ストロベリーの真実@文化祭【後編】

 場の雰囲気が凍り付いた。思わせぶりな志桜里の言葉に、ミツキの笑顔が消える。いや、誰だってそんな官能小説のような言葉を呟かれたら、卑猥ひわいな想像をしてしまうだろう。



「ちょ、ちょっと。志桜里しおりと僕は、その、何もなかったじゃない」


「は? なにも? ファーストキスをしたのを覚えていないの!?」


「ファ、ファーストキス……ですか……」


「それ、小三ね。しかも志桜里がいきなりしてきたんでしょ」


「ファーストキスには変わりはないでしょ」



 不貞腐ふてくされる志桜里を尻目に、僕はミツキに告げる。嘆息たんそく交じりに出た言葉は、志桜里とは本当になにもないから、と。


 ただ、どこからが何もない状態で、どこからが関係を持ったことになるのか、という線引きができない。自分のそういった経験の履歴書には、何歳からの経験を書きこまなければならないのか。性行為をしていないのは確かであるが、抱きしめたことは何回もある。恐らく三歳から今までの年数の中で、最低でも一〇回は抱き締めている、はず。小学生の時のことでよければ、志桜里の言うとおりキスもしたことになる。



 

 迂闊うかつにも、一度だけ花鳥風月プリズムZ結成後の志桜里とデートしたことがあった。人気が出始めていて、テレビやネットへの露出が多かった時期だ。これが僕にとって、志桜里との初デートになる。


 あるダンスの大会で、結果が三位に終わった日。志桜里はひどく落ち込む僕を連れ出した。


 灰色の海の中を、泥にまみれながら仄暗ほのぐらい底に落ちていく僕の心を、志桜里は抱き締めて海面に引き上げるように慰めた。体育ホールの階段で座り込んで一歩も動けなくなった僕を、志桜里は優しく抱きしめて。僕は生まれて初めて女の子の腕の中で大泣きした。


 その時のストロベリーの香りがとても印象的で、僕は弱音を吐き、志桜里に甘えてしまった。それが今でも志桜里を苦しめているなら、解放してあげたい。



 だけど、その夜、渋谷で事件は起こった。



 変装をしない志桜里は、たまたま鉢合わせた花鳥風月プリズムZのファン、プリズマー数人に囲まれてしまったのだった。いや、プリズマーなどと言えないほど、ガラの悪いファンたち。肩や腕を掴まれて、嫌がる志桜里の意思など完全に無視。多勢たぜい無勢ぶぜいで太刀打ちなんて到底出来そうもない僕は、隙を見て志桜里をさらった。腕を掴んで走った道玄坂。追いかけてくるプリズマーたちを巻くのに三〇分近くかかったのだから、志桜里はとても恐い思いをしたはずだ。



 その時のことを志桜里は、きっと今でも覚えていて。窮地きゅうちに陥れば僕が助けてくれる、と。だからこそ、変装はしないのだ。おそらく、普段の志桜里は変装をしているのだろうけど。


 僕の前だけは変装をしないのだと思う。あの日のように助けてくれる、なんて淡い期待を胸に秘めているのかもしれない。だけど、僕は、もうあの頃の僕とは違う。



 お願いだから、僕の前でもちゃんと変装はしてほしい、のに。



 僕をなにかのヒーローと勘違いをしていて、そんな僕が好きなのだ。きっと、そうに違いない。ヒーローのふりをした倉美月春夜くらみつきしゅんやがきっと好きなのだ。



 この一連の流れを、志桜里は思わせぶりに、あえてミツキに言ったのだ。



 シュン。あなたしかいないの。私をもう一度奪って。シュン……お願い。あの激しく熱い夜が忘れられないの、と。ミツキを揺さぶってどうにかなると思っているわけではないと思うれけども。


「思わせぶりな言葉でミツキを不安にさせないでよ。それは、僕が渋谷で志桜里を助けた時の話でしょ。汗だくで」


「嘘はついていないわ。それに、ずっと相思相愛だったじゃない。なのに。それなのに」


「でも付き合っていたわけじゃないし、僕がはっきりしなかったことは悪かったと思うよ。だけど、自分の気持ちが分からなかったんだ。志桜里のことは好きだけど、それが恋愛の感情なのか、そうじゃないのか」


「言ってくれたじゃない。志桜里のこの香りが好き。ずっと抱きしめたくなっちゃうって」



 それは。それはミツキの前で言わないで欲しい。当時の僕は無知だった。そういう言葉を吐けば、責任が付きまとうことを知らなかったのだ。姉さんがいつか言っていた、無責任なくらいがちょうどいい、という言葉。僕は志桜里の押しの強さに負けてしまうから、あまり考えすぎないほうがいい、って。



「志桜里。ごめん。僕は志桜里の期待には応えられない。あの時のことは謝る——」




 ミツキに同じ香りをまとわせて満足なの?




 ぽつりと呟いた志桜里の言葉に、僕は視線をらした。言ってほしくなかった。僕がミツキにそうさせたわけではない。だけど、結果的にそうなってしまった。




 シュン君はどんな子が好きなの。ストロベリー。え、なに?


 ————ストロベリーの香りのする子。




 ミツキと付き合う前に何気なく会話したこと。言われなければ思い出せないような何気ない会話だったと思う。だけど、まさか、ミツキが本当にその香りを纏うとは思っていなかったのだ。

 ミツキがまだ僕と出会ったばかりの頃、僕は志桜里が好きだと思い込んでいた。好きでなければいけないと、自己暗示のように思っていた。だから、そんなことを言ってしまったのだと思う。



 あの桜の下で告白をしたミツキの香りは、フローラルからストリベリーに変わっていた。告白の場所をあえて自室からあの桜公園に移したのだ。準備すると言って、きっとストロベリーの香りを……。



 ————自分の香りを変えるために。



 静かすぎて告白できない、なんてことは、よく考えればありえない。



「だから、さっき背中を向いていてもミツキだと分かったわ。シュンがそんな独りよがりな人だと思わなかっ————」


「違う!!! 違うの。シュン君の好きな人の香りなら、わたしはその人の香りを使ってでも振り向かせたいと思っていたの。あの時のわたしはシュン君のためなら、なんでもできたし、わたしを受け入れてもらえるなら、どんな手だって使ったと思う。それは今でも変わらない、揺るぎない事実なの。だから、すべてわたし一人でやったこと。シュン君はわたしになにも言っていないの」


「分かった。もう十分分かった。志桜里はなにがしたい? 思わせぶりに匂わせたり、ミツキに食って掛かって、何がしたいの? ちょっと性格悪いよ。あの頃の志桜里は、もっと優しく————」


「そうよ。性格だって悪くなるほど、ミツキが憎い。私のシュンを奪っていったミツ————」


「思っていないようなこと言うなよ。本当はミツキにも会いたくて来たんだろ。売り言葉に買い言葉なんじゃないの。憎いんじゃなくて、悔しいんでしょ。恨む相手を間違えてるよ。ミツキじゃなくて僕を恨んだらいいよ。もう沢山だ。ミツキとやりあうなよ。見ていて辛いんだ」



 ベンチから立ち上がった志桜里はいつの間にか泣いていたようで、涙を拭うと、ごめん、とミツキと僕に頭を下げた。いつもこうなっちゃうね、と言って。


 僕とミツキに見せる志桜里の背中はとても小さくて、可哀そうに思えた。でも、どうすることもできない。それはミツキも同じようだった————いや、ミツキは立ち上がり、その背中を抱き締めた。



「わたしがね、同じ立場だったら立ち直れなかったかもしれない。わたしが言うのは、少し変な話かもしれないんだけど」



 志桜里ちゃんごめんね。辛いよね。でも、これで、おあいこにしてあげる。



 ————!?



 おあいこ、の意味が分からなかった。いったい、志桜里とミツキの間に何があったのか。僕の知らないところで何かが起きているのか。



 振り返った志桜里は目を見開いていて、目尻に寄せた黒目が少し揺れていた。明らかに動揺をしている志桜里はミツキを振り解き、きびすを返す。


 ミツキは少しもおくすることなく、真っ直ぐに志桜里に向き合う。その冷たい表情は花神楽美月はなかぐらみつきのもので、それでいて、僕の知らないミツキの顔だった。



「ミツキ、おあいこって……」


 志桜里が呟く。


「わたし、知っているの……志桜里ちゃん。隠さないで。シュン君には言っていない。でも、言ったらどうなると思う?」


「————分かった。ごめん。私が悪かった。でも、あれは————」



 志桜里から視線を外さずに、静かにかぶりを振るミツキは、揺るぎない視線を志桜里に浴びせていた。その唇がわずかに開いた時、志桜里は後ずさりをして、崩れそうな表情を必死に隠そうと顔を背ける。



「だから、シュン君のことは諦めて。これは今、この時しか言わないから。覚えておいて」


「————分か……った……わ」


「うん。じゃあ、仲直りね!」



 けた氷の冷たい水分が蒸発して、その中に秘められた菜の花が生き生きと太陽の視線を浴びて背伸びをするように、ミツキもいつもの表情に戻っていた。志桜里にすごんでいた花神楽美月とは対照的な表情の花山充希はなやまみつきは、志桜里をもう一度抱きしめて、ごめんね、と呟く。その後、僕を一瞥いちべつすると、優しく微笑んだ。



 会話の脈からして、僕が首を突っ込む話でもない、と自分を納得させた。それに、ミツキを信用している。もし、僕が知らなければならない話なら、きっと話してくれる。だから、そっとしておこう、なんて思っているけれど、ミツキも志桜里もとても心配だ。なにか、わだかまりがあるのは確かなのだし。



 

 何事もなかったかのように、いつもの二人にもどったミツキと志桜里は、再び校舎に戻った。


 再び、僕とミツキはクラスに戻ると、廊下に列ができるほどの大盛況で、志桜里とミツキを見つけたお客さんが一斉に歓声を上げた。素知らぬ顔で彼らをき分けて隣の美術準備室——うちのクラスの休憩場所に指定されている——に入り、身体中の二酸化炭素がすべて出てしまうのではないか、とミツキが心配するくらいに僕は嘆息した。



「春夜~~。あと花山。ちょっと交代入ってもらってもいい?」



 引き戸から顔を覗かせるクラスメイトの男子は、せわしなく戻っていった。



 仕方ない、と言ったミツキだったが、表情からしても待っていましたと言わんばかりにやる気に満ちていて、メイクを直し始める。俯く志桜里の肩に手をかけて、やろう、と僕が声を掛けると振り返って、いいの、と。



「一度乗った船だし、気を取り直してお願いしていいかな」


「シュンがそう言うなら、手伝ってあげてもいいけど、ね!」


「志桜里ちゃんゾンビにも、盛り上げてもらわないと」



 再び教室に戻った僕たちは、再びお客さんをこんにゃくの餌食にして楽しむ。なぜかミツキ幽霊も、志桜里ゾンビもこんにゃくを片手に持って。



「お、おじゃま……しまぁ……す」



 聞き覚えのある声が聞こえてきた、なんて思っていると、朱莉あかりがミニスカメイド服のまま遊びに来たみたいだ。僕のミツキは互いに見合って頷き合う。うん、こんなチャンスはない。あの朱莉を恐怖のどん底に突き落とせる千載一遇せんざいいちぐうのチャンスなのだから。



 きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。



 朱莉が、あの朱莉があんなに悲鳴を上げるなんて、こんなに面白いことがあるだろうか。日々のグミ攻撃の反撃をするなら今しかない。さあ、こんにゃくを構えろ。狙いは朱莉少将のみだ!



「朱莉ちゃん、可哀そうじゃない?」


「ミツキ、それは違う。野々村さんはお化け屋敷に入ったってことは、もう恐怖のどん底に落ちる覚悟をしていて、それを楽しみにしているの。だから、精一杯驚かさないと失礼よ」



 小声で話す二人の会話は、まるで地獄の沙汰さたを相談する魑魅魍魎ちみもうりょうの姿そのもの。東洋と西洋の和洋折衷わようせっちゅうは、まさに恐怖の文化交流といったところ。


 ミツキ幽霊はこんにゃくを片手に、腹裂き妊婦を越えてきた震える朱莉にそっと近づく。きっと、いたずら心いっぱいにその頬にこんにゃくを当てたのだろう。その楽しそうな表情は、まるでいたずらが華麗に決まった小学生のよう。



 いやああああああああ。



 引きつった朱莉の顔の前に、ふらふらと志桜里ゾンビが現れた。引きずった足には血のりをつけて。野々村さん、なんで私を殺したの。なんて意味の分からない設定を口走る志桜里は、へ、なんて声を漏らす朱莉の太腿をこんにゃくでなぶる。



「いやあ。なんなのこれ。なんのいじめ!?」



 僕はそっと背後に近づき、その首筋に冷えピタを貼った。もうこれで朱莉は撃沈。腰を抜かした朱莉にミツキは近づき、ごめんね、なんて。泣き始めた朱莉の前にしゃがみ込んだ志桜里は、怖かった? と声を掛けるが、朱莉は泣き止まない。



「朱莉って意外と弱虫なんだね」



 だけど、僕の声だけには反応したようで、振り返り、眉根を寄せて叫ぶ。完全に痴漢だからね。ああ、はい。ごめんなさい。でも、楽しくて。つい出来心だったんです。



「鳥山さんが帰っちゃう前に、挨拶したかっただけなのに。ここにいるって聞いたから来てみればこれだし」


「あれ、野々村さんってお客さんじゃなかった?」



 ちゃんとお礼ができなかったから、と言った朱莉はの瞳は涙目で。ゾンビの志桜里を真っ直ぐに見ることができなかったようだった。あまりにもゾンビのメイクにリアリティがあったからかもしれない。いや、違う。志桜里のことがそれくらい好きなのだろう。だが、真実は朱莉に訊かなければ分からない。



 渡したいものがあるから、帰る前に自分のクラスに寄ってほしい、と言い残して朱莉は帰っていった。だけど、すんなり教室を出ることは叶わず、結局二周目もこんにゃくの餌食になったのだった。当然、僕は全力でこんにゃくを投下した。ミツキも志桜里も面白がっちゃって。



 そして、文化祭の終了間際に、今度はミツキと志桜里のこんにゃく当ての戦いが始まり、互いにののしり合った——もちろんじゃれ合いだけれども。それを見ていたクラスメイトは大笑いをした挙句、どちらが勝つかジュースを賭けて予想をする始末。これはこれで、文化祭の締めとしては最高のショーだった。



 そして、墓場の決戦の勝敗はつかぬまま、文化祭は幕を下ろした。



 喧嘩するほど仲が良いとは言うけれど、この二人は本当に仲が良いのか悪いのか。

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