初デート【前編】

 僕も着替えが終わって庭で枝垂れ桜を見ながら相当な時間を待っていると、離れから出て来たのは、黒い髪の毛のショートカットにベレー帽を被った少女だった。ピンクの花柄のスカートにボリュームスリーブの白いシャツを着た今どきの女子高生がミツキだと分かるまでには、時間がかかるだろう。大きめの眼鏡と、ラメの入ったまつげは少し目立ちすぎる気がするが。


 しかし、髪型とメイクでこんなに変わるなんて、僕には信じられない世界だ。そして、瞬きを忘れるほどかわいい。ドライアイが酷くなったらミツキのせいだからね。



「お待たせしました~! シュン君、ドラッグストアと本屋さんに行きたいのですけど」


「そうすると、距離的にもイオンに行った方が早いね。ドラッグストアは近くにあるけど、あそこは閉鎖的空間のくせに知り合いがやたら多いんだ。イオンは人が多いけど広いから、ソーシャルディスタンスが取れておすすめ。とにかく広い。都内からするとあり得ないくらいでかいんだよ」


「たしかに、学校の坂を下るときに見えるイオンは、巨大なお城みたいですよね」




 バスに揺られて、一〇分。隣の席に座るミツキとの距離に、僕はどぎまぎしていた。仄かに香るメイクにも脳が震えだし、そのうち、冷や汗をかいてくるほどドーパミンがほとばしっている。手汗が気持ち悪い。まるで初デートの中学生だ。いや、もっとひどい。キモイよ倉美月春夜くん。半径一メートル以内に近寄らないで。なんて言われたら今すぐ泣く。



 車窓から見える景色は、大きい国道が田んぼに挟まれていて、目の前にイオンが違和感たっぷりにそびえていた。なんでこんなところに、巨大な複合施設を建てたのかは分からないが、田舎民としては助かる。ちなみに、僕以外の家族は来たことがない。通販生活で済ませているようだ。まあ、特に母さんと姉さんには、来られても迷惑だろうけど。一回だけ姉さんがゲーセンに行きたいと言ったことがあるが、冷静に考えてやめたらしい。正解だよ。あそこはゾンビの群生地だ。




 バスを降りて、正面玄関の開放された巨大な扉をくぐると、専門店街とイオン直営店の中間ホールが現れる。レストラン街で、巨大な吹き抜けの天井の下、グランドピアノが置いてあって、夜になるとピアニストの演奏が始まる。

 南側が専門店街で、北側がイオン直営店という作りになっており、専ら専門店街にしか高校生は行かない。映画館やゲーセンが入っており、そこは僕たちが絶対に近づいてはいけないエリアだ。確実に知り合いに会ってしまう。



「ドラッグストアは一階で、本屋さんは三階かな。どっちから行きたい?」


「わ、わたし……わたし初めてなんです!!」


「え? なにが?」


「こういうショッピングモールに来るのが、初めて……なんです」



 確かに、花神楽美月というトップアイドルがイオンに現れた日には、囲まれて、逃げても逃げても追ってくるゾンビに捕まり、そのうち血肉を貪り食われるに違いない。特に田舎の中学生や高校生の憩いの場である、こんなイオンで花神楽美月が出没したとなると、生死は問わず捕まえろ、などという魔王がいてもおかしくはないのだ。勇者は当然助けることなどできやしない。ああ、死んでしまうとは情けない。



「じゃあ、本屋さんめざしてゆっくりと回ろうか」


「はい! 楽しみです!」


 一階部分は、主にブランド品やスポーツ用品店が入っていて、特に興味がなかったのかすぐにエスカレーターに乗り込んだ。全体的に専門店街エリアは天井が吹き抜けになっていて、おお、と感嘆している姿を見て、僕は思わず嬉しくなった。

 それは、ミツキの知らない部分を僕が開拓している気分になったからだ。ミツキの瞳を通して入る光景が、一刻一刻、経験として彼女の中に蓄積されていく。その隣に自分がいるとなると、ミツキの初体験の傍らで、僕はミツキの経験の一部として消化されていく。なんだかアメリカ大陸を発見したコロンブスのクルーのような気分である。インディアスが見えたぞ!



 エスカレーターを上がって、すぐのお店のインパクトに、ミツキはノックアウトしたようだった。ショーケースの中の天然の原石が無数に置かれている。なんで博物館があるのですか、と驚愕している姿を見て、僕は噴出した。アクセサリー屋さんだからね。天然石の原石も確かに売っているけど。



「綺麗。こんなに荒々しい石を割ると、宝石が現れるなんて、ロマンがありますね」


「うん。なんでこんな透明な水晶がタケノコのように生えてくるんだろう。地球って神秘だよね」


 僕の表現にミツキは笑い出した。タケノコはないですよ、と腹を抱える。そんなに面白いことを言ったつもりのない僕は、そうかな、と呟いて視線をショーケースに戻す。ショーケースの照明が煌めくと、ミツキの瞳が朝日に照らされた水面のように輝いていた。僕は思わず息を呑んで、隣にいる人物が花神楽美月だということを思い出す。八万年に一人の逸材。手の届かない絶域の少女。美の女神アフロディーテに愛されたアイドル。




 本屋はしばらく歩いた一番奥のために、お店を見ながら進む。ミツキはどの店も興味津々だった。なかでも、一貫性のない商品と、店員のツボにはまる黄色いポップが大量に貼りだされた雑貨屋風な本屋がお気に入りのようだった。そこで僕は確信した。ミツキは笑いのツボが浅すぎる。お笑いライブに行けば、腹筋が破壊されて歩行不可となり帰宅困難者になるかもしれない——絶対に連れて行くのはやめよう。



「歯が溶ける甘さ、って書いてあるのですけど、そんなもの売って大丈夫なのでしょうか」


「それは、ポップだからね。実際に溶けないからね。これ店員さんのネタバトルだから」



 甘そうな海外製のキャンディーを手に取って、怪訝な表情でミツキはしばらく考え込んでいる。所狭しと並ぶ商品に、ミツキは圧倒されたようだ。ここは何屋さんなのですか、と訊ねられたので、きっと本屋だ、と返すとさらに驚愕していた。本屋にシャウティングチキンとか普通売ってないよね。握るとうるさく鳴くやつ。この間抜けな顔の黄色い鳥のせいで、ミツキは腹筋が破壊されて、もう少しで帰宅困難者になるところだったのだから。ああ、なんて恐ろしい害鳥だ。市役所呼ばなくちゃ。



「こんなジャングルのようなお店があるなんて、茨城はすごいところなのですね」


「うん。ミツキちゃん。きっと東京にもあるよ、このお店」




 しかし、当然この本屋は雑貨屋なので目的のものはなかったみたい。しばらく歩いて角を曲がると本屋が見えてきた。当然、輸入雑貨が売っていない普通の本屋だ。一般的な漫画や小説、それに雑誌が手前の棚に置いてあって、奥には専門書が並んでいる。ネットで気軽に本が買えるし、ネットで読める時代に本屋が生き残っているのは、やはり紙媒体で実際に手に取って読みたいからだ。最近の本屋は本棚の前に椅子が置いてあって、どうぞ立ち読みして気に入ったら買ってください、と言わんばかりのつくりで、この本屋も例外ではない。



「見てきていいよ。僕も自分の本見てくるから、終わったらここに集合ね」


「はい! では行ってまいります!」



 どこぞの軍隊なのか、ミツキは丁寧に敬礼をして中ほどまで進む。その華奢な背中を見送ると、僕は一冊の本を手に取った。この週刊誌がどうしても気になっていた。


 少しだけ瞳を閉じて深呼吸をする。ゆっくりと瞼を開くと、やはり間違いなく彼女のことが書いてあった。心臓が高鳴る。脇腹を汗が伝っていき、自分でも分かるくらいに眉間に皺が寄っている。ごくりと飲んだ唾が、喉元を過ぎる頃には頁を捲っていた。



 花神楽美月が消えて一か月。彼女はいずこに!?



 開けてはいけないパンドラの箱に触れる。気にならない、と言ったら嘘になる。でも、見てはいけない気がしていた。花神楽美月は謹慎中なのに、失踪とはおかしいだろう。だって、謹慎中なら追うなよって思う。活動していないし、花神楽美月だって僕たちと同じ人間なのだ。そこまでして彼女を壊したいのか。僕には痛いほど分かるよ。彼女の心の叫びが、耳を塞ぎたくなるほど聞こえてくる。悔しいよ。志桜里、僕はどうしたらいい?



 花神楽美月は如月智一きらさぎともかずに妻子がいるにもかかわらず密会を繰り返していた。その代償は大きく、無期限の謹慎処分を下されたが————。当然、未成年ということで、如月智一は引退となったものの、未だ会見を開いておらず————。当の本人は東京から離れており、事務所の大御所である真田和佳子が彼女を匿っているという噂も——。花鳥風月プリズムZは活動停止にはならず、リーダーを鳥山志桜里にゆだねて、再出発を誓った。これには事務所の————。



 この事件は僕の心の深いところに影を落とした。ミツキが不倫に手を染めることは考えにくい。イオンにだって来たことがない子なのに。

 こんな記事を書くなんて許せない。相手はまだ高校生じゃないか。何の権限があって、ミツキの人生をぶち壊そうとしているのだ。僕は怒っている。許せない。

 

 始まりは一枚の写真からだった。花鳥風月プリズムZの活動停止の危機とネットニュースで速報が流れた時には、心臓が止まりそうだった。

 当時、花神楽美月には悪かったが、鳥山志桜里の心配をしていたのだ。志桜里がもし、花神楽美月に引っ張られるように活動停止になってしまったらどうしようか、と。心配して何度もメッセージを送ったが返信はなかった。結局返信が来たのは、一週間後だったのだから、その混乱具合は聞かなくとも理解できた。

 一枚の写真は、如月智一に肩を抱かれた花神楽美月が一緒にマンションに入っていくところを撮られたものだった。写真一枚で滅茶苦茶にされた花神楽美月が、嵌められたのではないかと思ったのは、その写真をまじまじと見てからだ。



 明らかに——嫌がっている。



 花神楽美月の眉間には皺が寄っていて、確かに嫌そうだった。普通はそこまで見ないかもしれないし解像度が高い写真でもなかったのだから、冬で気温も低く寒かっただけだろう、程度に思うだけかもしれない。しかし、僕には分かる。ポートレートを撮る人間として、彼女は嫌がっていた。



 表情ではない。拳を見て分かったのだ。どんなに寒くて拳を握ろうが、九〇度近く手の甲が反り返るまで力を入れることはない。あの写真は絶対に嫌がっている。如月智一に対しての嫌悪感がにじみ出ている。きっと彼女の手の平には、綺麗に彩られたネイルの先端によってくっきりと痕が残っていたはずだ。この一枚を撮ったカメラマンあるいは写真家に言いたい。ふざけんなよばかやろう。




「お待たせしました~。悩んじゃって」



 僕は週刊誌を棚に置いて、入り口付近で、漫画を立ち読みしていると笑顔で戻ってきたミツキは、何を読んでいるのですか、と漫画を覗き込んできた。天真爛漫な彼女の笑顔に曇りがないのは、何も感じていないのか、あるいは、演技なのか。何も感じないはずがない。ミツキは絶対に心では泣いているはずだ。なんて強い子なのだろう。



「あ、いや、適当に読んでいただけだよ。それより、欲しいの見つかった?」


「はい。これです」


 ミツキが袋から取り出したのは、ダンスの指導に関する本だった。身体の作り方から、指導マナー、ジャンル別によるリズムの違い、など、細かく指導要領が載っているようだ。



「もしかして、それのために?」


「はい。自分でするのと、実際に教えるのとではだいぶ違いますから」


「確かに。もしかして、ダンス部を本気で引っ張っていこうとか思って?」


「はい! やるからには、すごいステージを見せたいじゃないですか」



 ミツキはやはり、花神楽美月だった。瞳は全く死んでいない。それどころか、自分の居場所を見つけて、その居場所を昇華しようとしている。


 僕は本気でミツキを守りたいと思った。この子を絶対に守る。写真一枚で堕ちてしまったのなら、僕が写真一枚で彼女を救い出して見せる。

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