チョコレートよりも甘い口づけを
年が明けてすでに二月も一四日になる何でもないその日。寒い手に手袋を
「アスカさん何も言ってなかったのに、どうして」
ショックが大きかったのだろう。ミツキは食い入るようにスマホの画面を見つめては嘆息した。小学生の時からの憧れの人で、今のミツキにとっては血がつながっていないとはいえ、お姉さんに変わりはないのだから。その人が芸能界から引退してしまうとは、いったいなにがあったのだろう、とミツキは唇を噛んだ。
「姉さんのことだから、きっと前々から考えていたんだろうね」
「まさか……わたしがシュン君の面倒を見るからって言ったのに。やっぱり信用されてなかったのかな」
「え……どういうこと?」
なんでもないよ、とかぶりを振るミツキの内心はきっと様々な想いを混ぜていて、感情のスープが底で焦げ付いているのかもしれない。失望なのか、不安なのか、悲しみなのか、よく分からない具材はドロドロに溶けたシチューのように、ミツキの心に中で煮立っている。僕から見るミツキはそんな表情だ。
「
「それは……きっとあの性格だし。僕も帰ったら訊いてみるよ」
坂の中腹あたりで、すでに僕の心臓は限界を迎えていて思わず立ち止まってしまう。そんな僕の背中を摩るミツキは、今まで以上に過保護なお母さんになっていた。
今日は学校休もうか。やっぱり、帰って横になろう。うん、そうタクシー呼ぶから。
だけど、僕はミツキの提案をやんわりと否定した。だって僕にはもう時間がないから。
「シュン、おはよう!! ミツキちゃんも!」
「
「——朱莉。おはよ。ごめん、先に行ってて」
息を切らす僕の隣を、
「それ、本命だから。手作り。じゃあね。義理チョコ配り忙しいんだからッ!」
苦笑するミツキは、僕の手の中にある赤い包みの箱を受け取ると、あらかじめ用意をしていたエコバックに入れた。それは何、と
「はあ? エコバッグに入れるほど義理チョコなんて貰えるわけ……」
「ならいいんだけどね。去年とかどうだったの?」
「去年はね、病院の定期受診が重なって休んじゃったんだ」
「じゃあ、貰えなかったの?」
「うん」
「家にも届かなかった?」
「あ……そういえば、帰ったら姉さんと父さんがチョコいっぱい持っていて食べていたような……」
それだ、と言ってため息を
昇降口付近に溜まっている女子たちは、僕の体調を知っていて、みんなが心配して声を掛けてくれた。学校に来られるのもあと数日。それを嘆き悲しんでいるわけではないにしても。寂しくなるね、と言ってくれる人がいたことに、僕の学校生活もそこまで悲観するものではなかったな、と思い出に
まるで
みんなきっと僕の体調を気にしてくれていて、
「シュン君は本当に鈍感王子なのよね……」
「どんかん王子?」
「いや、なんでもないよ。シュン君はシュン君だから、さ」
教室に入ってからも昇降口と同じように御餞別チョコをいっぱい貰って、僕は嬉しくて泣きそうになった。僕にチョコレートを渡してくる女子は、僕が泣きそうな表情をしていることに気付くと、え、そんなに嬉しいの、と貰い泣きをする。そうしている内に、なんだか変な空気が教室を漂い始める。やがて、教室はお葬式会場のように包まれる悲しみの色合いが強くなって、僕はいたたまれなくなった。僕を殺さないで。まだ生きているのだから。まるで僕が転校してきた頃のよう。
エコバッグに入りきらないチョコは、ミツキが持参したコンビニ袋に入れられていく。もう本当にどうするのよこれ、と言ってミツキは手際よく箱が潰れないように整理をして。
お互いを意識して離れていた春の頃が
放課後になると、ダンス部の練習に参加をする、と言って別れたミツキに手を振って僕は帰宅をした。学校で一日中授業を受けられたことすら奇跡に近い。息苦しさと動悸は、まるで僕の身体の中の時限爆弾のよう。
レッドオパールのような空に浮かぶ純白のパールの月の美しさに
風が冷たい。頬を刺して突き抜けようとする冷気は襲い来る戦場の矢のように、痛覚を刺激する。耳の冷たさに思わず息を吹きかけて温めた手袋でそれを覆う。昨日聴いたニューチューブのSad
きっと登校できるのも、多くてあと数回。もしかしたら、二度とこの坂を上ることも下ることもできないかもしれない。そう思うと、胸につかえるのは青春の
僕もみんなと卒業したかった。みんなと一緒に、将来を語り合いたかった。高校生活残り一年という月日が無情にも僕を拒絶する。僕はここで消えてしまうのだから。
————地面に舞い降りる雪のように。
★☆☆
誰もいないはずの家の鍵が開いていた。こんな時間に家にいるとすれば父さんだけれども。居間の引き戸を開けると、姉さんがロッキングチェアに座りながら外を眺めていた。そうか、姉さんはもう……。
神聖な教会の凛とした空気に差す、
「姉さん。引退ってどういうこと……?」
「——聞いたままよ。今日から一般人。
「なんで……姉さんには夢があったんじゃなかったの?」
「いいのよ。夢はまた見ればいいんだし」
意味深だった。また見ればいい夢。そんな台詞は夢を一度諦めなければ出てこない言葉なのではないだろうか。では、いったい何のために。しかし、それを訊いても姉さんは何も答えてくれない。ただヴァーミリオンに染まる姉さんは、その光の中で
しばらくすると、帰宅したミツキがただいまという言葉も発することなく姉さんに訊く。アスカさん、どうしたのですか、と。振り返った姉さんの瞳はまるでプラネタリウムを映し出すレンズの
「アスカさん……シュン君にはわたしが付いていきます。だから、引退な——」
「ミツキちゃん。あなたは高校を卒業して、大学に行きなさい」
「え……だってシュン君にはわたしが……」
「駄目よ。一緒にいたい気持ちも分かるし、それを否定するわけでもないの。でもね。この世の中、学歴がすべてではないにしても、教養は身につけなさい。世の中の上から下まで全てを見てきなさい。シュンができない代わりにあなたがするの」
「でも……もしシュン君が……」
「シュンは死なない。死なせないわ。帰ってきた時に、ミツキちゃんがもっと良い女になって、シュンを養えるくらいの女性になるの。芸能界を引退するミツキちゃんが、これまでの経歴になんて頼らなくても生きていけるくらいの教養を身に着けていれば、シュンだって安泰でしょ。ミツキちゃんがシュンのために尽くすのはそれからでも遅くないわよ」
立ち上がった姉さんは、ゆっくりとミツキに近づき抱きしめる。クラッククリスタルのような雫が溢れるミツキの瞳を、姉さんは指で拭って優しく頭を撫でた。姉さんの慈愛に満ちた表情は、僕と同等かそれ以上にミツキに注がれていて、まるで本当の姉妹みたい。
「姉さん……まさか僕のために引退なんて……?」
「違うわよ。シュンがアメリカに行くついでに、留学でもしようかと思って」
「アスカさ~~~ん。わたし、やっぱりシュン君と一緒にいたいです……」
もう仕方のない子ね、と言った姉さんはテーブルの上の箱の蓋を開けて、中のチョコを一つまみ。ミツキの口の中にまるで餌付けをするかのように放り込むと、ミツキは、おいし~いと言って頬を
「今は、スマホでどこにいても繋がれるでしょ。ミツキちゃん。それに、休みになったら遊びに来てもいいし。アメリカなんて飛行機ですぐよ。夏休みは毎日滞在してもいい。永遠の別れじゃないの。ね」
「————分かりま……した。でも、シュン君に毎……日電話してもい……いですか?」
当り前じゃない、と言って姉さんはまたミツキを抱き締める。
僕はその会話に入ることができずに、ただ俯いていた。
☆★☆
ミツキの部屋のソファに腰を下ろした僕は、隣に座るミツキの顔を見ることができなかった。しばらくミツキと離れなければいけないことは頭では理解していたものの、実際に
「シュン君……これ」
「え。もしかして、チョコレート?」
「うん。昨日がんばって作ったんだ」
「いただきます」
「……うん。おいしいといいんだけど」
これを作った時のミツキはどんな気持ちだったのか。僕に寄り添うと言って聞かなかったミツキの表情と重なってしまい、甘いはずのチョコレートにしょっぱいさが混ざってしまって。
美味しいのに切ない。切ないけれど、甘い。甘いけれど——甘いのだけれども美味しい。心を
「すごく……すごくおいしい。うん、すごい。ミツ……キのチョコレート……美味しい」
「……良かった。ありがとう……シュン君」
「シュン君……離れていても、どんなに離れていても近くにいるから。絶対に近くにいるから」
「————ミツキ。ミツキ。ミツキ、ミツキミツキミツキ」
ミツキに抱きついて泣いた。こんなに弱々しい自分をさらけ出したのはいつ以来なのだろう。これまでも何回かあった気がするけど、そんなことはもうどうでもいい。抱きついた腰が細くて一周手を回して強めに抱きつく。シュン君待っているからね、と言って僕の頭を撫でるミツキの手が柔らかくて、余計に涙が溢れる。
シュン君が元気になって帰ってきたら、したいこといっぱいあるんだから。
再び顔を上げた僕の口の中に入れた、ミツキのチョコレートはやっぱり甘くて。僕の身体を優しく押し倒したミツキの口づけは、チョコレートよりも甘い。
僕の腕を掴んで逃がさないミツキを見上げた僕の映るその瞳は、すべてを包み込む海のよう。優しさで溢れる温かい海水が僕の身体を覆って、ゆらゆらと流れていく。再び口づけをしたミツキの指が僕の頬に触れて、僕はミツキの髪を掻き上げた。指と指の隙間から零れる絹のような感触が気持ち良くて、何度も撫でていく。
シュン君を忘れないように。
ねえ、今日はいっぱい温めて。
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