人生二度目のメランコリー
原宿駅を降りて、明治神宮の
代々木公園前の日本放送協会の付近は人もまばらで、落書きのある陸橋の下に着いた頃にはミツキも警戒を解いていた。
「シュン君、ここでミツキノミコト様と待ち合わせなの?」
赤く大きい縁の眼鏡を外しながら、ミツキは
「ミツキノミコトは————」
少し
「ミツキノミコトは僕————なんだ。ごめん。黙っていて」
顔を上げて僕を見つめるミツキは、眉根を
「そうだったんだ……。わたしの大好きなミツキノミコト様とシュン君が同一人物だったなんて。なんで黙っていたの……シュン君」
あまりにも静かに、震えるような声で呟く。僕も立ち上がり、きつく瞳を閉じた。証言台の前で罪を告白した弁護士のつかない最低最悪の罪人は、これから読み上げられる判決を受け止めきれずに耳を塞いでしまう。もう僕のことなど嫌いになってしまったのだろうか。
「ミツキ……ごめん。いつか話そうと思っていたんだ」
「さい……こう。最高じゃない! なんで黙っていたの!?」
振り向いたミツキが飛び込んできて、僕は思わず
しばらくそのまま見つめるミツキの瞳を見て、僕は思い出した。いつかのダンスイベントで、
「それよりも、僕はミツキに何も言わずに志桜里を撮っていたんだよ? ミツキと付き合い始めてからも。いいの?」
「だって、志桜里ちゃんに会ってほしくない、ってわたしが思っているだろうって気を使ってくれたんでしょ? それにシュン君を信じているから。何も起きていないんでしょ?」
「う、うん。それは、絶対にない。誓う。それに高梨さんだって毎回近くにいるし、他のスタッフもいるから」
「なら、全然問題ないよ。それよりも、シュン君がミツキノミ……ミツキ? クラミツキのミツキ?」
「うん。良い名前が思い浮かばなくて」
「そういえば、わたしもミツキなのよね。もし、結婚したら、
汝、
誓います。
汝、花山充希は、この男、倉美月春夜を夫とし、病める時も健やかなるときも、喜びの時も、悲しみの時も富める時も貧しき時も共に歩み、死が二人を分かつ時まで愛を誓い、夫を想い、
誓いま……。
せん!!
シュン君は、可愛い子に甘すぎます。わたしと結婚をしようとしているとは思えません。
「シュン君? 大丈夫? 調子悪い?」
「あ、いや。えっと、と、とにかく、僕は、作品撮りをするとき、私情を挟まない、というポリシーがあることは分かってほしい。だから、今から撮るミツキにも厳しくいくから」
「は、はい! ミツキノミコト様! よろしくお願い致しますッ!」
水の中。水彩絵の具の中。
睨んだ顔や、前歯で下唇を噛みながら眉間に
「ミツキ、歩きながら撮るから、僕に話しかけて。もちろん、花神楽美月で」
ミツキはこくりと頷いて、上唇を舌の先端で素早く舐めると顎を引く。針金で木目に傷をつけるような細い視線で僕を刺す。ゆったりとしたピンクのド派手な半袖のパーカーの前ポケットに片手を突っ込んで、首の後ろに手を置いたミツキは、止まれの標識に体重を預けながら呟く。
「分かった。でもここでの数カット欲しい」
喜びも、悲しみも、何色にも染まらない花神楽美月の言葉は、無機質な都会の片隅の中の雑踏に、淡い微炭酸の舌触りが物足りない虚しさのように消えていく。それは、花神楽美月というアイドルだとしても、結局のところ、一人の人間に変わりはない。無数の吐息の中に
ただし、切り取られた
いったい、花神楽美月になにがあったというのか。
渋谷の路地裏は、スクランブル交差点ほどではないにしても、人通りは多かった。しかし、ミツキは一つも気にすることなく
「あれ、花神楽美月じゃない?」
「まじで? すげえ。やっぱり本物は違う」
そんな声にも全く動じずに、ミツキは少しだけ微笑んで軽くあしらい、再びレンズに全神経を集中させた。むしろ、僕に注がれる視線が気になり集中できない。だが、ミツキはそんな僕をよそに、こっち、と手を引いていく。
裏通りから出て大通りを歩くと、信じられないくらいの人の波に、僕もミツキも完全に存在が埋もれてしまって、もはや、撮影どころではなくなってしまった。
「ミツキ、どうするの。場所は渋谷区っていう指定があるんだ」
「もちろん、ここで撮るわ。人の目は気にしないで。ここにはミツキノミコト様とわたししかいない」
声色からして、完全に花山充希は殺されたようだった。花神楽美月に乗っ取られた身体は僅かに微笑むと、人を掻き分けていく。雑踏の息遣いと視線がミツキの華奢な
己に降り注ぐ視線さえも作品の一部に取り込もうとするのだから、並みのアイドルではない。もはや、景色の中の一部のように溶け込むバンクシーの偉大な作品にでもなったかのような表現力は、アーティストそのものだろう。
ショーウィンドウに映るミツキと、風を感じるミツキは同一人物ではない気がする。切り取った世界の中で混在する二人は対照的だった。日の目を見ることがないショーウィンドウの中、モノクロームで見つめるミツキは影を潜めている。それに気づいた瞬間、僕は無性に心がかき乱されてしまった。
本当に花山充希は戻ってくるのだろうか、と。このまま僕の前からいなくなってしまい、二度と抱きしめることができなくなってしまったら、僕はもう生きていけないかもしれない。
それなのに、僕はその手助けをしている。こんなことならば、ミツキノミコトなんて死ねば良かったんだ。存在すら謎で、実在しないままフェードアウト。カメラを置いたフォトグラファーは、インストグラムはもとより、人々の記憶から完全に忘却され、引いていく波の跡のようにいずれ消えてなくなる。花神楽美月は復帰のめどが立たずに引退————違う!!
ミツキノミコトなんていなくても、花神楽美月はいずれ復帰する。
それに、僕は誓ったのだから。全力で花神楽美月を救い出さなくてはいけない。彼女を想うなら、彼女のやりたいことを支える。
それができないなら、僕にミツキを愛する資格なんてないだろッ!!!!!!!
特急列車に乗った頃には、ミツキは花山充希に戻っていて、僕は胸を撫でおろした。久しぶりの東京は、ミツキにとってあまり楽しいものではなかったのかもしれない。寄りたいところがあれば寄ってもいいという僕の提案を否定したのだから、よほど疲れたのだろう。あるいは、なんだかんだ言っても人の目を気にした、というのが正解かもしれない。
僕の肩を枕代わりにして寝息を立てるミツキを見て、ああそうか、と思い出した。ミツキは僕の中で花神楽美月でも花山充希でもなく、ミツキだった。僕にしか見せない表情と仕草は、僕だけの特権で、僕はいつもそんなミツキに生かされているのだと実感する。
ミツキの頭を少しだけ持ち上げて、彼女の反対側の肩に手をまわし抱き寄せた。ストロベリーの香りを楽しみながら、俯くミツキの首が辛くないようにしっかりと腕に力を入れて再び抱き直す。ネイルが夏の空と朱色の夕焼けを同時に映し出していて、柔らかい感触の手の平を摘まみながら、薄桃色の唇を眺める。非の打ち所がない可愛らしさに、手放すのが怖くなって、そんな
「ミツキ、僕はどうしたらいい」
返ってくるはずもない答えを待っていたわけではないのだけれども、ミツキの唇が僅かに開いて、どこにも行かないよ、などという言葉が
「シュン君なにが?」
いつかのバスの中を思い出す。どうやらミツキは寝たふりが得意なようだ。僕はため息を吐くとなんでもない、とかぶりを振った。ミツキは僕の想いなど知らなくていい。そんなことで後ろ髪を引かれる思いをさせたくないし、弱みを見せたくない。僕はいつだって姫を守るナイトなのだから。
もうすぐ最寄り駅に到着するというタイミングで、完全に覚醒したミツキは荷物棚に手がつくのではないか、というほど伸びた後に、何気なくスマホの画面に視線を落とすと、胸を撃ち抜かれたように目を見開き呆然とする。一点を見る姿は、まるで凶事のあとの被害者のよう。僕は慌てて、何があったの、と
「だめ。そんなのだめ。だめだめだめ。シュン君見ないで」
「え。なに? なんなの?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
泣きそうなミツキの表情は、もはや世界が滅亡した後のようで、僕は焦燥感に駆られる。全く意味が解らずに、自分のスマホのスリープを解いた。
「え……」
インストグラムに並ぶ、謂れのない言葉と
答えはネットニュースアプリを開いた時、すぐに分かった。
インフルエンサーミツキノミコトの正体は、伝説の元ダンサー倉美月春夜!!
花神楽美月と交際か!?
速報にするほどのものなのか、という疑問はさておき、僕の心臓はつぶれそうだった。
急激に痛くなる心臓に、思わず身体を屈めて僕はうずくまる。早すぎるツービートのような音を立てる心臓が、僕に息切れと
「シュン君? どうしたの?」
しかし、答えることはできなかった。あの日と同じ。言葉が出ない。何も考えられない。
「シュン君!?」
僕はそのまま、瞼が自然と閉じるのを感じて、ミツキの膝の上に倒れ込むのを感じた。
心臓の鼓動はそれでも……僕の…………体の内側か……ら叩きつけ……ていて、僕は。
……それを止めるこ……とができな……かった……。
「ご……めん。もう……だめかも」
ミツキは絶叫した。
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