春夏秋冬、どの日も喜びと悲しみに満ちていて、その都度キスをして。身を焦がすように肌を重ね合った日々は、どれもミツキの薫りに包まれて————僕は本当に幸せだった。



「君と出会えてよかった。僕は……例え死んでも、生まれ変わってもミツキを探しに行く。絶対に」


「————もうッ!! そんなこと……そんな……こと言わないでよ」



 泣きじゃくるミツキも愛おしくて、またキスをする。カーテンの隙間から漏れる影と光の揺らめきが、僕とミツキの瞳を交互に掠めていく。空高くそびえる光を辿ると、その先に見える世界はきっと手を伸ばしても届かないのだろうな、と頭をよぎる。だけど、あの光はこことアメリカのどちらも見ているはず。ミツキ、空は繋がっているんだよ。この空気も、光も、あの太陽も。そして月も。



 ————僕たちもきっと。



 だから、想い彷徨さまよう時は空を見て。きっと感じられるから。お互いの存在を。




 ★☆☆




 最後の夜は、ミツキのベッドに二人で横たわった。寒空のような凛とした空気が縦横無尽に張り巡らされる部屋で、お互いを抱き締めながら温め合って。温もりを感じるこの時間が永遠ではないことを知っていたけれど、今は永遠であって欲しい。



「ねえ、シュン君。はじめてしたときのこと覚えてる?」


「忘れるはずないよ。内緒で行った温泉だよね」



 熱帯夜の日、二人で見た月が綺麗だったよね。そう言って、横になりながらミツキが開けるカーテンの向こう側の闇夜にたたずむ雪のように白い月は、あの時よりも澄んでいた。月の光に照らされたミツキは、息を呑むくらい、すごくきれいだったね。



「お月見をした夜も月が綺麗だったよね。あの時は、シュン君が月を見て変身しちゃったんだ、って思ったの」


「え。なんで?」


「わたしこのまま食べられちゃうんだって思うくらい激しく求められたから」


「でも、初雪が降った日は、本当にミツキを食べたかったよ」


「食べちゃいたいくらい好きって言われた時は、お月見思い出したもん。ああ、またシュン君が変身しちゃったんだって。でも、やっぱり月が出てないと優しいシュン君なんだなって」



 思い出し笑いをしたミツキは口に手を当てる。僕は狼男じゃないよ。あんなに毛むくじゃらじゃないし。そしたら、今度は大笑いをする。毛むくじゃらのシュン君なら可愛いかも、なんて。



 腕枕をしたミツキの顔に、息が当たってしまうほど近づく。僕の唇に重なるミツキの優しい唇は、微かに震えていた。笑っていたはずなのに、少しだけ瞳が潤んでいて。今だけ、この時間だけは永遠だから、なんて言った僕の瞳も熱を帯びた。喉の奥に感じる、押し込めていた寂しさがこらえきれずに溢れ出る。すすはなが侘しさを加速させていき、そんな僕の頭を撫でるミツキも涙声だった。



「泣きなくないのに、泣いちゃうの」


「僕だって、ミツキともっと話していたいのに、思い出がぐるぐるしちゃうんだ」



 楽しいことを考えないと、と思えば泉のように湧き出るミツキとの思い出。こうなる前は、すべてが永遠だと思っていた。この時間は誰にも奪われないと傲慢にも思っていた。だけど、実際にひっくり返された砂時計の砂は限りがあって、わず一欠片ひとかけらの粒子も残さずに落ちようとしている今日という日は、いくら手を伸ばしても取り返しがつかない。時間が巻き戻ればいいのに、と何度思ったことか。



「シュン君が帰ってくるまでに、わたしね、やりたいことリスト作っておくね」


「————うん」


「いつか言ってくれた、ゼロから始める二人の物語は、今までよりも楽しくて、いっぱいお話して、なにも不安がらないで、みんなと同じように二人の時間を謳歌おうかするの」



 それでね、それで————。



 月の光に浮かぶミツキの横顔を見ながら瞳を閉じると、囁くミツキの声。それが夢の中のミツキが語り掛ける声だと気付いたのは、ミツキが寝言を言ったから。シュン君行かないで、と。夢の中のミツキは笑っていた。シュン君あの桜の木の下行ってみよう。あの紫陽花も見たいね。学校の裏の銀杏そろそろ黄色くなっているよ、行ってみよう。庭の桜と梅の木の葉っぱ落ちちゃったけど、春になるのが楽しみだね。



 巡る季節に君はいつも僕の手を引いてくれた。




 ☆★☆




 成田空港の広いフロアを抜けて、セキュリティチェックの前で立ち止まった僕と姉さんは振り返り、母さんと父さん、そしてミツキと向き合う。だけど、まだ時間はあるはず。



「姉さん、母さん、父さん。少しだけミツキと二人きりにして欲しい」



 僕の気持ちを汲んでくれた三人は、なにも言わずにベンチに向かっていく。行き交う雑踏の中で二人きりになった僕とミツキは数分間、なにも言葉を発することができずにただ向き合っていた。視線がぶつかり合うこともなく、ただお互いの爪先を見て洟を啜る。纏わりつく悲哀ひあいの念が身体を震わせていて、紅潮した顔は俯くばかり。視線を上げても零れる涙がしたたるうちは、再度視線をお互い相手の足元に戻すほかなかった。




 ————もしかしたら、これが永遠の別れになってしまう。



 

 別れの言葉を告げるべきか、それとも愛を囁くべきか。言葉を忘れてしまった脳はひたすら語彙ごいの海を彷徨う。感情の波を幾つも越えた先にある思考の大地は、もはや言葉などいらないのかもしれない。そう思うと、自然と重心は前方に傾いていて、気付くとミツキを抱き締めていた。


 優しく抱擁をしたミツキの身体はやはり震えていて、桜の木の下でミツキが愛を告げた時のよう。キスをしたミツキを抱き締めた僕は、僅かに震えた彼女を優しく受け止めて、その髪をいた。



 思い出の中の君はいつも美しくて。僕の手の中の君はいつも愛おしくて。




 舞い散る桜色が光に透けていた。


 それは、まるで雪のよう、に。




 ☆☆★




 シュン、ごめん、時間なんだ、と言った姉さんに無言で頷いてミツキの手を離す僕は、きびすを返して列に並ぶ。何も言えないまま。俯き加減で涙を拭って。ただ悲痛な叫びの風が吹きすさぶ胸中をなんとか虚無にしたくて。



「シュン君!! 絶対に、絶対に帰ってきて。わたしはシュン君が帰ってくるまで、もし、シュン君がおじいちゃんになっても絶対に、絶対に待っているから」



 その声に振り向いて駆け出した。抱きついたミツキが嗚咽おえつを上げようが、涙とはなで服を濡らそうが関係なく。溢れた想いがとめどなく僕とミツキの心を絡みつける。結んで離れない固結かたむすびのような絆は簡単に引き離せるはずもなく。



「ミツキ……辛いよ。ミツキと離れたくない。離れなくないよ」


「……シュン君。行って。ごめん引き留めて。でも、行って」



 僕を振り解いたミツキはそう告げる。いつかこうなることは覚悟していたけど、わたしはいつも覚悟が足りないね。一つ季節が終わる毎に思い知らされて。でも、これで最後。次にシュン君と再会するときは、もう覚悟なんていらない。そう信じている。帰ってくるときは、またここまで迎えにくるからね。だから、いってらっしゃい。わたしの王子様。




 離陸した飛行機から見る遥か地上のどこにミツキがいるかなんて分からなかったけれど、僕はずっと目で追った。海の上を飛んでいても、瞳を閉じて焼き付けた光景を心に描いて。



 ミツキ。次に会う日まで。



 元気でね。





 それでね、それで————季節をまた巡るの。



 シュン君あの桜の木の下行ってみよう。あの紫陽花も見たいね。学校の裏の銀杏いちょうそろそろ黄色くなっているよ、行ってみよう。庭の桜と梅の木の葉っぱ落ちちゃったけど、春になるのが楽しみだね。ここで写真撮ってくれるんでしょ。



 巡る季節に君はいつも僕の手を引いてくれた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る