愛のカタチ【前編】

 新之助はラーメンを片手に、窓際で立っている。黄昏たそがれる、という言葉が適切なのか分からなかったが、少し落ち込んでいる様子だった。背中が少し寂しそうで、僕が声を掛けると、力なく振り向き呟く。



「俺はリア充の春夜しゅんやが憎いよ。最近、なんだか楽しそうで、絶対彼女ができたのだろう。ああ、彼女ができたのさ。いや、きっと彼女ができたのである」



 よく分からない三段活用で僕に迫る新之助は、まるで絶望をすするように、怨念おんねんを漏らす口に消えていくラーメンとともに、ちくしょう、と声を上げながら嗚咽おえつを上げるふりをする。結局なんなのだ。僕はリア充かもしれないけれど、新之助の前ではそんな雰囲気を出していないぞ。



「つまり、フラれたと?」


「違う。まだフラれていない」


「じゃあ、誰?」


園部三和子そのべみわこ。ああ、くそ」


 

 それは、難しいね、と僕は新之助の肩に手を置いて同情をする。園部三和子は同じクラスの少し陰のある女子。だけど美人である。ミステリアスな雰囲気と、どこか憎めない変わった言動をたまに放つ、いわゆる不思議ちゃんであった。はっきり言うと、新之助の隣に立つ園部三和子のイメージはない。どう考えても、不釣り合いだ。



「でも、なんで園部さんを好きになったのさ?」


「先週、紫陽花の森にある蕎麦屋に、急遽きゅうきょ手伝いに行ったんよ。そしたら、園部三和子が来て。その私服の可愛さと、紫陽花を見る彼女があまりにも可愛くて」



 私服の可愛さと紫陽花を見る可愛さの違いがよく分からなかったが、とにかく惚れてしまうことに理由はないということなのだろう。確かに、制服姿の園部三和子は、誰が見ても地味だ。それにおとなしくて、いつも本を読んでいる印象が強い。



「ギャップ萌えってやつなの?」


「ああ。よし、俺、明日告るから!!」


「え? 早いよ。とにかく、デートにでも誘って。話はそれからだよ」



 新之助はまた窓の外に視線を注いで、静かに呟く。



「お前、やはり彼女できたんだろ。言うことがリア充だ」



 僕は呆れかえって、やっていられない、と言い残し席を立った。その瞬間、前の席に一人で野菜ジュースを飲んでいたミツキと目が合って、思わず逸らしてしまう。新之助との会話はやはり筒抜けで、僕は思いきりため息を吐いた。でも、新之助には幸せになってほしいと心から思っていることは本当だ。少しうざいのだけれど。




 ダンス部の活動は、夏祭りに向けての練習が始まっていて、朱莉あかりは相変わらず僕にグミを食べさせながら絡んでくる。アイソレーションを教えろ、とか、どうやったら、サイドウォークが上手くできるのだ、とか。丁寧に教えているつもりが、速すぎる、と怒られたりして、またグミを食べさせられる。いったい、朱莉は何を目指しているのか。


 ミツキの指導も上達してきて、赤坂美瑠久あかさかみるく三國雫みくにしずくは、心からミツキを崇拝しているようだ。復活したら、絶対に花鳥風月プリズムZのコンサートを観に行くと言っているくらいに、熱を上げている。今だからこそ言えるのだけれども、と前置きした上で話す二人は、当初、日本を代表するトップアイドルなんてきっと性格が悪い、自分の美貌びぼうを鼻にかけている痛い人、などと思っていた、という。しかし、話していくうちにミツキの性格の良さや素直さ、優しさに触れて、女ながら惚れた、と語る。僕はその言葉を聞いて、すごく嬉しかった。



「朱莉さんも、上達が早いですね。赤坂さんと三國さんも、とても練習したみたいで、すごくお上手です」



 微笑むミツキが紡ぐ言葉は、多目的室の空気を和ませる。声に恋する、などという言葉を聞いた時、僕はあまり現実的な話ではないな、と切り捨てたことがあった。だが、今は理解できる。ミツキの声色は鼓膜の内側を撫でていき、僕の心のくすぐったい場所にふわりと着地して染みていく。これは、僕だけではなく、みんな思っていることだ。きっと。




 夕方の五時を回ろうとしているのに、空は未だに眠ることを知らない、青にだいだいを少しだけ混ぜたセロファンのような様相で、夏の始まりを告げている。午後の終わりまで降り続けた雨は、虹の向こう側で泣き止んだようだ。それを、素知らぬ顔で流れた雲の欠片は、まるで千切った綿菓子わたがしである。



「おいしそうな雲。シュン君、ねえ、また綿菓子食べたいな」



 後ろ手を組んだミツキは、僕の方に振り返って後ろ歩きをしながら無邪気に笑った。そうは言っても、綿菓子は祭りで食べるからおいしいのであって、スーパーに売っている駄菓子のような綿菓子は雰囲気が出ずに、あまり美味しいものではないような気もするのだが。


 坂を下る僕たちは、下校する生徒から見てもダンス部の仲間という認識が強く、誰も僕とミツキが恋人関係だということに気付いていない。これは、ダンス部の中でも同じだ。無論、朱莉も。


 朱莉に対しては、少し卑怯な隠し事のような罪悪感もあったのだが、重要機密事項であって漏らすわけにはいかなかった。どこで情報が流出するか分からないご時世に、易々と秘密を知られるわけにはいかない。ごめん、朱莉。



「じゃあ、今度何かのイベントがあったら、買ってあげるよ」


「そういえば。イベントで思い出したんだけど、紫陽花の森というところで、紫陽花祭りをしているの?」



 小首を傾げたミツキは、スマホを取り出して検索を始めた。やがて、木々の中一面に生い茂る紫陽花が、見事にスマホの画面を占領し始める。紫陽花の繊細な色遣いに、ミツキは食い入るように見ては、いいな、と呟く。そして、案の定、行きたい連れていって。行きたい行きたい行きたい、と駄々をこねる子供のように僕に頬を膨らませた。


 僕は周囲を見回して、下校する生徒の視線を確認してから、告げた。



「もし誰かに見られていたら、絶対にバレるって。普段、学校でそんな顔と声、さすがにしないでしょ?」


「ごめん。でも、シュン君が悪いんだからね」



 なぜ僕が悪いのか。僕はいぶかしんでミツキの顔を見る。硝子玉がらすだまのような瞳の中に、大空に浮かぶ雲の中に閉じ込められた光が無邪気に輝き、やがて顔を出す煌々こうこうとした夕陽が照らす世界が、狭隘きょうあいにも閉じ込められていた。



「えっと、僕はなにかやらかしたんだっけ?」


「学校で話せないし、くっつけないから、ここで溜まりにたまった鬱憤うっぷんが、破裂しちゃうの」


「それって、僕のせいじゃないような」


「それなのに、シュン君は朱莉ちゃんとも、他の子とも仲良いから、悔しいの」



 それを嫉妬というのだよ、なんて言ったら可哀そうだったので、僕は沈黙した。だって、僕がミツキと同じ立場だったら、辛くて、壁に頭を打ち付けて死んでしまうかもしれない。だから素直に、ごめん、と謝る。いつものようにミツキは笑って、嘘だよ、と僕の頬を指で突く。

 ミツキは嫉妬深いわけではなく——実際にはどうだか——僕と二人きりになった時に、みんなと仲良くした以上に構ってほしいという、独占権を行使したいのだという。それがたまらなく可愛くて、帰り道だというのに抱きしめたくなってしまう。当然そんなことはできないのだけれども。



「それで、連れて行ってくれるの?」


「致し方ない。お連れしよう姫。って僕も行ったことないんだけどね」


「涼森くんに会っちゃうかもね」


「あいつ、紫陽花の森の敷地内の蕎麦屋が親戚で、たまに手伝いしてるんだよ。蕎麦屋に近づかなければ、なんとかなるんじゃないかな」



 それに、ミツキが行きたいと言うなら、連れて行ってあげたい。それが例え、どんなに難攻不落な要塞であったとしても、攻略をしなければミツキ姫をめとることはできない。僕はミツキ姫のためだけに生きるナイトなのだから。姫、わたくしの後ろに。はい、ナイト様。




 今にも泣きだしそうな重厚な空は、来週には梅雨明けするというお天気お姉さんが言う通り、雨の気配を押し殺している。それでも晴れ間など期待をするのが空しくなるほど、水色の空は重い雲の陰で姿を現すのをはばかっていた。


 バスで一時間という、最寄り駅から東京まで行くのに掛かる半分の時間を費やし、着いた紫陽花の森は、杉の木が真っ直ぐに生えている、その名の通りの森であった。大自然に覆われた紫陽花たちは散水機の下で優雅に生を全うしていて、色づいた花弁の周りのがくが滴らせる水滴は、洒落た言葉で表すならば、命の雫。



 ワッシャースカートにスニーカー、それにTシャツ。ラフなファッションで土を踏みしめたミツキは、いつもよりもラフなファストファッションで全身を包んでいても、なぜかオシャレコーデであった。スタイルの良さが功を奏して、余計そのように見えるのかもしれない。実際、着こなし方も上手なのだが。



 紫陽花を見るなり、かわいい、と感嘆して僕に手招きする。紫陽花の色を語るミツキは、指差したそれらの花弁に魂を吹き込んでいく。


 この子はこのちょこっとしたこれが可愛い。あ、この子は珍しい色。この子は、うーん、よく道に咲いているのと同じなのかな。この子見たことなーい、可愛い。


 ミツキも花が好きなの、と訊くと、当たり前でしょ、と苦笑しながら僕に顔を向けた。確かに愚問であって、嫌いだったらこの場所に来るはずもない。いつだって、楽しんでいるミツキを見ることは、僕にとっての幸せそのものである。つまり、ミツキが好きだ、といえば、僕も好き、と言わざるを得ない——たまに反抗したりもするが。



「花山さん?」



 少し後ろの方で呼ぶ声がした。ミツキはゆっくりと振り返り、その存在を確認しようと目を細める。なぜ分かったの、と言いたそうに訝しむミツキの表情が真顔に戻る。声の持ち主を僕とミツキはよく知っていた。



「園部さん? なぜわたしだと分かったのですか?」



 それも愚問だったのかもしれない。花山さんを肯定する質問は、園部三和子の鎌かけの可能性があった。否定していれば、危険は免れたのかもしれないのに。しかし、もう後の祭りである。取り返しがつきそうにない。



「ふふ。だって、倉美月くんと一緒にいて怒られない女子は、野々村朱莉さんか、花山充希はなやまみつきさんのどちらかでしょう。野々村朱莉さんは、きっと変装なんてしないし」


「でもさ、同じ学校の子じゃない可能性だって——」


「声。花山さんのつやのある声は、間違えるはずないでしょう。倉美月くん」



 長く艶やかな長い髪を耳に掛けて、園部三和子は雨も降っていないのに傘を差していた。それを訊ねると、曇りの日でも日焼けをするからよ、と至極しごくまっとうな台詞を口にした園部三和子は、わずかに笑う。おかしなことを訊くのね、と。



「あの、園部さん、すごく言いづらいんですけれど」



 眉尻を下げたミツキは申し訳なさそうに園部三和子に歩み寄り、頭を下げた。



「大丈夫。言わないわ。私はお喋りではないの。それに、倉美月くんは良い子。花山さんあなたも。だから言わないわ」



 意味が分からなかった。やはりミステリアスな雰囲気で、掴みどころのない台詞を唱える園部三和子という人は、美しい魔女のようだ。きっとこの森に、魔術の材料でも拾いに来たのだろう。それとも、誰かを呪い殺す呪術の力を養いにでも来たのか。どちらにしても、火あぶりにされないように気を付けて欲しい。



「は、はい。園部さんありがとうございます」


「えっと、僕からもお礼を……」


「いいわ。でも条件があるの」



 園部三和子の言う条件が、魔術の実験台、もしくは呪いをかけるから髪の毛を差し出せ、という身の毛もよだつものでないことを祈る。超常現象的な力の前では、僕のような一介のナイトなんて気付かないうちに呪殺されてしまうだろう。



「条件……ですか?」


「園部さん、怖いよ」


「あそこの蕎麦屋さんで一緒に食事してくださらない?」


 

 指差した瓦屋根が立派な建物は、新之助の親戚が営むこの辺りでは有名な蕎麦屋である。無論、新之助がいることをミツキは知っているが、園部三和子も同様か、と言われれば、分からないと首を振るほかない。



「えっと、それはなんで?」


「ふふ。決まっているでしょう。そこに蕎麦があるからよ」



 僕とミツキは顔を見合わせた。ただの蕎麦好きなのか、それともお腹が空いた、ただの女子高生なのか。ともかく、三人一緒に入るならあまり問題はないように見えたが、新之助は疑うだろう。なぜ、春夜と花山充希と園部三和子が一緒に蕎麦を食べているのか、と。



 引き戸を開けると、立派な年輪の切り株が壁に使われていて、どの席も切り株でこしらえたテーブルが重厚感を醸し出している。柱と梁は、木を丸々一本使っていた。



「もしかして、園部さんは、蕎麦がお好きなのですか?」


「そこまで好きではないわ。むしろ、うどんの方が好きかしら」



 じゃあ、なぜ蕎麦屋に入った、というツッコミを入れようと思ったが、気分を害して吹聴ふいちょうして回られても困る。もう、園部三和子という人のことは放っておこう。




「あれ、なんで春夜と園部がいるんだ。あと……はじめましての人か」


 注文を取りにきた新之助は、変装したミツキに全く気付かないばかりか、園部三和子を僕が連れて来たと勘違いしたようだった。僕に耳打ちをする新之助は、感謝の言葉を告げる。そんなわけないだろう、とやはりツッコミを入れたかったが、園部三和子本人を目の前にして言うことでもないな、と嘆息して諦める。なんともどかしい。だが、園部三和子は僕とミツキがいるにも関わらず、一変する。



「す、涼森くん。えっと、あの。バイトは大変?」



 紅潮こうちょうさせた頬を両手で押さえながら、新之助を見つめる園部三和子は、どこか恋をしている様子だった。僕はもう苦笑するしかなく、新之助が可愛いと言ったのも納得できる。



「お、おう。園部は、今日も紫陽花を見に来たのか?」


「いえ、お、お蕎麦を食べに」


「そうか。まあゆっくり」



 退場しようとする新之助の腕を掴み、待て、と声を殺しながら目で合図する。



「園部さん、もし良かったら、新之助は一時にバイトが終わるから、そしたら一緒に紫陽花を案内してあげてくれないかな?」


「あ、ああ私でよければ、その、紫陽花を、その一緒に」


「お、おう。じゃあ、急いで片してくるから待ってろ」



 山菜の天ぷらが山盛りの皿と手打ちの二八蕎麦が盛られたざるは、そのたたずむ姿だけで空腹が満たされるのではないだろうか。とても一人で食べきれる自信がなかった。

 ところが、ミツキと園部三和子は両手を合わせて感嘆していて、いただきます、という掛け声で割りばしが威勢よく蕎麦の山を潜っていく。鼻を抜ける蕎麦の香りと、口の中で粉砕される衣の中の苦みに混じる甘さが、絶妙に舌の細胞を活気づけている。



「はあ。おいしい。信じられない。シュン君、ここ定期的に来よう!」


「花山さんも、そんな顔するのですね。興味深いわ」


「もう。園部さん、ごめん、これも内密にしてもらっていいかな?」


「どうかしら」



 ミツキを見て少し嗤う園部三和子は、音を立てずに蕎麦を啜っては、山菜の天ぷらを汁につけている。やはり変わった人だ、と僕は蕎麦を啜りながら思った。

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