第9話 名前
ピピピ、ピピピ。
目覚まし時計の電子音が響く那月の部屋。
もぞり、ベッドで眠る那月が身じろき、目覚まし時計を止めて身体を包み込む布団の暖かな余韻にしばし浸る。
緩んだ表情。
不眠症気味だった那月にしては珍しく、昨晩は熟睡することが出来た。
過度のストレスは人の精神を狂わせる。
現に壊れかけだった那月を繋ぎ止めたのは、昨日『鏡界迷宮』で出会った一人の男で。
「……起きないと」
身を起こし窓から差し込む朝日を浴びながら背を伸ばす。
普通の朝。
けれど、それは失っていた日常の1ピース。
思い出したかのように足元の布団へ視線を移すと、そこに誠の姿はもうなかった。
代わりに漂う食欲を唆る香ばしい香りと、食パンが焼きあがったことを伝えるトースターの音。
懐かしさすら感じるまともな朝食の気配を察知した那月は、昨日のことが夢ではないのだと安堵の息を吐く。
「……世話を焼くのが趣味なのでしょうか」
昨日の今日で朝食を作っている誠の人の良さに感謝しながら、先に挨拶だけはしておこうと那月はリビングへと向かった。
「おはようございます」
「ん、おはよう。よく眠れたみたいだな」
キッチンで朝食の準備中だった誠は、那月の声に手を振って答える。
魔導式のコンロの上のフライパンでは、炒り卵と薄切りベーコンが焼かれていた。
「勝手にキッチン借りてたけど大丈夫だったか?」
「それは構いませんし、朝食を作っていただけるのは有難いのですが、その……寝不足ですか?」
こてんと小首を傾げて那月は問う。
フライパンと睨めっこをする誠の目元には薄らと隈が浮かんでいた。
するとバツが悪そうに苦笑し、「まあな」と短い言葉で認める。
「枕が合わなかったとか、布団で寝にくかったとかですか? 狭くてもベッドで一緒に寝るべきだったでしょうか……」
「いやいやそれは色々と拙いって」
「で、ですよね……いきなり同衾は心のハードルが高いので一歩ずつ――」
「そうでもなくて! ……緊張して寝られなかったんだよ」
「どうしてですか? 場所も別だったじゃないですか」
「那月みたいな……可愛い女の子が一緒の部屋で寝てたら嫌でも緊張するんだよ! 等間隔に響く静かな寝息とか、身じろきの音とか!」
「かっ、可愛いっ!?」
かあっと白皙の肌が真っ赤に染まり、思考回路が一瞬にしてショートする。
真正面から向けられる飾り気のない好意に、純粋な少女の精神は耐えられなかったのだ。
わなわなと震える那月。
やってしまったと頭を抱える誠。
片や自分になんて興味が無いだろうと高を括っていた手前の告白に困惑して。
片や必死に意識から逸らしていたことを口にしてしまった後悔に羞恥して。
――ジューっと、焦げた匂いが鼻をついて。
「――
いち早く復帰した那月がコンロの電源を落として火を止め、遅れて誠が焼き加減を確かめる。
「あっ……やっちまった……」
炒り卵とベーコンの一部には黒く焦げ目がついてしまっていた。
自分一人で食べるのなら気にならない失敗だが、これは那月の分も含まれている。
「はぁ……」
「そう気を落とさないでください。多少焦げていても味はそこまで変わりません」
那月のフォローが傷心中の心に染みていく。
失敗してしまったものは仕方ない。
割り切った誠は二つの皿に盛り付け、那月がリビングのテーブルへ運ぶ。
朝食のメニューはトーストと焼きベーコン、スクランブルエッグとカットしたキウイを少々。
シンプルながら外れないものを誠が勝手に冷蔵庫の中から選んだ結果だ。
そのうち二つは焦がしてしまったが、それはそれ。
「頂きます」と揃って手を合わせ二人は朝食にありついた。
気まずい雰囲気はどこへやら、会話は少ないものの居心地のいい空気が流れる。
孤独に慣れた誠にしても、孤独を孤独と思わなかった那月にしても。
心安らぐ一時であることに変わりはない。
「……そういえば。さっき名前で呼んだ?」
「――っ、はい。だって、仲間ですから。何時までも苗字で呼ぶのもよそよそしいですし」
「それもそうか」
特に深く考えることも無く納得した誠の対応に、秘かに安堵し胸を撫で下ろす。
じんと胸に温かいものが広がって、このドキドキを何時までも感じていたいなんて思って。
「――誠さん。昨日話しそびれたことがあるんですけど、いいですか?」
「ん、ああ」
「私が『鏡界迷宮』にいた理由は調査でした。同行者もいましたが、転移の罠に嵌って散り散りになり……オーガから逃げている途中に誠さんに助けられました」
「災難だったな」
「本当に、誠さんに助けてもらえなければ死んでいました。ですが、問題はそこではありません」
「というと?」
「巻き込まれた同行者が言っていたんですよ。『話が違う。俺達も巻き込まれるなんて聞いてない』……と」
那月は同行者の悲痛な叫びを語る。
誠は眉根を寄せながら、その言葉から推測できる裏を読む。
「那月の同行者は裏切られた……?」
「恐らくは。元々、私を殺すための調査と称した罠だったのでしょう。ですが、協力していた同行者も口封じの為に殺された」
「筋は通っているな。でも、那月を殺そうとする理由は?」
「私が生きていては両親の真相を暴かれると警戒しているのでしょう。犯人の目星はついていますが、決定的な証拠が足りません」
「つまり、また狙われる危険性があると」
「……はい。今からでも昨日の話をなかったことにして構いません。きっと誠さんも私といると狙われてしまいますから」
確信めいた予感。
危険に晒したくないと突き放す自分と、出来ることなら傍にいて欲しいと思う自分。
卑怯だと指をさされても仕方ない。
那月には、誠の答えがわかっていたから。
「別にいいって。乗りかかった船だ、最後まで付き合うよ」
誠は期待を裏切ることなく、当たり前のように那月といることを選択した。
それがどうしようもなく嬉しくもあって、情けなくて、申し訳なくて。
耳触りのいい言葉が心地よくて。
完全に委ねてしまいそうになる弱い心を叱咤し、彼のために出来ることを考える。
「そう言って貰えると心強いです。でしたら、今日は生活に必要なものを揃えに行きましょう」
「俺お金なんて持ってないぞ?」
「心配しないでください。今日のところは私のお財布から出しますから。その代わりと言っては何ですが、私の用事にも付き合って欲しいのです」
「わかった。まあ、荷物くらいは持たせてくれ。見てるだけなのは男としての沽券に関わる」
「どう繕ってもヒモですけどね」
「那月は俺の事をそこまでしてヒモにしたいの??」
「さあ、どうでしょうね」
意味深げな笑みで誤魔化され、一刻も早く自力で金を稼がなければと使命感に駆られる誠だった。
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