人生二度目のメランコリー

 原宿駅を降りて、明治神宮のおごそかな香りを感じながら進む道の日差しはとても厳しく、したたる汗はアスファルトの灼熱に近い無機質な大地のわずかな裂け目の向こう側で、無慈悲にも忘却されてしまう。変装したミツキが花神楽美月はなかぐらみつきだと気付く者がいれば一大事だ、と周囲を警戒していたのだが、杞憂きゆうに終わりそうで安堵あんどする。


 代々木公園前の日本放送協会の付近は人もまばらで、落書きのある陸橋の下に着いた頃にはミツキも警戒を解いていた。



「シュン君、ここでミツキノミコト様と待ち合わせなの?」



 赤く大きい縁の眼鏡を外しながら、ミツキはいぶかしんだ。トリックを華麗に決めるスケボー少年を脇目に、ミツキは陸橋の階段に座り込む僕を見下すように口を尖らせる。すぐに隣に腰を落として、僕の左腕に右手を回すと顔を肩に密着させた。少し——いや、かなり暑い。ミツキの汗ばんだ肌は当然のように熱を帯びていて、僕の腕と心臓は、高温アラームをいつ出してもおかしくないくらいにオーバーヒートしそうだった。



「ミツキノミコトは————」



 少し躊躇ためらった。僕がミツキノミコトだということを告げてしまえば、きっとミツキは傷つく。なぜなら、そこには、ミツキに対する背信行為が含まれるのだから。恋人であるミツキに何も言わず志桜里しおりを撮影していたという事実は、それが例え二人きりでなかったとしても、罪に問われるだろう。僕はきっと、ミツキによって裁かれる。軽くて平手打ち。重ければきっと、泣き出した挙句この場を立ち去ってしまい、都会の迷宮の中を、見つかるはずもないミツキを一生かけて探す羽目に。



「ミツキノミコトは僕————なんだ。ごめん。黙っていて」



 顔を上げて僕を見つめるミツキは、眉根をわずかに寄せながら呟く。どういうこと、と。僕は泳ぐ目を必死に制御すると——今すぐに伏せたい——意を決してミツキのブラウンの硝子玉がらすだまを射抜く。ミツキはゆっくりと僕から離れていき、立ち上がると背中を向けた。やはり怒ったのかな。それとも失望なの。悲しみ。————案外、何も考えられずに虚無きょむなのかもしれない。



「そうだったんだ……。わたしの大好きなミツキノミコト様とシュン君が同一人物だったなんて。なんで黙っていたの……シュン君」



 あまりにも静かに、震えるような声で呟く。僕も立ち上がり、きつく瞳を閉じた。証言台の前で罪を告白した弁護士のつかない最低最悪の罪人は、これから読み上げられる判決を受け止めきれずに耳を塞いでしまう。もう僕のことなど嫌いになってしまったのだろうか。



「ミツキ……ごめん。いつか話そうと思っていたんだ」


「さい……こう。最高じゃない! なんで黙っていたの!?」



 振り向いたミツキが飛び込んできて、僕は思わずけ反り、力がもう少し抜けていたら、きっと後方に倒れこんでいただろう。喜びに満ちた表情はいつしか涙を流しそうな雰囲気で、僕の頬に触れたミツキの指は、いたずらにこめかみ付近を歩きまわり、側頭部の髪をねじる。


 しばらくそのまま見つめるミツキの瞳を見て、僕は思い出した。いつかのダンスイベントで、羨望せんぼうの眼差しを向ける少女を。フラッシュバックのように蘇るモノクロームに近いノイズだらけの映像が、今、鮮明に目の前の少女と重なり合っていく。あの写真の少女は、やはりミツキだ、と。



「それよりも、僕はミツキに何も言わずに志桜里を撮っていたんだよ? ミツキと付き合い始めてからも。いいの?」


「だって、志桜里ちゃんに会ってほしくない、ってわたしが思っているだろうって気を使ってくれたんでしょ? それにシュン君を信じているから。何も起きていないんでしょ?」


「う、うん。それは、絶対にない。誓う。それに高梨さんだって毎回近くにいるし、他のスタッフもいるから」


「なら、全然問題ないよ。それよりも、シュン君がミツキノミ……ミツキ? クラミツキのミツキ?」


「うん。良い名前が思い浮かばなくて」


「そういえば、わたしもミツキなのよね。もし、結婚したら、倉美月充希くらみつきみつきって、ミツキが被っちゃうね」



 汝、倉美月春夜くらみつきしゅんやは、この女、花山充希はなやまみつきを妻とし、病める時もすこやかなるときも、喜びの時も、悲しみの時も富める時も貧しき時も共に歩み、死が二人を分かつ時まで愛を誓い、妻に寄り添い、想い、命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?


 誓います。


 汝、花山充希は、この男、倉美月春夜を夫とし、病める時も健やかなるときも、喜びの時も、悲しみの時も富める時も貧しき時も共に歩み、死が二人を分かつ時まで愛を誓い、夫を想い、うやまい、夫のみに寄り添うことを誓いますか?


 誓いま……。



 せん!!


 シュン君は、可愛い子に甘すぎます。わたしと結婚をしようとしているとは思えません。野々村朱莉ののむらあかりちゃんとだって、鳥山志桜里ちゃんとだって、シュン君は縁を切ろうとしないで未だに連絡を取ったり、勝手に会ったり、わたしのいないところで怪しい行動をしているのですから。そんなこと誓えるはずがありません。もう大嫌い。愛想が尽きました。ねえ、アスカさ~~~ん聞いてください。シュン君が酷いの。



「シュン君? 大丈夫? 調子悪い?」


「あ、いや。えっと、と、とにかく、僕は、作品撮りをするとき、私情を挟まない、というポリシーがあることは分かってほしい。だから、今から撮るミツキにも厳しくいくから」


「は、はい! ミツキノミコト様! よろしくお願い致しますッ!」



 

 水の中。水彩絵の具の中。とろけたアイスクリーム。見当たらない大切な存在を探す潜在意識の中を泳ぐクマノミ。手探りで探すミツキを、マニュアルフォーカスのレンズヘリコイドをしっとりと回して捕まえる。ピントが合うと、急激に浮かび上がる決め顔のプリンセス。ファインダーの中でポーズを決める美少女は、花山充希ではない。


 睨んだ顔や、前歯で下唇を噛みながら眉間にしわを寄せる少女は、花神楽美月のキャラクターそのものだ。仁王立ちして首をかしげるチュッパチャップスをくわえたミツキは、まるでこれから壁にスプレー缶でグラフィティアートを描くのではないかというほど、やんちゃだった。



「ミツキ、歩きながら撮るから、僕に話しかけて。もちろん、花神楽美月で」



 ミツキはこくりと頷いて、上唇を舌の先端で素早く舐めると顎を引く。針金で木目に傷をつけるような細い視線で僕を刺す。ゆったりとしたピンクのド派手な半袖のパーカーの前ポケットに片手を突っ込んで、首の後ろに手を置いたミツキは、止まれの標識に体重を預けながら呟く。



「分かった。でもここでの数カット欲しい」



 喜びも、悲しみも、何色にも染まらない花神楽美月の言葉は、無機質な都会の片隅の中の雑踏に、淡い微炭酸の舌触りが物足りない虚しさのように消えていく。それは、花神楽美月というアイドルだとしても、結局のところ、一人の人間に変わりはない。無数の吐息の中にき消された存在は、ただレンズ越しの僕の瞳の中だけに存在する。人々の視界に入っても、数秒後には景色の一部になり果てていて、僕は、その様子をカメラというナイフでただただ切り取っているだけに過ぎない。人々の潜在化とはその程度なのかもしれない。花神楽美月を彼らが意識した瞬間、恐らく神々しく輝き出すのだろうけれども。

 

 ただし、切り取られた狭隘きょうあいな世界の中のミツキは、その外に広がる広大な世界を席巻するだけの力を持っている。お世辞抜きにしても、謹慎前よりも力を付けているのが分かる。



 いったい、花神楽美月になにがあったというのか。



 渋谷の路地裏は、スクランブル交差点ほどではないにしても、人通りは多かった。しかし、ミツキは一つも気にすることなく闊歩かっぽして、レンズを意識してたまに決め顔をする。立ち止まってカメラの背面液晶でチェックをして、再び歩き出す。



「あれ、花神楽美月じゃない?」


「まじで? すげえ。やっぱり本物は違う」



 そんな声にも全く動じずに、ミツキは少しだけ微笑んで軽くあしらい、再びレンズに全神経を集中させた。むしろ、僕に注がれる視線が気になり集中できない。だが、ミツキはそんな僕をよそに、こっち、と手を引いていく。



 裏通りから出て大通りを歩くと、信じられないくらいの人の波に、僕もミツキも完全に存在が埋もれてしまって、もはや、撮影どころではなくなってしまった。



「ミツキ、どうするの。場所は渋谷区っていう指定があるんだ」


「もちろん、ここで撮るわ。人の目は気にしないで。ここにはミツキノミコト様とわたししかいない」



 声色からして、完全に花山充希は殺されたようだった。花神楽美月に乗っ取られた身体は僅かに微笑むと、人を掻き分けていく。雑踏の息遣いと視線がミツキの華奢な体躯たいくに色をぶち掛けながら、バケツに入ったペンキを同時に身体に塗りたくられたように、ミツキは人間の中に溶け込んでいった。

 己に降り注ぐ視線さえも作品の一部に取り込もうとするのだから、並みのアイドルではない。もはや、景色の中の一部のように溶け込むバンクシーの偉大な作品にでもなったかのような表現力は、アーティストそのものだろう。



 ショーウィンドウに映るミツキと、風を感じるミツキは同一人物ではない気がする。切り取った世界の中で混在する二人は対照的だった。日の目を見ることがないショーウィンドウの中、モノクロームで見つめるミツキは影を潜めている。それに気づいた瞬間、僕は無性に心がかき乱されてしまった。


 本当に花山充希は戻ってくるのだろうか、と。このまま僕の前からいなくなってしまい、二度と抱きしめることができなくなってしまったら、僕はもう生きていけないかもしれない。


 それなのに、僕はその手助けをしている。こんなことならば、ミツキノミコトなんて死ねば良かったんだ。存在すら謎で、実在しないままフェードアウト。カメラを置いたフォトグラファーは、インストグラムはもとより、人々の記憶から完全に忘却され、引いていく波の跡のようにいずれ消えてなくなる。花神楽美月は復帰のめどが立たずに引退————違う!!



 ミツキノミコトなんていなくても、花神楽美月はいずれ復帰する。自惚うぬぼれるなよ。



 それに、僕は誓ったのだから。全力で花神楽美月を救い出さなくてはいけない。彼女を想うなら、彼女のやりたいことを支える。


 それができないなら、僕にミツキを愛する資格なんてないだろッ!!!!!!!




 特急列車に乗った頃には、ミツキは花山充希に戻っていて、僕は胸を撫でおろした。久しぶりの東京は、ミツキにとってあまり楽しいものではなかったのかもしれない。寄りたいところがあれば寄ってもいいという僕の提案を否定したのだから、よほど疲れたのだろう。あるいは、なんだかんだ言っても人の目を気にした、というのが正解かもしれない。


 僕の肩を枕代わりにして寝息を立てるミツキを見て、ああそうか、と思い出した。ミツキは僕の中で花神楽美月でも花山充希でもなく、ミツキだった。僕にしか見せない表情と仕草は、僕だけの特権で、僕はいつもそんなミツキに生かされているのだと実感する。



 ミツキの頭を少しだけ持ち上げて、彼女の反対側の肩に手をまわし抱き寄せた。ストロベリーの香りを楽しみながら、俯くミツキの首が辛くないようにしっかりと腕に力を入れて再び抱き直す。ネイルが夏の空と朱色の夕焼けを同時に映し出していて、柔らかい感触の手の平を摘まみながら、薄桃色の唇を眺める。非の打ち所がない可愛らしさに、手放すのが怖くなって、そんな怖気おじけづいている自分に自嘲じちょうした。



「ミツキ、僕はどうしたらいい」



 返ってくるはずもない答えを待っていたわけではないのだけれども、ミツキの唇が僅かに開いて、どこにも行かないよ、などという言葉があふれてくるのを期待している自分は、まるで、餌の欲しい子犬のようだ。馬鹿みたい。



「シュン君なにが?」



 いつかのバスの中を思い出す。どうやらミツキは寝たふりが得意なようだ。僕はため息を吐くとなんでもない、とかぶりを振った。ミツキは僕の想いなど知らなくていい。そんなことで後ろ髪を引かれる思いをさせたくないし、弱みを見せたくない。僕はいつだって姫を守るナイトなのだから。



 もうすぐ最寄り駅に到着するというタイミングで、完全に覚醒したミツキは荷物棚に手がつくのではないか、というほど伸びた後に、何気なくスマホの画面に視線を落とすと、胸を撃ち抜かれたように目を見開き呆然とする。一点を見る姿は、まるで凶事のあとの被害者のよう。僕は慌てて、何があったの、とたずねる。



「だめ。そんなのだめ。だめだめだめ。シュン君見ないで」


「え。なに? なんなの?」


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」



 泣きそうなミツキの表情は、もはや世界が滅亡した後のようで、僕は焦燥感に駆られる。全く意味が解らずに、自分のスマホのスリープを解いた。



「え……」



 インストグラムに並ぶ、謂れのない言葉と誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうの数々。それと同時になぜか増えるフォロワー数。約九〇万人だったフォロワーが一気に一三〇万人まで増えていた。いちばん驚いたのは青いチェックマークがアカウント名の隣についていて、これは有名人が、偽物アカウントと区別されるように公式から与えられる認証マークというもの。つまり、僕も有名人の仲間入りを果たしてしまったのだ。しかし、なぜ?


 答えはネットニュースアプリを開いた時、すぐに分かった。




 インフルエンサーミツキノミコトの正体は、伝説の元ダンサー倉美月春夜!!


 花神楽美月と交際か!?



 速報にするほどのものなのか、という疑問はさておき、僕の心臓はつぶれそうだった。

 急激に痛くなる心臓に、思わず身体を屈めて僕はうずくまる。早すぎるツービートのような音を立てる心臓が、僕に息切れと眩暈めまいという絶望をもたらした。



「シュン君? どうしたの?」


 しかし、答えることはできなかった。あの日と同じ。言葉が出ない。何も考えられない。


「シュン君!?」



 僕はそのまま、瞼が自然と閉じるのを感じて、ミツキの膝の上に倒れ込むのを感じた。


 心臓の鼓動はそれでも……僕の…………体の内側か……ら叩きつけ……ていて、僕は。

 ……それを止めるこ……とができな……かった……。



「ご……めん。もう……だめかも」



 ミツキは絶叫した。

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