予兆

 モヤモヤ感は最高潮だった。ミツキの本日の撮影が終わり、帰宅できることになったのだけれど。ミツキと俳優のキスシーンがずっと脳のしわという皺の一つ一つにこびりついていて、離れようとしない。そんな僕の顔を見て、ミツキは袖を摘まむ。今日はお泊りしようか、と。



「シュン君も、明日はお休みなことだし。せっかくだから泊まっていきたいの」


「でも、父さんと姉さんが——」


「実は、もうアスカさんには許可取っているから大丈夫」



 しかし、一緒に歩くのは危険すぎるということで、一旦別れてから落ち合うことにした。宿泊先はすぐ近く。夏のミツキ事件の現場の虎ノ門のあのホテル。セキュリティを考えればベストな選択と言える。だけど。お互い、あのトラウマが蘇らなければいいけれど。



 

 僕の方が先に着いたみたいだ。ロビーのソファに座り、眠い目を擦りながらミツキを待つ。しかし、瞼を開けていられないほどの睡魔が襲う。ポートレートの作品を撮ると必ず眠くなる。これは撮影中、自分が思っている以上にファインダーの中の情報と被写体に注意を払うことで、精神力を消耗しているのだと思う。脳が痺れる感覚と、意識を吸い取られる感じ。これはまずい、と思っているうちに僕の意識は消失していた。




 別れ際の志桜里しおりはどんな表情をしていたのだろう。真顔だったのだろうか。それとも泣いていたのだろうか。ミツキだったら後ろから抱きついてきたかもしれない。あれ、ミツキは本当にそうなの。だって、僕と違う男が肩に手を回しキスをしていたじゃない。そんなことが許されるの。あれ、僕はいったい誰なの。ミツキの彼氏なの。それとも、ミツキノミコトとして生きる志桜里の作品を撮るアーティストなの。それとも、あの新井木遥香あらいぎはるかですらファンです、と言わしめたダンサー……ダンス……ダンス……。




 あと二年もないよ。大丈夫なの?




「シュン君!?」



 跳び上がるように上半身を起こして、自分の呼吸があまりにも荒いことに驚愕する。胸の鼓動が狂った歯車のように、乱雑に動きながら僕を叩く。湿った背中の不快感なんてどうでもいいほど、僕は悪夢の残像にあえいでいた。隣に座って心配そうに顔を覗き込むミツキは、困惑した様子で僕の額の汗をハンカチで拭う。



 ————まずいまずいまずい。



 思わずミツキを抱きしめてしまった。身体の震えが止まらずに。でも、何が怖かったのかも分からなかった。思い出しても恐怖が存在しない悪夢。だけど漠然として存在する恐怖におののく夢。ただ目の前にある死。



 頭をでられると、すぐに落ち着いた。ミツキの胸の奥、その心臓の鼓動と僕の鼓動のリズムが完全に同期するまでには、しばらく時間を要したのだけれども。落ち着いて良かった。僕の心臓はたまに挙動が抑えられなくなる。



「落ち着いた? 大丈夫?」


「うん。ごめん。突然抱き着いたりして」


「可愛かったから許します。って、本当に大丈夫なの? なにか嫌なこと……うん。あったよね。ごめんね」



 違うよ、と言って僕はかぶりを振ったけれど、それも確かに関係するのかもしれない。ミツキが復帰するということはそういうことだ、と自分でも自覚していたのに。いざ目の前で見てしまうと、こんなに精神的苦痛を受けるなんて。どれだけメンタルが弱いのか。




 セキュリティロックをパスして部屋に入る。カードキーを差して明かりを点けると、僕はまたミツキに抱き着いた。もう自分でもどうかしていると思う。でも、もう抑えることなんてできなかった。あんな夢を見させられたら、自分が自分でいられなくなりそう。



「シュン君……どうした……の?」


「……分からない。自分でも。ただ、ミツキが他の男に触れられているのを見ると、なんか苦しくて」


「————ごめんね。でも、アスカさんの言葉を借りるなら」


「姉さんの?」


「うん。唇なんてただの皮膚だから。その皮膚と皮膚が触れあっても、どうってことないでしょ。但し、お互いの感情が入れば別だけどね、って。だから、わたしは、シュン君以外の人と唇を合わせても、ただの皮膚の接触だよ。でも、シュン君とは——」



 僕とは——キスをした。有り余る感情がゆっくりと冷たくなった唇を温め合って。



 ————例え、ストロベリーの薫りがしなくても。



 うるおった唇からラズベリーの香りがして、僕はそれを食べ尽くした。甘い香りの中でほのかに色づくピンクのリップオイルは、少しだけ酸味があるカシス。とろけそうな口触りに、僕は完全にミツキの色に染まっていく。



「こんなこと言うと、また怒られるかもしれないけれど」


「……うん?」


「ラズベリーの香りでしょ。好きすぎてやばい」


「……良かった。シュン君が気に入ってくれなかったらどうしようって思っていたの」



 もう一度。今度はミツキの顎を中指で上げて。すでに蕩けてしまっているミツキの瞳に吸い寄せられて、再びキスをする。果汁が溢れた唇に、僕は歯止めが利かなかった。華奢きゃしゃなミツキの身体を持ち上げて、まるでプリンセスを救い出した勇者のように、彼女をベッドに横たわらせる。ミツキは、きゃ、と驚きを隠せなかったようだが、顔はほころんでいた。お姫様抱っこしてもらえるなんて嬉しい、なんて。



 ミツキに覆いかぶさり、彼女の首筋にわす唇がわずかに感じる震え。怖いの、とくとかぶりを振った。



「嫌なの。シュン君以外に触れられたことが、嫌なの」


「————思い出しちゃったの? やめる?」


「…………止めないで」



 僕の首の後ろに手を回すとミツキは、キスして、と僕を求める。



 目の前にいるミツキは僕のものだ。誰にも渡さないし、誰にも触れる権利なんてない。それなのに。それなのに——いや、僕はなんて嫉妬深いのだろう。だけど、この今、この時だけはミツキは僕だけのもの。誰にも。誰にも渡してたまるか。



「シュン君?」


「ミツキ。僕は嫉妬深い。もうだめなんだ。頭では理解していても、心の中の僕が騒ぎ立てるんだ。ごめん。知らない男に触れられているミツキを見ていられない。ごめん」


「謝らないで。わたしがシュン君と同じ立場だったら、同じことを考えると思うの。今日だって、本当はシュン君と別れた後、一人で泣いちゃったんだよ。志桜里ちゃんと何もないって分かっているのに、シュン君を信じたかったのに。わたしの方こそごめんね」



 ミツキは全然そんな素振りを見せなかった。寂しくないのかな、なんて僕は勝手に思っていたのだけれども。



「ミツキは、隠していたの?」


「だって、わたしがシュン君を引き留めちゃったら、シュン君は志桜里ちゃんのところに行かなかったでしょ。お仕事だもん。笑顔で送り出したいよ」



 それに比べて、僕は。自分のことばかりだ。ミツキの足を引っ張るわけにはいかない。だけど、心が許してくれない。我慢すれば心臓が暴れ出す始末。



 ミツキの首に手を回し、横たわった彼女と向き合って見つめる。僕の唇を指で弄ぶミツキの瞳は優しく僕を包み、嫉妬してくれるシュン君も大好きだよ、と言ってまたキスをした。僕は僕でいいと言って。僕の頭を優しく撫でるミツキの手が次第に止まり始めて、彼女は静かに寝息を立てる。よほど疲れていたのだろう。




 ★☆☆




 窓際のソファに座り、きらめく東京の光を眺めていた。あんなに光が暗闇の中でうごめいているのに、ここはこんなに静寂を保てていることが不思議だった。窓一枚で隔てる向こう側とこちら側がまるで別世界。こちら側の世界はミツキと僕の唯一、自由を許された空間。

 そして、その耽美たんびで甘美な世界の中心で安寧あんねいの表情のまま眠る姫は、寝言をつぶやく。シュン君、どこ、と。寝息を立てたまま。


 ここにいるよ、と言って再びミツキに添い寝をする僕に抱きつくミツキの寝息が頬に当たる。悪いとは思いながらも、僕はキスをした。寝顔すら愛おしくて。



「あれ、寝ちゃってた!?」


「ごめん。起こしちゃったね」


「今、何時!?」


「うーん。二時すぎだよ」


「嘘!? ごめん。シュン君」


「大丈夫だよ。疲れていたんでしょ。着替えてもう寝ようね」



 つやのある髪の毛をそっと撫でると、ミツキは額を僕の胸に押し寄せた。抱きしめる腕は優しく、それでいて温かく。弱めにかけたつもりの暖房が少し暑かったのだろうか。悔しい、と口にするミツキは、僕の腕の中から抜け出して立ち上がると伸びをした。


「せっかくシュン君と二人きりの時間なのに」


「家でも大体そんな感じじゃない」


「違うの。家とはまた違うの」


「そういうものなのね」



 シュン君は寝ないの、と訊いたミツキは明かりを消した。



「眼がえちゃって」



 夜が怖くないの、なんて訊いた僕を再び抱き締めたミツキは、シュン君がいれば、ね、と言って僕に覆いかぶさる。開いたままのカーテンの向こう側が宇宙空間のように街が煌めき、自動車のレーザービームが描く川が赤の点で流れをせき止められている。



 完全な夜ではなかったみたい。だからこそ、ミツキはカーテンを閉めようとはしなかった。



 志桜里ちゃんの夢を見たの。シュン君を連れて行っちゃう夢。考えすぎたのかな。シュン君はどこにも行かないよね。今日……志桜里ちゃんとどんなところに行って、どんな会話をして。……なにをしたのか。教えてくれないかな。わたしもシュン君と同じで嫉妬深いの。



「ミツキが実は嫉妬深いのは知ってる。付き合い始めた後も、クラスで僕が女の子と話していると、すごい不機嫌そうな顔で見てたよね」


「……うん。ごめんね」


「でも、そんなミツキも可愛くて。つい、いじわるしたくなっちゃって、余計に女の子と話してみたりしたこともあったんだ。気付いてた?」


「うそ。もう! シュン君はわたしのこといじめて楽しいの?」


「だって、そういうときは、帰ってから必ず甘えて来たじゃない。学校で話せない分、いっぱいくっつきたいって言って」


「そんなことばかりしていると、嫌いになっちゃうんだから」


「じゃあ、もうしない。でも」



 甘えてきてよ。甘えてくるミツキが好きなんだ、と言う僕に、うん、と言ってキスをする。今度は舌をもてあそぶように長く、熱く。それでいて蕩けてしまう果汁のように。


 抱きしめた僕の手が震え始める。気付いた時には、僕の心臓が不協和音を奏でる。悪魔が握りつぶす心臓は、明らかに悲鳴を上げていた。



「ま……ずい」


「シュン君?」



 やはり、ソファでうたた寝した時に見た夢は、これのサインだったのだ。悪夢で心臓が暴れ出したのではなく、心臓が暴れ出したことによる悪夢。なぜ気付かなかったのだろう。これが起きないためのカテーテル手術だったはずなのに。なぜ。



「ちょっと、シュン君? シュン君!?」


「だ、いじょう、ぶ」



 なんとか立ち上がり、バッグに忍ばせておいた薬を取り出し、口に放り込む。それが限界で、床に倒れこんでしまった。駆け寄るミツキが僕の身体を起こして、倒れた時に打った頭をさすってくれる。少しだけ落ち着く呼吸に僕は安堵あんどして呟く。ミツキごめん、て。



「嫌、シュン君死んじゃだめ。絶対にだめだよ。どうしたらいい? 救急車? どうしよう」


「大丈夫。ミツキ、大丈夫だから。手術前はよくあったんだけど。術後は初めてかな。なんで起きたんだろう」



 なんで、なんて自分で言っていておかしくなった。だって知っているじゃない。すべきことを。行くべきところを。定期受診でも言われるじゃない。自分の命の消費期限を。



 しかし、僕は決めている。冬の最期に僕は旅立つ。だから。だからこそ、それまでミツキとの時間を大切にしたい。必ず覚悟を決めるから。それまで僕を普通の高校生として生かせてほしい、のに。神様がいるなら祈るよ。あと数カ月だけ、このまま僕とミツキを平穏が包み込んでいて欲しいって。



「本当に、本当に、本当に、ねえ、本当に大丈夫なの!? 今から病院行く?」


「落ち着いて、本当に大丈夫だから。ね。でも、たまにこういうことがあるかもしれないから、その時は、僕のバッグに数種類の薬と説明書きが入っているから。もし意識を失っちゃったら飲ませてくれる?」


「————うん。わたし、もっと勉強する。シュン君の病気勉強する。ごめん。大丈夫なんだ、って思ってた。そうだよね。どこか楽観視してたの。本当にごめんなさい……ごめん……な……さい」



 わんわん泣き出すミツキを抱き締めて、大丈夫だから、と言ってベッドに座らせた。ミツキが謝ることではないし、むしろ僕が説明しておかなかったことも悪かった。



「ミツキは心配しなくても大丈夫だから。僕の方こそごめん。楽観視していたのは僕のほう。ミツキは悪くないから。だから泣かないで」


「ほ、ほんどに、だいじょぶなの? いなくなったら怒るから……ね」


「いきなりいなくなったりしないから、大丈夫。ね。ミツキ。さあ、今日はお風呂に入って寝ようね」


「…………うん。シュン君。ねえ、教えて。シュン君は痛かったり、苦しかったりしないの?」


「…………大丈夫」



 嘘を吐いた。でも、弱音なんて吐きたくない。苦しいのも、痛いのも、言葉にすれば本当になってしまう。思ってしまえば、そこで動けなくなってしまう。だから、せめて一人の時以外、僕は戦い続ける。旅立つ日まで、歯を食いしばって。



「嘘ついてる顔してる。シュン君が嘘を吐くときくらい分かるよ?」


「大丈夫。本当に。ミツキ。約束する。僕は絶対に死なない。これだけは約束する」


「破ったら、許さない。シュン君のこと許さないんだから……」



 また泣き出すミツキを抱き締めて。朝方までミツキは泣いていた。



——————

【次回予告】

次回から修学旅行編です。

今回まで少し秋の暗い話でしたが、

かなり明るい話になる予定ですのでお楽しみに。

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