第6話 那月の自宅
24時間営業の牛丼屋で腹ごなしを終えて、二人は街灯の少ない路地を歩いていた。
慣れない様子だった那月は普段このような店で食事をする機会は少ないのだろう。
丁寧な所作や言葉遣いからも複雑な事情があるのだと垣間見える。
誠がそのことを追求しなかったのは、牛丼が上手く喉を通らない程度には緊張していたからだ。
なぜなら、そう。
「もうすぐ到着します。ほら、あのアパートです」
那月が指さしたのは至って普通の集合住宅。
つまり――那月の自宅である。
「言った手前アレなんだけど……いいのか?」
「良いも何も、約束じゃないですか。場所は狭いかも知れませんが綺麗にはしているつもりなので」
「……那月ってお人好しとか言われてそうだな」
「何故ですか?」
「出会ったばかりの男を一人暮らしの家に上げるとか、下手したら襲われかねないだろ」
純粋な心配だった。
異世界で過ごしてきた誠から見て、那月の警戒心のなさは呆れるレベルだ。
約束はしたが、代案など幾らでもあるだろうに。
例えば金だけ渡してホテルに一人で泊まってもらうとか。
那月は立ち止まり、ふと振り返る。
誠と目を合わせ小悪魔のような笑みを湛えて、
「――誠さんは、
艶やかに唇を舌で舐めて湿らせ、小首を傾げていたいけな少女を演出する。
明らかに那月は誠を揶揄っていた。
それを理解して誠は余計に頭を抱える。
天然なら救いようがあったが、わざとだから手に負えない。
那月は『鏡界迷宮』で誠と過ごした短い時間で、彼の人となりを把握していた。
慎重かつ冷静、約束をキッチリ守る律儀な性格。
だから誠を家に連れ込んだところで、無理矢理手を出されるようなことはないと考えていた。
仮に誠が情欲に負けたとしても、そう悪いことにはならないだろうと打算も込めて。
「はぁぁ……」
「なんですかそのため息は!」
「いやな、存外に那月の頭が残念なことがわかってしまってな……」
「残念ってなんですかっ! 酷いです!」
「悪い悪い。ほら、鍵を持ってるのは那月なんだから頼むよ」
「……絶対に後悔させます」
那月は馬鹿にされた分の屈辱くらいは晴らしてやろうと心に決めて、部屋の扉を潜った。
整頓された玄関に並ぶ誠と那月の靴。
短い廊下を抜けてリビングに到着し、那月がパチリと電気をつけて遮光カーテンを閉める。
「荷物はその辺に置いておいてください。手狭ですが、我慢してくれると助かります」
那月は手狭といったが、誠にしてみれば十分すぎる広さを有していた。
リビング、キッチンの他に那月の部屋あり、お手洗いと浴室は別。
二人でも手狭ということはないだろう。
家具や物は少なめだが、シンプルな色調で統一感があり落ち着いていた。
窓辺に置かれた観葉植物は生き生きと葉をつけ、仄かに甘い芳香が鼻腔を擽る。
懐かしい地球の、それも女の子の家に来たのだと徐々に実感が湧く。
「文句なんて何も無いよ。本来なら野宿だっただろうし、雨風が凌げるだけで万々歳だ」
「そう言って貰えるなら連れてきた甲斐があります。着替えは浴室前の脱衣場を使ってください……あっ、服のことをすっかり忘れていました」
「それは大丈夫だ。鞄の中に入ってる」
床を汚さないように鞄から取り出した毛布を敷いて、その上に外した装備品を並べていく。
すっかり身軽になったところで、「では」と那月が声をかけた。
「先にシャワーを浴びてきませんか?」
「あー……いや、間借りしている身で悪いって」
「ですが、無事で帰ってこれたのは誠さんのお陰ですし、今は大切なお客人ですから」
「俺が一人じゃどうしようもなかったって。多分、まだ迷子になってた自信がある」
互いに譲り合い、どちらも引くことはない。
自論を並べること数分、はっと何か良い考えが浮かんだらしい那月がポンと手を叩く。
「なら、一緒に入りましょう。少し恥ずかしいですけれど……妥協点としては悪くない――」
「――わかった、わかった! 俺の負けだ!」
誠は両手を上げて降参の意を示した。
ふざけた内容、しかし那月に冗談の色は皆無。
口で言っても無駄だと即座に悟った誠が取れる選択は事実上これだけ。
「ふふっ、私の勝ちです。シャワーを浴びている間に部屋の準備をしておきますね」
「何もかも手のひらの上ってか……」
「そういうことです」
釈然としないまま、誠は着替えを持って一人で浴室へ向かうのだった。
那月の言いつけ通りに脱いだ服を洗濯機に放り込んで浴室の中へ。
掃除の行き届いた清潔な浴室。
久方ぶりに触れる化学の利器に感動を覚えながら、シャワーのレバーを倒す。
響く水音、水温を調節して頭から浴びていく。
温めのお湯が疲労を訴える身体を解し、気の抜けた息が漏れた。
白い湯気が浴室を満たす。
「なんつーか、色々ありすぎて頭の整理が追いつかないな」
二度目の転移で地球の平行世界に飛ばされ、洞窟で出会った那月と共に戦い死線を乗り越えた。
時間の濃縮度合としては異世界での出来事に勝るとも劣らない。
転移初日に裏路地でゴロツキにボコられたところを拾われたり。
一歩間違えば死んでいたような戦場で魔物と刃を交えたり。
ダンジョンで遭難して決死のサバイバル生活をしたり。
誠が苦労した記憶は枚挙に暇がない。
「……那月に会えたのは奇跡的だったな。感謝してもしきれない
あんなに早く『鏡界迷宮』を脱出できたのは他ならない那月の手柄だ。
それに誠はこの世界のことをよく知らない。
似ているようで全く違う世界。
現地人の協力を得られることの重要性は一度目の異世界転移で身をもって知った。
「シャンプーは……これか」
片手でポンプを押して手に取り軽く泡立ててから髪を洗う。
無心で手を動かし、お湯を被って泡を流す。
続けて身体を丹念に洗う最中、棚に置かれたアヒルの玩具が目に入る。
それは必然、那月の所有物であるからして。
湯の張った浴槽にアヒルの玩具を浮かべて入浴を楽しむ那月の姿を想像してしまい――フルフルと勢いよく首を横に振った。
「なに考えてんだか……」
降って湧いた煩悩に我が事ながら呆れを隠せない。
水音で心を落ち着けながら、身体中の泡を流して湯気に満ちた浴室を後にした。
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