好きなだけでは結婚なんてできないの
————眩しい。
白い光が
指に挟められたサチュレーションモニターが九八パーセントを表示していて、僕の血液が死ぬ気で酸素を脳に届けていることが分かる。でも、残りの二パーセントは何をしているのだろうと、どうでもいい考えが頭をよぎった。
口に装着された酸素を供給するマスクは、僕の口の周りに食い込んでいて、少しばかり不快だ。左腕には予想通り点滴が打たれていて、よく分からない薬品が注ぎ込まれている。やはり、僕はまた死にそうになったのか、などと客観的に自分のことを考え始める。
今度はミツキに救われたのか。ナイトが姫に救出されるなんて、ひどく滑稽な話だ。
「倉美月さん、聞こえますか?」
まるで手術室から出てきたような、白いスクラブスーツを着た女医が僕に
「倉美月さん、とりあえず、今日は入院していきましょうね」
「はい。すいません」
「外にいる女性の方はご家族ですか?」
「え? 外にいる? あ、はい! 家族です!」
実際には違うのだが、否定してしまえば会えなくなってしまう気がして、僕は
「ええ。もう病室に移って大丈夫ですから、そしたら呼びますね」
病室は当然個室だった。まさか、ネットニュースのトップに
それにしても、担ぎ込まれたのが地元の病院で本当に良かった。ここは母さんの結界の範囲内だから、マスコミが駆けつけてくるなんてことはないとは思うが、それでも油断はできない。きっと、茂みの影から獲物が油断をして罠に掛かるのを待っているはず。今の僕は、何もできないリスのような存在だ。
「シュン君!!!!!!!」
扉を開けた瞬間、飛び込んできたのは当然ミツキだ。
「いや、ミツキのせいじゃないでしょ。これは、僕の問題だから」
「違うの。わたしが軽率だったから。だからこんな……」
「ミツキ、聞いて。僕はミツキと付き合うことになってから、ずっとこれは覚悟してきたことなんだ。でも、それよりも、僕は……」
ミツキと離れなくてはならないことが不安で、不安で仕方ない、なんて口が裂けても言えなかった。スキャンダルとして持ち上がった話題を消すためには、間違いなく僕と離れなくてはいけない。これは当たり前のことだ。僕がそんな弱気なことを言ってしまえば、きっとミツキは尻込みしてしまう。これはミツキのためだ。悲しいけれど、ミツキとは距離を置くしかない。そう。ミツキがアイドルである限り、遅かれ早かれ、こうなることは分かり切っていたこと。結ばれるはずがない僕とミツキの運命であり、ここで終わってしまうならば、それも仕方がない。でも、悲しくないといえば嘘だ。
「シュン……君……?」
「ミツキ……ごめん。ミツキとは……少し距離を……」
僕の言葉に敏感に反応するミツキは目を見開き、見たこともないような表情——まるで
「絶対に嫌!!! シュン君は言ったよね!?」
「え……?」
「ずっと一緒って————そう言ったよね!?」
「そんなこと……僕は……僕はミツキを守りたいんだッ!! だからこうして、僕は必死に奥歯を噛みしめて、ミツキを!!! ミツキと……離れなくちゃ」
「わたしは気にならないよ。もしシュン君が嫌ならアイドルだって辞めても構わないって思ってる!! 今すぐにでも引退して、ずっとシュン君の傍にいたいって」
「それを聞いて、僕は一生ミツキの夢を
こんなに、僕はミツキのことを考えているのに、僕だって辛いのに。なんでミツキは分かってくれないの。僕はミツキを守るナイトなのだから、当然ミツキを一番に考えている。それなのに、それなのにミツキは僕を————苦しめるの!?
「わたしの夢ってなに? わたしはアイドルに夢なんて求めていない……。シュン君まで、わたしを自由にしてくれないの? もういい……。ごめんね。そうだよね。全部わたしのせい。シュン君に迷惑はこれ以上掛けられない」
「違う……そうじゃなくて。僕は、ミツキのことを……」
「シュン君は優しいから、どんな時でも一緒に居てくれる、そう思ってた。わたし、わがままだよね。シュン君の気持ちも考えないで。自分のことばっかり」
「なんでそうなるんだよ僕は————」
「ごめんね。帰る。これ以上はもう……辛いの」
俯いて僕に顔も見せずに
僕が泣かせたの?
僕のせい?
僕がすべて悪いの?
僕が————間違っているの?
嘘だ————そんなの嘘だ。
僕は寒くもないのに布団をかぶった。
それからすぐに母さんと父さんが駆けつけてくれた。でも、僕はあまり人に会いたい気分ではなかった。迷惑をかけているのは分かっていたし、実際、心配してこうして駆けつけてくれる人がいることは、すごく幸せだということを認識しているつもりだ。それでも、どれだけ深呼吸をしていても、僕の心は曇っていて、今にも吐きたい気分だった。
「あんたね。ばかなの?」
仕事が終わって帰宅した姉さんは、翌日の朝一番に病室を訪れた。そして、開口一番の台詞がそれだ。様子がおかしいミツキを見て、すぐに理解したという。スキャンダルがネットの海をしたり顔で悠々と泳いでいるのだから、姉さんでなくとも分かるかもしれないけれど。
ただ、ミツキの場合はそれが理由ではない、と姉さんは言う。ミツキは例の
合鍵を使って部屋に入ると、ずっとキャティちゃんを抱きしめたまま泣いている様子は、シュンが原因としか考えられない、と姉さんは言って僕の頭を軽く叩いた。
「ミツキちゃんにはあんたしかいないの、分かってる?」
「あんなニュース流れたら、復帰が遠のくじゃない」
「ったく。あんたは金太郎アメね」
「は……?」
「言っても言っても、理解できない。つまりばか。
ベッドサイドに椅子を引っ張り出して腰かける姉さんの顔は、少しだけ怖い。怒っている様子だった。僕の身体のほうは全く気にかけていないし、心配するのが無駄だ、と言わんばかりに
「————分からない」
「でしょうね。普通の人はそう。同じウェイトの選択肢を突き付けられて、どちらが正解かなんてわかる人はいない。どちらかを選べる人は、どちらかに嘘をついて無理やり、ね。だけど、これだけは言っておくわ」
ミツキと一緒にいたい気持ちと、
「うん」
「どんな理由があっても、女の子を泣かすことは絶対に間違っているわ。もう一度あの子の話をちゃんと聞きなさい。話はそれからよ」
僕は……ミツキの話を聞いていなかった?
ミツキの言葉を思い出しては
————わたしはアイドルに夢なんて求めていない。一緒にいたい。シュン君がいればなにもいらない。
「————僕は間違っていたかもしれない。独りよがりで、自分の考えだけを押し付けてたんだ」
「もし、ミツキちゃんがあんたと同じ立場だったら、誰が駆けつけてくれるの?」
ミツキがもし倒れたとしたら。母親はすでに他界していて、父親は再婚して連絡がつかない。その父親がいつか自分を求めてくるかもしれない。だから、アイドルを続けている————僕は馬鹿だ。なんで気付かなかったんだろう。ミツキが求めているもの——夢をやっと理解できた。
いつかのバスの中で言ったミツキの台詞は、『シュン君のためならアイドルなんて諦めてもいいの。シュン君がいてくれたら、もう何もいらない』だった。つまり、父親を探しているのではなく、誰かに身を委ねられるぬくもりが欲しかった、のか。
————最低だ。僕は最低だ。
「帰る!!!!」
「は!? 退院許可が出てないでしょ」
点滴を引き抜く。少しだけ血が飛び散ったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
財布とスマホだけを持って、病室を飛び出した。待ちなさい、という姉さんの言葉も無視して、廊下を走った。絶対に走ってはいけない身体なのは分かっている。でも、急がなければ。そうしなければ、ミツキを本当に失ってしまうかもしれない。
今すぐにでもミツキに謝りたい。そして、僕の気持ちをもう一度伝えたい。
玄関前のタクシーに乗り込むと、運転手はぎょっとして僕を見たけれども、僕の
スマホからミツキに電話をするが、全く繋がらない。電波の届かないところにあるのか、電源が入っていないと告げられる。くそが、と毒づいても、スマホは平然とミツキと僕のツーショットの待ち受けを映すばかりで、何の役にも立たない。まるで、淡々と国が亡びることを告げる諦めの早い執事のようだ。シュン様、もう終わったのですぞ。ジタバタするのはやめましょう。阿呆か、終わってたまるか。死んでも姫を救いに行く。
家に着いて、すぐに離れの引き戸を開けようとするも、鍵が掛かっていてビクともしない。いないのか。いや、姉さんの話では、何も食べずに部屋に引き籠っていると言っていた。————暗い夜を一人過ごしたのか。大丈夫だったのだろうか。恐怖で一人震えていたのだろうか。
そう考えるだけで、僕は自分自身の心にナイフを突き立てたかった。あまりの怒りに、自分をぶん殴ってやりたかった。
「ミツキ!!!! 開けて!!」
反応がない。渋々、母屋に鍵を取りに行こうと踵を返した瞬間、引き戸が開いた。
泣きはらした顔で、初めてのプレゼントだったキャティちゃんを抱える姿は、まるで痛めつけられた
「シュン……君?」
「ごめん。僕、謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
「どうして……?」
「僕は間違っていたんだ。ミツキの夢はアイドルを続けることだって、それを一番の優先事項にして、一人、ミツキとの関係を悩んでいたんだ」
ミツキは軽く握った拳を口元に当てて、静かに
「ミツキが復帰するためには、僕はミツキから離れなければならない、なんて勝手に思っていた。でも、それって、僕の独りよがりの考えで。ミツキがどう思っているのかも考えないで、僕は自分の我を通そうとしていた。ごめん。もうそんなことはしないから。だからミツキの考えを教えて」
「シュン君、もしかして、それを言うために病院を?」
頷くと、ミツキはまた瞳いっぱいに涙を浮かべて、俯き加減に呟く。だめじゃない、と。でも、どんなに心配なんかされても、ちっとも僕の気は晴れない。ミツキに謝らなくてはならないし、ミツキの話を聞かなければならない。そしてミツキの気が済むまで怒ってもらわないと。
「わたし、決めたの。アイドルに復帰しようって。シュン君の言う通りだよね。みんなの期待に応えるために、今は力を蓄えなくてはいけないときに、甘えっぱなしで。それにシュン君の重荷になるわけにいかないもの」
「それでも僕は……」
「だから、今までありがとう。シュン君。わたしを愛してくれて。ほんとにありが……」
ミツキを抱きしめて、僕は思いきり、聞きたくない言葉を漏らす唇を塞いだ。ミツキの唇の感触が今までよりも乾燥していたけれど、僕もそれは同じだった。こんなに夏なのに。瞳を閉じる暇もなく、そのまま、キスをしたまま僕の瞳を覗いていた。僕も決して瞼を下ろさない。見ていなければ、今は捕まえておかなければ、飛び立ってしまう気がしたから。
「行くな。絶対に行かせない。僕の
「シュン……君……」
「僕と一緒に。一生僕と一緒にいてください。ミツキがいなければ、僕は生きていけない」
「まるでプロポーズね、シュン君。好きなだけでは結婚なんてできないの。でも嬉しい。わたしでいいの? もっとかわいい子とか、優しい子はいっぱいいるのに」
「……言葉でちゃんと伝えないと、ミツキはいなくなっちゃうでしょ。それに、僕はミツキがいい。ミツキじゃなければ駄目なんだ」
「ふふ。立場逆転ね。ああ。踏ん切りがついた。ありがとう。シュン君。アイドルは引退する。いいの? 甘えっぱなしで。わたし、きっと重いよ?」
「いいって。すべて受け止める覚悟くらいしてるよ」
アイドルを引退したら、わたし何すればいいんだろう。とりあえず、何をすればいいかを探すことじゃない。一緒に探してくれる。うん、もちろんだよ。とにかくシュン君は病院に戻らないとね。ああ、忘れていた。来てくれてありがとう。僕の方こそ、昨日は助けてくれてありがとう。ううん。ミツキ、もうさよならなんて言わないで。うん、シュン君も約束ね。
————ありがとうミツキ。
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