深淵に堕ちた二人
真っ暗な
「シュン……くん?」
ベッドサイドで俯いていたミツキの輪郭が、青白い月光に浮かび上がる。立ち上がり、僕の手を握るミツキの服は
意識は辛うじて脳裏に繋がれているのに、
唐突に思い出す
「ミツキ、碧唯は!?」
「
「もし、ミツキの飲酒が世間に広まったら大変だ」
起き上がろうとする僕の身体を、椅子から立ち上がり必死に抑えてミツキは言う。シュン君はだめだよ、と。しかし、僕があの時カメラを手にしていれば。倒れさえしなければ。そう思うと悔やんでも悔やみきれない。
「あのセダンの男を探しに行くから、だからミツキ行かせてよ」
「もうッ!! シュン君、一時的に心臓が止まったみたいだって先生言ってたのよ!! お願いだから、じっとしてて。それに、もう遅いんだよ……」
眉根を寄せるミツキは、その表情に悔しさを滲ませていて、それと同時に僕を見つめる瞳は悲しみを帯びていて。握ったら潰れてしまいそうな手を、丸めて口元に当てるミツキは、再び椅子に座るとスマホをフリックしていく。
「ねえ、何が遅いの?」
「なんでもない。ね、大丈夫だから、シュン君は心配しないでゆっくり休んで」
ミツキのスマホの画面を映し出す窓ガラスの文字は、
「シュン君!? ねえ、シュン君!?」
「——やっぱり、じっとなんてしていられないよ」
志桜里ちゃん、どうだった。だめだった、ごめんミツキ。そう、やっぱり引退するしかないけど、お金がどうにもならないの。もし、ミツキがここで仕事を失うと、CMの違約金も併せて大変なことになるんじゃないの。うん、もうだめかも。あとは、シュンに泣きつくしかないかもね。それはできないよ。でも、他に道はないでしょ、会長に土下座でもしてなんとかしてもらうしか。無理だよ、志桜里ちゃん。
ゆっくりと開いた瞼の向こう側に溢れる光が瞳孔を収縮させる。雲の影が窓際のテーブルの上に揺らめいていて、幻想的な空が僕には灰色に映る。そんな眩しそうな僕に気付いたのか、ミツキはカーテンを閉めてくれた。
「シュン君大丈夫? 少し落ち着いた?」
「————分からない。でも、起きる気力もないくらい眠い」
「先生も落ち着いているから大丈夫って」
血塗れだったミツキの服は、白いパーカーにジーンズという質素なものに変わっていて彼女らしくない。垢抜けない印象すら受けるそのファッションは、飲酒スキャンダルのイメージ脱却からなのだろうか。それとも————。
「もしかして、ミツキ、その格好……」
「うん。謝罪会見に行ってくるね。あ、もちろんスーツに着替えるけど、高梨さんからスーツ受け取らないといけなくて。だから、会場に行くまでの服は地味にして来いって……」
何もしていないミツキが謝罪する————本当に悪いことをしている奴が謝罪もせずにほくそ笑んで生きている。これから、どれだけの社会的制裁をミツキが受けなければならないのか。想像しただけで痛々しい。考えただけでも腹立たしい。
「ミツキ、行くな。ミツキは何も悪いことしていないでしょ」
「そういうわけにはいかないよ。世間では、わたしがお酒を飲んで法を破ったという認識だけが独り歩きしているもの」
「じゃあ、僕も行く。ミツキの
「シュン君。だめ。終わったらすぐに帰ってくるから、ね?」
絡めた指をそのままに、僕の方を向いたままのミツキは後ろ歩きをしていく。少しずつ僕の指から滑り落ちるように離れて行って、やがて踵を返した。僕はなにも声を掛けることができずに、ただその背中を見送る。遥か向こう側に行ってしまったミツキに対して、小声で呟く言葉は、ミツキ、ごめん。
何に対して謝ったのか。ペン型カメラを奪えなかったことか、
★☆☆
窓から差し込む夕日に何の感動も覚えぬまま、ただ流れる雲の様子は、まるで静かな暗室の中に漂う鼻につくケミカルの匂いのよう。美しいと思う風景が、例え心象に語り掛けてこようが、僕の心は開くことはない。完全に閉ざされた暗室の中で、ぼんやりと浮き上がるネガを見つめるように、その真っ黒の写真を心に焼き付ける。そんな気分のまま、何気なくテレビを付けた。
ワイドショーに映る花神楽美月は
わたしの愚かな行為が皆様に与えた影響は計り知れず、お詫びの言葉を尽くしても尽くきれません。あなたの行為を見た同じ世代の高校生に何を伝えたいですか。はい、やはり法は守るべき秩序で、絶対に破ってはいけません、わたしのような愚かな行為は、身を滅ぼします。
————あなたを見た両親はどう思うでしょうね。
ストロボに包まれる静寂と、容赦なく浴びせられる雨のようなシャッターの中、ミツキはしばらく沈黙した。なぜそんなことを
『父に言いたいです。ごめんなさい、と。本当にごめんなさい……』
震えるミツキの声色は、やがて涙の雫とともに
スマホが鳴り響くと同時に、バイブレーションのけたたましい振動がベッドサイドテーブルを喚かせる。テレビを観ていた僕は、
————倉美月くん。わたしです。
予想通りだった。この人は悪くないけど、もし、あのとき会社を手放していれば、ミツキが傷つくこともなかったのかもしれない。そう考えると、複雑な心境だった。
『やはり、こうなってしまいました。もう会社は諦めることにします』
「あなたは悪くないかもしれない。だけど、何も関係ないミツキが巻き込まれている事実を、あなたはどう考えているんですか?」
『本当に、本当に申し訳なく思っています』
「言葉では簡単にそう言えるけど、だったら、ミツキの前でしっかり土下座なり、謝罪の言葉を伝えるなり、誠意を見せたらどうなんですかッ!?」
感情の
「あなたのせいで、ミツキは社会的に抹消されてしまうかもしれないのに。それなのに、あなたは自分の娘よりも会社を優先させて。そんなの……そんなの許されるはずないじゃないですか!!!!」
『…………はい。全くそのとおりですね。わたしはもう生きている価値もないのかもしれない。倉美月くん。娘を、
「……僕がなんとかする。僕がミツキを救う。だから、協力してほしい。それまで会社を手放さないでほしい。あなたの会社の力を貸してほしい」
『どういうことですか?』
「また連絡します。僕は絶対にあの男を許さない。協力してください」
切れた通話の残像が心に響きわたる。ミツキの半分の強さも持ち合わせていない花山健逸に、少しだけ勇気を出してもらう。計画は少し大雑把だけど、僕にできることはそれくらいしか思い浮かばない。
☆★☆
怒りと不安、それに悲しみを一緒くたにした鍋で煮込む感情を煮えたぎらせて、天井を見上げた午後七時。思わずスマホを壁に投げつけて、僕は布団を被った。泣いていたと思う。涙が自然と溢れたけれど、心の中は虚無だった。何も考えずにただ逃避して。ばらばらになる心が、やがて心臓を締め付ける。息苦しさと痛み、それに血流を止めるほどの苦しみ。
「シュン……くん?」
布団を
「ミツキ……辛かったね。ごめん、僕がもっと——」
「辛くなんてないよ」
予想外のミツキの言葉に、僕は起き上がり、微笑むミツキの顔をただ眺めていた。なぜ笑えるのか理解ができない。僕に向けるその
「だって、辛いことがあっても、シュン君はいつもわたしの
「なんで……なんでそんなにミツキは強いんだよ」
「なんでかな。本当は弱虫なんだけどね。ってシュン君は知ってるよね。でも、さっきも言ったけど、帰ればシュン君がいる、なんて思うと、どんなことでもがんばれちゃう」
おかしいね、なんて力なく笑うミツキの顔を抱き締めた。繋がれた点滴はそのままに、幾度となく抱き寄せたミツキは力なくうな垂れる。もし、ミツキがいなくなってしまったら、きっと僕も
「ミツキはがんばりすぎだよ。だからこそ、心配なんだ」
「なんで心配なの。わたしは大丈夫だよ?」
「いつか倒れちゃたり、またトラブルに巻き込まれるんじゃないかって」
「————ごめんね。心配かけちゃうね」
「それはお互い様でしょ。僕の身体のことだって」
じゃあ、おあいこだね、なんて言って僕に顔を見せるミツキは、なにも言わずにキスをした。少しだけ長いフレンチ・キス。甘く優しいラズベリーの香りは、ゆっくりと僕の心を
「シュン君がいれば、他になにもいらない。だから、すべて終わったらもう一度、今度は心を軽くして巡りたいな」
「何を巡るの?」
桜の香りを
「ねえ、ミツキ」
「うん?」
「もし、その二周目ができるとしたら、その時は」
「うん……」
「ゼロからはじめよう。充希と春夜の物語を」
「なにそれ~。てっきり結婚してくれるのかと思っ——」
今度はミツキの頭を引き寄せて、僕がキスをする。甘くて少しだけ切ないキス。
「うん。だって、こんな病室でプロポーズしても、雰囲気もなにもないでしょ。プロポーズする場所は決めているんだ。だから、それまでおあずけだよ」
ずる~い、と僕の膝に頭を乗せるミツキは、甘えていて、その頭を撫でる僕は、少しだけ癒された。
「ねえ、シュン君、そういえば、なんでスマホ壊しちゃったの?」
「——怒ったから。八つ当たり」
「だめじゃない。八つ当たりなんて。あれ、スマホ鳴っているよ?」
————割れていてよく見えないけど、なんとか健逸って誰?
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