一方、そのころ春咲さんは。
沢野陽:『くれぐれも知らない人や霧谷が来ても、ドアを開けたら駄目だよ』
春咲冬葵:『はいはい。知らない人や霧谷さんが訪ねてきても、開けたりしません』
沢野陽:『悪い。霧谷が来たからまた後で連絡する』
春咲冬葵:『はーい、いってらっしゃい。楽しんでくださいね』
わたしはラインを打ち込んでから、スマホを机に置いてからふうと息をつく。
「することがありません……」
洗濯物はさっき取り込み終わってしまったし、沢野さんから今日はご飯をいらないと連絡があった。
他の人が食べるなら気合いが入るのだが、自分のお腹を満たすだけなら最低限の簡素な食事だけでいい。
それこそおにぎりと、昨日の残りものの味噌汁だけで事足りてしまう。
しかし、そんなことより冬葵を悩ませる問題がある。
彼女の目下の悩みは――
「静かですね」
そう、静かだ。
しんと静まり返っていて何一つ物音がしない。
手狭だと感じてしまうこの家が、広く錯覚してしまう。
いまここにいるのは自分一人なのだと、否応なしに理解させられる。
なんだかそれは。
とっても、寂しいことだ。
「寂しい? ……わたしが?」
わたしがそんなことを口にしてしまったのは。
一度でもそんなことを思った自分に驚いているからだ。
自分の家から、あの場所から逃げ出したとき。
わたしはひとりで生きていくつもりだった。
たとえ泥水を啜ってでも、地べたを這いまわることになろうとも。
それがまかり間違って、いろんな紆余曲折を経て、同級生の男の子の家に上がり込んでしまったのだけれど。
――そのときに比べたら、自分は随分と弱くなったものだと思い知らされる。
思い出すのは、つい数時間前のこと。
朝、登校したばかりの冬葵に、柳川さんという女子が絡んできたとき。
あんなふうに意地悪をされたのはあれが初めてではない。
これまで何度も何度も柳川さんは、わたしに突っかかってきた。
お高く留まってるのが気に食わないだとか、クラスの人気者だからって調子乗ってんじゃねーよとか、そういう身に覚えのない絡まれ方をされてきた。
まあ、それはどうでもいい。
柳川さんのことは本当にどうでもいい。
彼女に絡まれたところで、何とも思わなかったから。
無視して彼女が言いたいことを言い終えて、飽きるのを待てばよかった。
現にあんなよく分からないビラを学校中にばらまかれても、わたしは動じなかった。
彼女の取り巻き立ちに馬鹿にされて、笑われて、転ばされて手を踏まれたところで心に何のさざ波は立たなかった。
……いや、そう思い込んでいただけなのかもしれない。
彼に、沢野さんに保健室へと連れ出されて。
ふたりきりになった途端、なぜか涙が込み上げてきた。
すぐに堪えようと思ったのだけど。
自分の意思に反して涙は勢いを増すばかり。
そんな自分が惨めな存在に思えてきて。
悲しくて悲しくて、不覚にも泣いてしまった。
よりにもよって、あの陽の前で。
彼には家まで提供してもらったり、小説の相談をしたり、たくさん迷惑をかけているのに。
わたしが彼にしてあげたことといえば、せいぜい家賃を払ってあげたり、食事や洗濯、お風呂を沸かすか掃除程度だ。
わたしは沢野さんに、何も返せていない。
だというのに、彼にまた借りを作るようなことをしてしまった。
それでも彼は嫌な顔をするどころか、申し訳なさそうな顔をする。
本当に沢野さんには……頭が上がらない。
さっき迷惑をかけてしまったお詫びに、料理の一つでも振る舞いたいのだけれど。
でも肝心の彼はいない。
バイトで遅くまで家を空けるときはあるが、それでも沢野さんは決まった時間に帰ってくる。
けれど友達との遊びとなればいつ帰ってくるか分からない。会話が弾んで長引けば、バイトが終わるよりも遅い時間帯かもしれない。
……そう考えると、なぜか無性に落ち着かない。
彼がいつ帰ってくるのか分からないというだけで、どうしてこんなにも心がかき乱されるのだろう。
最近の沢野さんは、無理をしている気がする。
口にこそ出さないけれど、どこか緊張した面持ちで、ぴりぴりとした鬼気迫るような何かを、冬葵は感じていた。
彼が何を抱えているのか、問いただしてみたい気持ちはある。
でもそれを聞く権利は自分にはない。
だって自分の家の事情を、沢野さんには何一つ明かしていないから。彼も気になるだろうに、わたしの家出した訳を聞こうとはしない。
そういった沢野さんの優しさに甘えているという事実に申し訳なさはあるけれど、それ以上に、ありがたいと思っていた。
そんなわたしが、沢野さんに何を隠しているのか。
それを尋ねる資格は持ち合わせていない。
でもそれはそれとして、彼が何をしているのかは気になる。
もしかしたら学校で配られていたビラと関係のあること……と考えてしまうのは、いくらなんでも自意識過剰だろうか。
せめて危ないことに首を突っ込んでいなければいいのだけれど。
「……」
そう考えると、心配になってくる。
そこにもちろん他意はない。
……決して彼がいないから寂しいなんてことはなく。
純粋に彼の身が心配なだけだ。
わたしは無意識の内にスマホを手に取って、ラインを立ち上げる。
『いま、なにしてるんです?』
そんなメッセージを送りかけて、はたと我に返る。
こんなものを送りつけてしまえば、寂しくて構って欲しい女になってしまうではないか。
せっかく彼は自分という重荷から離れて、友人と気兼ねなく過ごしているというのに……迷惑極まりない。
こちらを気遣わせてしまう余計な連絡はだめだ。
モヤモヤとした気持ちを振り払うように、スマホを机の上に置いた。
「……何時に帰ってくるかを尋ねるくらいなら、迷惑じゃないかしら?」
スマホを再び手に取った。
威圧的な文章になってないかとか、ちゃんと意味が正しく伝わる日本語になっているのかどうかとか、そんなことを気にしながら何度も何度も自分の文章を読み返して確認した後に、メッセージを送信する。
ふう、と安堵に胸を撫で下ろす。
1時間が経過した。
待てども待てども陽から返信はかえってこない。
2時間が経過した。
既読すらつかない。
3時間が経過した。
外はそろそろ暗くなり始めているが、スマホは何の音沙汰もない。
「わたしのことなんて、どうでもいいのでしょうか?」
いやいや、と首を振る。
考えるまでもない。
外で友達と遊んでいるから、気づかないのも当たり前だ。
当たり前なのだけれど……それでも、待たされるのは寂しい。
せめて何か反応一つくらい欲しいのだけれど。
何か気を紛らわせるものがないか、部屋を見回して――ハッとなる。
……そうだ。
最近色々な出来事でゴタゴタしてつい忘れかけていたけれど
わたしには大事な役目があった。
――綾藤透。
あの男の子のラブレターを代筆してあげるという重役があった。
それは姫ちゃんや沢野さんにも出来ない、わたしにしか成し遂げられない務め。
小説を書いていて良かったと思える瞬間のひとつだ。
いざ勢い込んで原稿用紙と鉛筆を取り出してみたはいいけれど。
「……何を書けばいいのか、わかりません」
さっきから1文字も空白が埋まる気配が無い。
理由は明白。
わたしは恋をした経験がない。
生まれてこの方、人を好きになったことなんて一度もない。
だから綾藤さんが、何を考えているのかまるで分からない。
こんなことなら彼に岸園奈津乃への想いを、もっと詳しく聞いておけばよかったと後悔する。
それを理解したいと思う。
分かってあげたいと思う。
でもわたしにとってはあるかどうかも分からない、暗闇に閉ざされた、未知の世界のように思えた。
きっとマゼランやコロンブスも、あるかどうかも分からぬ未知の新大陸を探していたとき、同じような不安を抱えていたに違いない。
どうしたものかと頭を抱えていたそのとき。
ふと、脳裡に、かつて大好きだった人の声が蘇る。
――好きって感情は、素晴らしいことなんだぞ。
――いつか冬葵ちゃんに、大切な人が出来たら分かるさ。
「わたしに……それを見つけられる日が来るのでしょうか。――おとうさま」
ここではないどこか遠くを見るような眼差しで、懐かしむような声で、そうつぶやいたとき。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
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