巡る季節に告げる言葉・三月の雪

プロローグ 朧月夜の三月

 心焦がす春夜しゅんやを見送った充希みつきの魂は、抜けてしまった炭酸の気泡のように茫然ぼうぜんと冷たい空気に溶け込んでいく。朧気おぼろげな瞳の中にはすでに人格など宿っていないのではないか、と思えるほど虚空が描かれていて、押せば倒れてしまう不安定な人形のように足取りはおぼつかなかった。


 尊敬する飛鳥あすかも、心から愛する春夜も失ってしまった今、充希にとって必要なものは休息なのかもしれない。ただし、眠ることができるのであれば、だが。一人ベッドに仰向けになって眺める天井には、春夜がいた日々がプロジェクターから流れるサイレント映画のように映されていて、瞳を閉じて、再び開くころには染みとなって消えていく。



「シュン君……会いたい……会いたいの」



 ぽつりと呟く言葉に込められた悲哀ひあいの感情も空しく、その声が誰に届くこともない。ただ一人、部屋の中で感じる孤独の旋律は、静寂の中に消えていく。例え、スマートフォンの通知を告げる電子音が鳴り響いたとしても。ゼンマイの切れたブリキの玩具のように瞬きしかできない人形は、ただ涙を流すだけ。その行為すら誰も慰めてくれない。



 暗黒が告げる時の拠り所は、黄昏と夕闇を抜けた月明かりの美しい晩。眠ることすら忘れた充希は、ふと顔を上げると見える、雲を溶かす朧月夜おぼろづきよに呟く。綺麗、と。春夜と見たいつかの満月の日に重ねた肌を思い出し、自分の肩を抱く充希は、再びその温もりを思い出して涙する。シュン君、今頃どうしているのかな。辛い思いしていないかな。もう着いたのかな。


 はっと思い出しスマートフォンを手にした充希は、メッセージアプリを開いて春夜の存在を探索する。文字の秘境に隠された未踏みとうの地を探すように。だが、旅立つ前の春夜の軌跡きせきしか見つけることができずに、落胆したミツキはスマホを置いて、再びベッドに突っ伏した。


 

 しかし、異変に気付いたのは再び手にしたスマートフォンのアルバムを開いた時。春夜との思い出に浸ろうと開いたアルバムの海の中、充希自身に身に覚えのない写真が含まれていた。サムネイルの一番下、最新の写真は充希の記憶を辿れば、間違いなく二月二八日に撮った春夜と自分のケーキの前でのツーショットだったはず。それがどういう訳か、春夜が一人で映る写真になっている。いぶかしみながら写真を開くと、大きい瞳だけど少し切れ長で、長い睫毛まつげ、薄い唇がわずかに開く笑顔の春夜が手にする白い紙に書かれた暗号のような文字。その内容は、プレゼントを調べろ、と。


 春夜が誕生日にくれたペンダントはダイヤモンドが輝く雪の結晶。首の後ろの留め具を外し、雪の結晶をまじまじと見る充希は、それに秘密があるとは到底思えないばかりか、その輝きに春夜の瞳を思い出してしまい、再び視界がにじんでしまった。ダイヤモンドが放つ月明かりにきらめく、にじ光芒こうぼうを描く硝子がらすにも似た様相は、皮肉にも美しかった。



「何もないじゃない……」



 独りつ充希は涙を拭って、春夜から渡されたペンダントケースを開くと丁寧に雪の結晶を収めていく。



「あれ、これって」



 チェーンを裏蓋に引っかけてしまい、思わず慌てて直そうとするも、ベルベットが剥がれ落ちてしまう。壊したことに落胆をする以前に、自分の不器用加減を呪いつつ、蓋が戻らないことに充希は絶望をした。だが、ベルベットの裏にQRコードが印刷された紙がセロファンで張り付けられていたことに気付き、目を見開く。おぼつかない手でスマホのカメラアプリを起動して写すQRコードのURLは、春夜の動画がアップロードされたサイトだった。



『ミツキ、これを見ている頃には僕は旅立っているよね。うん。きっと、最後はちゃんと挨拶できないだろうから、こんな形でお別れを言うことになっちゃってごめん。あ、違うか。お別れじゃないよね。行ってきますのほうが正確かも』



 ミネラルウォーターのペットボトルを飲む春夜は、唇を舐めて、少し長めの瞬きをする。言葉に詰まった彼の声色が、微かに裏返った気がした充希は、春夜のその姿に胸が詰まる思いを隠せずにはなすすった。



『まずは、お金の話。これは重要だからよく聞いて。花山健逸はなやまけんいつさんに頂いたお金は君の名義で作った口座に入っている。その通帳と印鑑は、今から言う貸金庫に入っているから、必ず受け取って欲しい。その貸金庫の鍵は、僕の部屋の防湿庫の中判フィルムカメラの中に入っているから。分からなければ、父さんに訊いて』



 毅然きぜんとした春夜は、裏返る自分の声にかぶりを振って咳払いをすると、再び話し始める。今度は僕に万が一のことがあったら、ね。聞きたくない台詞に耳を塞ぎたかった充希は、瞼を目一杯塞いで流れる涙を拭うことはせずに、ごくりと唾を呑んだ。なんでそんなこと言うの、と。



『僕が死んだら、僕の財産はすべて君に譲る。ニューチューブで得た収益と書籍の印税、それに昔出演していたイベントの収入が多少あるんだ。額はそんなにないけど、何かの足しにして欲しい。それくらいしかミツキにしてあげられることないから』



 馬鹿、と呟いて春夜の映るスマートフォンを抱き締めた充希は、動画が停止してしまったことに我に返って、再び視聴を続ける。まるで遺書のような動画を残した春夜に怒りたい気持ちを抑えて、再び視線を落とした。



『ミツキ。出会ってからずっと、今まで君無しの生活は考えられなかった。だけど、ここでピリオドを打つよ。僕に構わず、君の人生を送って欲しい。僕が君の、君にとってのかせになってしまうのなら、遠慮なく僕に別れを告げてくれても……別れて……くれ……ても……いいか……ら』



 耐え切れない、こんなの、こんなの耐え切れない、と喉が擦り切れて血反吐ちへどを吐くかと思うほど叫んだ充希は、スマートフォンを投げつける。壁に当たって落ちるスマートフォンから流れ続ける、春夜の声に混じる静かな叫びが聞こえた気がした。ゆっくりと近づき、拾い上げた充希は、再び視聴を続ける。



『それで君が幸せになるなら、僕も幸せだから。本当に、ごめん。次に生まれてくるときは元気で何も心配しない身体で生まれたい。そしたら、ミツキのこと幸せにしてあげられるかもしれないのに』



 深く息を吸い込んだ充希の肺が冷たい空気で満たされる頃には、動画を停止していて、吐き出す煙炎えんえんのような息に焦げた意識が、素早く指をフリックさせていく。掛けた先はシュン君と書かれた番号。しかし、応答することはなく、空しく響く呼び出し音に充希はため息を吐いた。スマートフォンを持つ手は震えていて、下唇を噛む歯も小刻みに揺れる。



 すぐさま掛かってくる電話は、春夜のもの。応答のアイコンをタップして瞳を閉じ、鼻から吸った息をゆっくりと吐いて、充希はスマートフォンを耳につけた。



 シュン君の馬鹿ッ!!


 別れるなんて次に言ったら、絶対に許さないんだからッ!!


 だから、だから、そんなこと言わないで。シュン君に捨てられたら、わたし、死んじゃうからねッ!!


 わたしの人生はシュン君なの……。シュン君そのものなんだから。




 その後、充希は毎日電話を掛けたが、彼の元におもむくことはなかった。会えば辛くなるから、と。電話こそ毎日したが、会いに行きたい気持ちを必死にこらえる日々は、充希にとって辛い時間でしかなかった。会いに行きたい。だが、会えば別れがつらい。会ってその都度、胸を痛めることに耐えられる自信がない。だから、春夜の残り香がめぬ部屋で一人、孤独に耐え抜いた。会いたい気持ちは冷めることなく、むしろ募る想いがその愛情を深めていく。


 

 春夜の手術に際し、マッチングテストの不適合という残酷な告知に何度も彼を電話口で励まし、ともに乗り越えた。弱音を吐かない春夜もさすがに心が折れてしまい、充希は自分が近くにいないことを心底悔やんだ。




 ————気付くと二年の月日が流れる。




 白い壁の中で絶望する春夜に今すぐ会いたい。



 ミツキがそう思う矢先、春夜が倒れた。そして、今夜が最後のマッチングテストだった。




 悲痛な叫びを上げて、充希は祈る。神に。仏に。




 ————亡き母に。



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