芽吹く春・ミツキの告白

 離れの上がりまちを踏みしめて、ミツキの後をついていく。部屋の引き戸を開けると、仰々しい木製の椅子が、引き出しのやたらと多いテーブルを挟んで二つ置いてあり、壁際に黒い革のローソファーが配置されていた。ミツキの来る前の物置のイメージはなく、どこかの隠れ家的なカフェを彷彿させる部屋だ。



「ミツキちゃんのイメージとはちょっと違うね」


和佳子わかこさんがすべて買ってくれました。本当に倉美月家くらみつきけにお世話になりっぱなしで」



 身寄りがないミツキを、母さんは大層可愛がっているみたいだ。自分の娘のように接していて、とても他人とは思えない、と話していた。ミツキを見ていれば、母さんがそう考えるのも納得がいく。人間的によくできた子、というのは高校生には少しばかり早い誉め言葉かもしれないけれど、僕なんかに比べればよほど大人である。



 冷たいものでいいですか、と訊いてきたミツキに相槌を打つと、彼女は隣の部屋に向かっていく。きっと、寝室に冷蔵庫やら、生活する家電が置いてあるのだろう。その背中を見送ると、僕は立ち上り、探索するつもりはないのだけれどつい見回してしまう。よく整理整頓された部屋で——この部屋に限れば——余計な私物がほとんど目につかない。



「お茶でいいですか?」


「うん。ありがとう」



 何気ない会話だけど、どうしても僕は昨晩のことが頭から離れずに、ミツキの瞳を見ることができなかった。彼女の言った言葉は僕の頭の中を悠々と泳いでいて、もし、その硝子玉がらすだまのようなブラウンの瞳を見てしまえば、間違いなく心臓をめがけて急降下してくる。



 ————キスして。



 逡巡しゅんじゅん。そう、一言でいえば逡巡だ。今すぐにでも目の前にいるミツキを抱きしめて、その薄い桃色の唇を奪いたい。柔らかい肌の体温を感じたい。君をずっと感じていたい。



「シュン君……? どうしたのですか?」



 ミツキの言葉が僕の描いた世界を粉々に砕く。すべて崩れたあとの欠片は、拾おうとした僕の手に刺さって、後悔という流血が世界を真っ赤に染める。考えれば考えるほど辛くなるのは自分だ。



「いや。なんでもないよ」



 そうですか、と呟くミツキに、僕は俯いて何も言葉を掛けられなかった。話したいことは沢山あって、この時間を大切にしたいのに、頭の中に志桜里が現れる。今日は、悪いことをしてしまった。せっかく会いに来てくれたのに可哀そうだった。もしかしたら、スマホにメッセージが来ているかもしれない。だが、スマホは部屋の片隅に置き去りにされたことを、きっと今頃呪っているだろう。やはり、ミツキとの時間はスマホに囚われずに大切にしたい。



「そうだ。来週はさくら祭りですよね。シュン君はもちろん行くのですよね?」


「うん。朱莉たちの活躍は一応見ないとね」


「何時からなのですか?」


「たしか、一〇時すぎに出演って、言っていたような」


 ミツキはバックから手帳を取り出して、予定を確認し始めた。ああ、やはりこの日でした、と言って、手帳と食い入るように見ている。なにか都合が悪いのだろうか。



「その日、事務所の人が来るんです。でも、午後でしたので大丈夫ですね。でもせっかくのお祭りなので、予定をずらしてもらえないか、確認してみます」


 事務所の人が来るという大事な予定を、そんな理由で変更して大丈夫なのか、と無意識にミツキの手帳に視線を注ぐ。再びバックにしまわれる手帳から一枚の写真が宙を舞いながら床に落ちた。魔法の絨毯じゅうたんが世界一周から帰ってきて、宮殿の中庭にゆっくりと舞い降りるように、僕の足元をかすめていく。僕は屈んでそれを拾い上げた。



 ————え?



 見たかったわけではないのだが、その写真がちょうど僕の視界に入る。フレームに収まるツーショットは、信じられないくらいに僕の瞼の裏に焼き付く。フラッシュバックというのが正解かもしれない。こんなことがあっていいはずがない。なんで、これをミツキが持っているのか。信じられなかった。



「これって、なんでこれをミツキちゃんが?」



 ミツキは答えようとはせずに、ただ下唇を噛んでいた。ようやくミツキの顔を見ることができたのに、今度はミツキが俯いたまま、顔を上げようしない。それもそのはずだ。隠していたわけではないのだろうが、ミツキは僕をだましていた——いや、そうでもないかもしれない。告げる機会がなかっただけだろう。



 ————写真には僕が写っていた。



 その日、僕はステージを終えて、いつも通り写真をせがまれたのだろう。あどけない顔の美少女が、アッシュブラウンに染めた髪の僕と一緒に写っている。嬉しそうな表情でピースサインをしている彼女と笑顔の僕。まさか。まさか、この少女が————!?



「これって、ミツキちゃんだよね?」


「……はい」


「なんで、僕と写っているの?」



 よく考えれば、自分の質問がおかしいことに気付く。僕は盗撮されたわけではない。同意の上で写っているのだから、僕が忘れていることのほうが酷い、とミツキに思われても仕方がないかもしれない。だが、そうは言っても、ダンスのイベント後は記念写真を撮ることが多く、大多数の中の一人を覚えていることのほうが難しい。



「ダンスを観に……行ったから……です」



 まるで尋問だ。やってもいない罪を無理やり吐かせようとしている刑事役が僕で、ミツキは冤罪を被る可憐な少女といったところ。むしろ覚えていない僕が罪を告白するべきなのに、ミツキは僕を責めようとはしない。神の前で、裁きを今か今かと待ちわびている従順な信徒のようだ。うん、祈る前に許す。今までの罪をすべて許してあげたい。それ以前に罪なんて犯していないだろうけど。



「志桜里を観に来たんだね。それで僕と写真を?」



 この時、まだ花鳥風月プリズムZは存在していない。鳥山志桜里とりやましおり花神楽美月はなかぐらみつきも、活動はしていたはずだが、今ほど目立っていたのかといえば否定せざるを得ない。だから、志桜里も僕と一緒にイベントに出演していたし、ミツキが変装無しで出入りしていたとしても、全く問題はなかったはずだ。



「……はい。こんなこと言っていいのか分からないんですけど」



 どれだけ身体中の水分を奪われてしまったのか、ミツキはペットボトルのお茶を半分近く飲み干した。口を離すと、それまで肺で停滞していた二酸化炭素で部屋が満たされるのではないか、と思えるほど吐き出す。俯き加減でゆっくりと瞳を閉じて、もう一度、ため息を吐いた後にまぶたを開いた。意を決したように、僕を真っ直ぐに見つめる。その瞳に僕は負けそうになって、目をらしたかったが、やはり受け止めないといけない。



「一目惚れでした……。倉美月春夜くらみつきしゅんやさん、という存在を初めて知って。それから毎日ニューチューブを観ました。ごめんなさい。本当は初対面ではなかったのです」


「————え。そ、そう。ごめんね。全然覚えていなくて」



 かぶりを振るミツキは眉尻を下げて、気まずそうに僕から視線を逸らした。一目惚れなんていう言葉を、僕は額面通りに受け止めることができない。ただ、目の前にいるミツキが、僕が彼女を見つける前に自分を見つけてくれていた、という嬉しさは確かに大きかった。しかし、結ばれることがない自分とミツキを繋ぎとめるくさびにはなるはずもなく、やはり素直に喜べない。



 ————有頂天になればなるほど、落胆したときの反動が大きく、僕はきっと押しつぶされてしまう。



「少し、散歩に行きませんか。シュン君にお話ししたいことがあるのですが、ここは静かすぎて、その……」


「うん。分かったよ」




 散歩と言ったのに、なぜかバスに乗ってイオンを過ぎた先のバス停で降りた僕とミツキは、目の前の光景に恍惚こうこつとしていた。


 広大な敷地に巨大な衛星アンテナがいくつも配置されていて、その下は公園になっている。桜の木が一面を春色に染め上げていて、柔らかい風で舞い上がる薄ピンクが視界を遮った。乱舞する花びらの中で、歩みを進めるミツキは僕の方を振り返り、優しく微笑む。



 変装をしていても、どんなに存在を消していても、彼女の周りを漂う香りが、いつものフローラルではなく、甘い、とても甘いストロベリーだったとしても、ただただ美しかった。



 ————僕はこの光景を一生忘れない。例え、君と結ばれなくても、君が他の誰かと結ばれて、遠くに行ってしまったとしても。僕は君を忘れない。好きだよ。ミツキ。



「もう少し、奥に行ってみましょう?」


「うん」



 芝生の上で団らんをしている家族連れや、桜を観に来たカップル、走り回る子供たち、どの人たちも喜びに綻んだ顔をしていて、春という季節に幸せを全身で浴びていた。午後の日差しがまぶしくて、僕は顔をしかめる。少しだけ前を歩くミツキの表情が分からなかったけれど、笑っているのだろう、きっと。



 シュン君話したい事があるの。わたしね、もう切なくて、悲しくて、どうしたらいいのか分からないの。シュン君、お願い。聞いて。シュン君、わたしね、わたし。



 ミツキの輪郭を切り取る逆光の中、ミツキは————泣いていた。こんな春の、桃色の、美しい季節なのに、泣かないで。悲しまないで。



「シュン君のことが……」


「……うん」



 逆光の輝きが透けた花びらの隙間から差していて、ミツキの顔に優しく語り掛けるように、光の中で揺らめく影が浮かび上がる。まるでレンズ越しのフレアのように、ミツキの涙が煌めいていて、美しい空に浮かぶ彩雲さいうんを映し出す硝子玉のような目が、僕を見つめていた。零れた涙は影の中に消えていき、濡れた頬はそのままに、ミツキは呟く。



「シュン君のことが……好きです」



 僕とミツキの前を花びらが吹き荒ぶ。時間が止まってしまった、僕とミツキの周りはどれだけの光が満ちていただろう。少しだけ湿っていた花弁がミツキの髪を滑り落ちて、再び時間が動き出したときには、僕は、もう抑えきれなかった。



「……ごめん」



 少し意地悪だったかもしれない。そういう意味じゃなかったんだ。でも、僕は自分の気持ちに素直になりたい。だから、まずは、君の気持ちを確かめたかったんだ。


 ミツキは顔を両手で覆って、呼吸は上半身を大きく動かしているのに、指先は小刻みに震えていた。


 だから、聞いて。違うんだ。



「ミツキちゃん、そうじゃなくて」



 指の間から瞳を覗かせて、僕の顔を見るミツキはどんな想いなのだろう。苦しませるつもりなんてないのだけれど。



「僕も……ミツキちゃんのことが好きになっちゃったみたいなんだ。でも、聞いて。僕がミツキちゃんのことを好きになってしまったら、きっとミツキちゃんを苦しめることになると思う」


「そ、そんなことにはならないです……そんなこと」


「だから、僕は君とは付き合えない、って思っていた」


 でも、と続けて、僕は言葉に詰まる。もし、これを言ってしまえば、本当にミツキを苦しめてしまうことになるかもしれない。姉さんの言う通りだ。何が後悔なのか、未来にならないと分からない。僕はきっと、ここでミツキを離したら後悔する。でも、それはミツキにとって良いことかもしれないし、そうではないかもしれない。未来が知りたい。ミツキは、花神楽美月は、どうなってしまうのか。



「シュン……君?」


「でも————でも、それでも、自分の気持ちに従えば、ミツキちゃんが。ミツキちゃんのことが好きだ。だから、僕は、君のものになりたい。君を僕のものにしたい」



 手のひらに爪の痕が残るほど握り拳を作っていて、身体は震えていた。呼吸は乱れて、今にも卒倒しそうなほど血流が巡り、視界はにじんでいく。



 気付けば、ミツキが僕を抱き締めていた。きつく、力強く、まるで解けない知恵の輪のように心が絡みついていて、離れそうにない。もう後戻りなんてできなかった。後悔はしているし、もしかしたら、ミツキの人生を変えてしまうかもしれないと、恐怖におののきさえした。だけど、ミツキは僕が守ると決めた。だから、僕はミツキを必ず救い出す。きっと僕がミツキと出会ってしまった運命は、そこに僕の役割があって、僕の生きる意味なのかもしれない。



「シュン君。ありがとう。本当にありがとう。……大好き」


「ミツキちゃん、僕のほうこ……」



 ミツキの唇はとても柔らかくて、暖かいけど、少し冷たくて。優しい薄桃色の感触が、僕の気持ちをゆっくりと解いていった。すべてどうでもいい。ただ、ミツキを奪いたい。ミツキを強く抱きしめて、すべて奪い去りたい、とさえ思った。


 桃色の花弁が頬に触れて、風がミツキの髪を弄び、僕の鼻をかすめていく。少しくすぐったいけれど、ミツキの華奢きゃしゃな身体を強く抱きしめることを止めることができなかった。



「シュン君って、少しいじわる」


「え?」


「だって……学校でも、仲良い子多いんだもん」


「ごめん」


 うん、いいよ。これからどうしようね。どうしようね。なかなか会えないしね。え、毎日会えないの。だって、家族の目もあるし。泣いちゃう。泣かないでよ。でも、会いたいの。じゃあ、内緒で会おう。ほんと。うん、ほんと。


 ……シュン君大好き。


 僕も……。


————————

【お知らせ】

ミツキ視点の物語「一目惚れの憧れ男子の家に居候して相思相愛になった件。【染め上げてよ王子】」を公開しました。こちらは、ミツキの心情がよく分かるように書いております。もし、興味のある方がいましたらチェックしてみてください。

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