わたしの部屋に来ませんか

 朱莉あかりの背後で、ハンカチで涙を拭い、なにごともなかったように笑顔に戻るミツキの表情は、唇をきつく閉じて、えくぼができるくらい頬に力を入れていた。僕と目が合うと無理やり頬をほころばせて僅かに口が開くも、鼻をすすることによりすべてを否定していく。



「いや、まあ、僕が悪い。怒りたければ僕を怒ればいいよ」



 朱莉という荒神をしずめるには、米や酒では無理だ。僕が生贄いけにえになれば、朱莉はそのうち機嫌も直るだろうし。それに命までは取られないだろう。多分。



「あの花山さんが泣くなんて、よほどのことでしょ!? シュンは……え? 鳥山志桜里とりやましおり……さん?」



 僕の隣に座っている志桜里に気付き、朱莉は急激に声色のトーンを下げていく。急激に失われていく熱は、志桜里というドライアイスに冷やされて、身体中のオイルが固まってしまったのだろう。ぎこちなく動くブリキのおもちゃのように、震えながら僕の向かいに座ると、突然、朱莉は志桜里の手を握った。志桜里は眉を潜めて、朱莉を凝視したあとに、僕に視線を投げかける。誰、こいつ、と。



「えっと、この店のオーナーの娘。怜さんの妹の野々村朱莉」


「と、鳥山さん。あ、あたし、あなたのファンなんです!!」



 正直、僕は驚いた。朱莉が志桜里のファンだったなんて、つゆも知らなかった。そういえば、好きなアイドルにあこがれてダンス部に入ったと聞いたことがあったような。まさか、それが志桜里なのか。



「あ、ありがとうございます」


「差し出がましいのですが、あとでサイン貰ってもいいですか?」



 朱莉の失速する怒りに、ミツキは行き場を失って、ただ口を開いていた。あまりの変わりように唖然としていて、仕方なく朱莉のとなりに座るとレモネードを一口含む。レモンとミントがほどよく溶け合っていて、ミツキの感情のすべてを押し流してくれるといいな。



「あ、はい。それはいいんだけど。すごい剣幕だったのに、もういいの?」



 志桜里の余計な一言で朱莉は、そうだった、と思い出したように僕をにらみつける。風神と雷神を掛け合わせたような形相で、僕の顔を覗き込み、呪うような声で告げる。



「花山さんになにしたの? 場合によっては——」



 グミ攻撃なのか、アイスを三六五日おごらされるのか、またはオットマン役の奴隷にならねばならぬ、のか。どの道、生き殺しだ。学校に行けば、きっと僕の噂が広がっている。花神楽美月はなかぐらみつきを泣かせた男。極悪非道。女の敵。生きる価値無し。失せろ、カス。——酷すぎる。



「違うの。朱莉ちゃん、違うの。わたしが悪いのです。志桜里ちゃんとちょっとだけ意見が食い違っちゃっただけで……」


「もういいよ。シュンとは話したから。約束もしたし。だから、もうこの話はやめにしよう?」


「約束? どんな約束したのですか?」


「倒れるまでダンスはしない。志桜里は、ミツキちゃんの傍にいてあげて欲しいって」


 僕が志桜里の代わりに答えると、ミツキはまた泣きそうな顔をして僕の袖をまんだ。もしかしたら、抱きつきたかったのかな、なんて自意識過剰にも思ってしまう。昨晩の出来事が脳裏をよぎり、余計に意識してしまうのだ。そして、ミツキも僕と同じなのかな。



「ミツキってもしかして、シュンのこと好きなの?」



 槍で心臓を一突きされたように、僕は志桜里の言葉におののいていた。昨日の出来事を考えていたタイミングで突かれるとは、まるで不意打ち。味方だと思っていた側近に、突然ふところから取り出されたナイフで首をかれたようだ。横を見て、さらに別の側近に脇腹を刺された気分になる。ミツキが、真顔で何も答えなかったからだ。俯いてしまい、また口をきつく閉じる。その様子からすると、ミツキは否定する気がないのか、それとも言葉を選んでいるのか。伏兵からミツキを守ることが、当事者の僕にはできない。



「ちょっと、話が見えないんだけど、鳥山さんは、シュンと知り合いだったということなのですか?」


「ええ。幼馴染なので、そういうことになるかな」



 朱莉は嘆息して、半開きになった瞳で僕を見る。決して睨みつけてはいない。これは、呆れと怒りが半分ずつ含まれていて、昼下がりのドラマの中で浮気をされた妻の目だ。しかし、僕は朱莉の夫でもなんでもない。そんな目で見られても、僕は謝ったりしないぞ。お小遣いカットだってされる筋合いはない。



「まあ、本人を前にして言えないよね。もういいわ。私帰る。ミツキ、ごめんね。私、すこし性格悪いよね。分かってる。でも、私の気持ちも分かって」



 立ち上がる志桜里に顔を上げ、ミツキはかすれた声で待って、と呟いた。酷く打ちのめされたように、悲壮感たっぷりで眉尻を下げている。親友を失うかもしれない、と喉の奥で引っ掛かっているわだかまりを吐き出したいのだろう。



「志桜里ちゃん。わたし、志桜里ちゃんのことが好き……です。でも、それと同じくらいシュン君のことも好き。今日も会えて嬉しかった。なのに」


「私も好きよ。ミツキ。でも、それは、シュンのとは違う。シュンのことは愛しているの。ただそれだけ。じゃあね」



 志桜里はそう言って、俯いたまま店を出て行った。志桜里を追うべきか、それともミツキを慰めるべきか。僕はどちらもできずに、ただ茫然ぼうぜんと座り込んでいることしかできなかった。なんでこうなった。やはり、僕のせいなのか。



「なんとなく状況は分かったけど、なんか複雑」


「シュン君ごめんなさい」


「なんでミツキちゃんが謝るの。すべて僕がはっきりしないから」



 ゆっくりとかぶりを振って、ミツキはしばらく茫然としていた。ここがネイキッドオータムカフェではなく、二人きりの場所だったら抱きしめていたかもしれない。僕もどうしようもなく不安だった。志桜里とミツキが喧嘩別れをしてしまったことに、ひどく心を痛めていた。結局、慰めて欲しいのは自分なのかもしれない。気付くと、すでにミツキに依存している。一番つらいのはミツキと志桜里なのに。




 しばらくすると、怜さんが大皿に乗ったパスタを運んできた。レモンとチーズがまぶされていて、オリーブオイルがバジルと絡み合っている。見たこともないパスタに、朱莉は一瞬表情を明るくさせたが、怜さんを見るなり、キモい、と呟く。



「反抗期だな。朱莉。よし、今日は特別に抱擁してあげるから、おいで」


「マジでキモい。二次元オタクのシスコンは、あっちいってて。本当嫌」



 朱莉と兄のやり取りを初めて見たミツキは、呆気に取られていて、朱莉と怜さんを見比べるように視線を泳がせる。よく見れば、朱莉と怜さんは似ている。兄妹だから当たり前なのだが。吸血鬼と猫というまるでハロウィンのような組み合わせは、想像しただけでも可笑しい。今年のハロウィンは絶対この二人にコスプレさせよう。



「花山さんには、あたしがいるじゃん。だから、元気出して!」



 無責任かつ、あたしは頼れるアピールをしながら、パスタを小皿に取り分ける朱莉は、少しばかり良い奴だった。朱莉は友人思いで、自分が不利益を被るとしても助けるタイプだ。例え、どんなに飢えていても、自分の取り分がなくなったとしても、友人全員にパスタを振る舞う。まるで、群がる貧民の前の聖者である。信じれば何も問題ない、と。



「ありがとうございます。朱莉ちゃん」



 パスタを平らげて、やることもなくなった僕とミツキは店を後にした。朱莉は少し寂しそうだったけれど、志桜里との一件もあることから家に帰ってゆっくりしたい、というミツキの意思を尊重したのだ。朱莉は友人と映画を観に行ったはずだったが、怜さんに状況を聞いて、急遽帰ってくるという力技をみせた。鳥山志桜里というアイドルは、朱莉に友人を裏切らせたのだから罪深い。友人思いではなかったのか。やはり、聖者などではなく、人の子であった、か。



 

 家に帰ると、珍しく姉さんが昼間からビールを飲んでいた。土曜の昼間から家にいるということはほぼあり得ない。なぜなら、土曜日の朝から午後までは、生中継の番組にレギュラー出演しているからだ。さては、クビになったのか。不祥事でも起こしたのか。



「仕事はどうしたの?」


「休みよ。今日は特番やるから番組ないの」


「特番って……? ああ、朝から晩まで音楽流すやつだ」


「あ……それって、歌謡祭ですよね。収録ですけど、花プリ出ているんです」



 テレビをつけると、確かに音楽番組が流れていた。ミツキは観ない方がいいのではないか、と思ったが本人はあまり気にしていない様子だ。少し寂しそうなミツキの表情は、自分が謹慎しているからではなく、きっと志桜里との一件があるからだろう。



「ところで、あんた達さ。付き合っているの?」



 一世紀ほど時をさかのぼって、こうして姉さんを座らせているロッキングチェアがゆっくりと揺れて、突然廊下の置時計が鳴り響く。ミツキは、いつもその音に驚いていて、いつか置時計と呪われた人形を捨ててやろうと思っている。全く関係ないことを考えるふりをして、今はミツキとの関係を考えたくなかった。要は逃げたいだけなのかもしれない。



「つ、付き合っているはず……」


「アスカさん。もし、わたしがシュン君と付き合っていたら、やはり、問題でしょうか?」



 そう言ったミツキを見て、僕は心臓が高鳴り出した。なぜそんなこと聞くの。このあと、ミツキはきっと否定する。否定しなければならない。まして、謹慎中とはいえ、人気絶頂のアイドルが普通の高校生のような生活をできるはずがない。僕とミツキが付き合う、なんてことがあっていいはずがない。ミツキの足を引っ張りたくない。花神楽三月は、永遠に暗い深海から抜け出せなくなってしまう。僕は、ミツキの中で溺れたくない。そして溺れさせたくない。



「ミツキちゃん、なにを……」


「全然問題ないんじゃない? むしろ、アイドルだろうが、なんだろうが、今を逃したら一生後悔するよ」


「……姉さんは何を言い出すんだよ」


「考えてもみなさい。シュン、あんたもよ。あと何回、春を満喫できる?」



 意味が分からなかった。冬が終われば春が来るし、来年だってある。まるで来年、もしくは再来年は桜を見られないかもしれない、なんて脅すような言い方はやめてほしい。特に僕はそういう話に敏感だ。あの日、僕には二度と秋が来ないかもしれない、なんて思ったくらいなのだから。明日を生きることに不安を感じている僕にはあまりにも重すぎる。



「どういうことですか?」


「じゃあ、例えばミツキちゃんが九〇歳まで生きるとする。今一七歳だとしたら、今年も含めてあと七三回しか春は満喫できない。しかも、そのうちの後半は、元気で過ごせているか分からないでしょう。ぼんやりとしていて見えない未来よりも、今、一七歳でできることのほうが貴重だと思うな」


「……なるほど。つまり、後悔しないように行動することが大事ってことを言いたいのですよね?」


「さあね。何が後悔で、なにが正しいのかなんて、未来にならないと分からないわよ」


「なんだよそれ。無責任すぎる」


「シュン、無責任なのも時には必要なのよ。すべてを零さないで進む道があるなら、逆に教えて欲しいわ。ま、あんたはどうせ志桜里ちゃんの押しの強さに負けちゃうから、あまり深く考えない方がいいかもね」


「志桜里ちゃん……。そうですよね。自分の気持ちと責任は、別のところにありますよね」



 ミツキは俯き加減で握り拳をつくり、ソファに座り込んだままじっと動かなかった。何を考えているのか全く分からないが、きっと、志桜里のことを考えているに違いない。



「特にシュンは、自分の身体のこととか、志桜里ちゃんに対する恩とか、そういうところに責任を感じて何もできないんだから、ちょっとは自分に素直になりなさい。ったく」



「志桜里ちゃんに対する恩……ですか?」


「姉さん!! ミツキちゃん、それは今度ちゃんと話すから。今は何も聞かないで」



 ここで余計な詮索をされても困るし、もしかしたら、ミツキは余計、志桜里に対して負い目を感じてしまうかもしれない。確かに、僕は志桜里に助けてもらったことをずっと引きずりながら、無理やり志桜里を選択肢に入れていたのかもしれない。だが、同時にそれは志桜里に対して失礼だ、という反面、気持ちには素直に、というスパイラルがひたすら続いていくだけ。だから、誰も選べなかった。そうか、志桜里に対する負い目がすべてだったのだ。自分の気持ちは二の次にして。それで、脳をフリーズさせて、思考停止したまま、もう志桜里と結婚すればいいのだ、なんて逃げていたのかもしれない。



「付き合うとか、付き合わないとか、どうでもいいけど、これだけは言っておく。二人ともよく聞きなさい」



 飲み終わったビールの缶を握りつぶして、姉さんは真剣な面持ちで僕とミツキにゆっくりと視線を送ってくる。まるで突き刺さるような鋭い双眸は、きっと僕とミツキを戒めるものだろう。こんな真剣な姉さんを見るのは一年ぶりくらい。昨年出演した映画の中の探偵役の姉さんが、真犯人に指を突き付けた時の顔だ。



「アスカさん……少し怖いです」


「姉さん、お手柔らかに頼むよ」


 だが、すぐに口元が緩む。だが、瞳は笑っていない。


「セックスをするなら、絶対に避妊しなさいよ。結婚してからはご自由に」


「な、なに言ってるんだよ。そ、そ、そんなこと」


「ぷ……はははっ!!」


 

 噴出したミツキは、ソファの上で腹を抱えて笑っていた。真面目な顔して面白いですね、と裏声で呟くミツキの笑いのツボが分からない。姉さんの言葉を冗談と捉えたのか。おそらく、姉さんは本気で言っている。そんなに笑い転げるほど面白かったのか。



「アスカさん……本当に大好きです。わたし、なんとなく、進むべき道が見つかった気がします」


「そう。なら良かった」



 しばらく雑談していると、姉さんは気持ちよさそうにロッキングチェアの上で眠りについた。僕とミツキは、姉さんを起こさないように場所を移動しようか、と話しているときに、ミツキが思わぬ提案をしてきた。



「わたしの部屋に来ませんか?」



 僕の手を引いて、ミツキは微笑んだ。

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