岸園奈津乃

「い、委員長……っ!」


 咄嗟に身構える。

 ポケットに手を突っ込み、いつでも取り出せるようカッターナイフを握りしめた。

 こんな部屋を見てしまった以上、岸園はすぐに飛び掛かって俺を取り押さえにかかると思っていたけれど。


 岸園は何をするでもなく、うろたえる俺を前にして、ただ笑みを湛えている。


「こ、これは何ですか?」


 俺はモニターを指さした。

 おそらく人々を隠し撮りしているであろう証拠を。


「何って……私の部屋だが」


 これ以上の説明がいるかね、とでも言いたげな顔の岸園。

 そこに敵意も害意も殺意もない。

 俺みたいな奴なんて恐れる必要もないという余裕のあらわれだろうか。 


「一応これでも私は年頃の女の子だ。男の子に部屋を覗かれて、いい気はしないな」


「……いつから俺に気づいていたんです?」


「私が校門を出た辺りだ」


「成る程……最初からお見通しだったというわけですか」


「そう。貴様の敗因は大きく分けて、みっつだ」


 委員長は指を2本立てた。


「まずその学生服がいけない。それで後を追いかけまわせば関係者だと言ってるようなもの。せめて黒か紺の目立たない服に着替えるべきだ。

 次に、革靴。貴様は気づいてないようだったけど足音が響くんだ。音の鳴りにくいゴム製の靴に履き替えるか、靴底をやすりでこすって少しでも抵抗を上げるべきだった。

 そして、標的の後をつけるなら間に人を2、3人ほど挟んでからついてくるのが鉄板だ」


 まあもっとも、と委員長は言った。


「その程度で、本職ストーカーを欺けると思ったら勘違いも甚だしい。視てもいいのは、視られる覚悟のある奴だけだ」


 ふっ、と鼻を鳴らした。

 まるで悪戯の種明かしをする子供のような笑顔を浮かべる。

 成る程……どうやら俺は、ずっと岸園の手の平の上で踊らされていたようだ。


「まさか俺を……わざとここに連れてきたのか?」


「そうだ。貴様とは一度腹を割って話したかった」


「俺と話を?」


「そうさ、沢野も話があるから私の後を追いかけたのだろう? その証拠に胸ポケットに生徒手帳を入れてきてくれたみたいだし、ならばこちらも約束を果たすまでだ」


 でも、とちらりとディスプレイを見やる。


「ひとまず場所を変えるとしよう。この部屋じゃ貴様も落ち着いて話が出来ないだろうしな」


 ディスプレイには、他のマンションの住人を盗撮し続ける映像が流れていた。

 俺がこれを気にしているのを気づいていたのか。


「でもその前に、ポケットの中にしまっている物騒なものは捨てて行ってくれたまえ。流血沙汰で子供たちを驚かせてしまうのは私の望む筋書きじゃない」


 俺がポケットの中にカッターナイフを忍ばせていたことなんてとっくに気づいていたらしい。

 武器を失うのは心細いが、岸園と会話の伝手を失うのは痛い。

 言われるがままに、俺はカッターナイフをポケットから投げ捨てた。


「よろしい。では、ついてきたまえ」



 ◆



 岸園に案内された場所は団地内の公園だった。

 ジャングルジムやブランコや砂場で子供たちが遊んでいる。

 岸園は子供たちに手を振りながら、ベンチに腰かける。


 意外だ。てっきり人目のない場所に連れて行って証拠隠滅のために俺を縛り上げるものだと思っていたけれど。

 こんなに人目のある場所を話し合いの場に選ぶとは。


 俺もひとりぶんくらいの間隔を開けて、岸園の横に座った。


「随分と、子供たちに好かれてるんですね」


 とりあえず手近な話題を投げる。

 岸園は嬉しがるでもなく、誇るでもなく。

 興味がなさそうにふっと鼻を鳴らしながら指を差した。


「あの子は草太くん。小学六年生。父親と、弟がふたりと妹が3人いる」


 岸園が指さしたのは、元気たっぷりな笑みを浮かべてサッカーをする少年だ。

 たしかあの子は……岸園の胸を揉んでいた子ではないか。


「草太くんは、二年前に交通事故で母親を亡くしている」


「え?」


 岸園はとんでもないことを言ってのけた。

 まるで映画や舞台劇でも見ているかのような口調で。


「けれど家族に心配をかけないよう立派なお兄さんとして振る舞っているんだ。それでも悲しみを表に出さないだけで、本当は母親が恋しいのだろう。ひとりになったとき母を思い出してよく泣いてるんだ。私のおっぱいを触ってくるのも、そういった寂しさの顕れなのかもしれないね」


「……」


 とても悲しい話に聞こえた。

 岸園がどこでそういった出来事を知り得たのかは、あの部屋を見れば明白だった。やはりマンション中に仕掛けたカメラや盗聴器で住人達を監視していたのだろう。


 だが岸園のその声には、何の感情も抑揚もこもっていない。

 ただただ目にしてきた事実を淡々と語るような、無機質な響きだけ。


「あの子は恵ちゃん。小学四年生」


 岸園は別の子を指さした。

 ポニーテールの女の子で、砂場でお城をつくっている。

 おままごとの最中だろうか。太陽のような、可愛らしい笑顔を浮かべている。


「あの子には、父親が五人もいる」


 想像を絶する言葉に、声を失った。

 思わず、恵ちゃんを凝視する。

 何の変哲もない、どこでにもいる普通の女の子に見えるが……。


「一人目は母親と喧嘩して離婚。二人目はヤクザの父親で恵ちゃんが決まった時間に勉強をしてないと殴りつけたりご飯を与えないひどい父親だった。三人目は服役して、四人目も蒸発」


「……」


「そして五人目のお父さんと出会い、恵ちゃんは笑うようになった。ようやくいいお父さんと巡り会えて、ごく普通の幸せな家庭を手に入れられたんだ。いつも私と顔を合わせるたびにお父さんのことを聞かせてくれるよ。きっと今まで親からまともに愛情を向けられたことなかったから嬉しいのだろう」


「あのっ……委員長」


 これ以上聞いているのも堪えられず、俺は岸園の声を遮っていた。


「なんだ?」


「あんた……自分が何をしてるか分かってるのか?」


「人間観察だよ」



 読書や映画鑑賞みたいな、軽い口ぶりだ。

 そこに罪悪感は一切なかった。


「あの子たちは……委員長がずっと見ていることを知ってるのか?」

「愚かな問いかけだな。彼らはプロの俳優や女優ではない。人に見られると分かった上で、素人が自然な演技を出来ると思うのか?」


「俳優って……」


 なんでこの人は悪びれもせず偉そうに語れるのだろう。

 やっていることは立派な犯罪なのに。

 まるで物語の評論家気取りだ。


「貴様は誰かに見られていると分かった上で、ありのままの自分をさらけ出せるのか?」


「そんなの……無理に決まってます」


 とても落ち着いてなどいられるはずがない。

 追跡者に気づいてしまった俺は、やめさせるために行動を起こしたわけだし。


 きっと俺と冬葵のことも、映画でも楽しむような感覚で見ていたのだろう。

 そう思うと、寒気で身体が震えた。


「今すぐこんなことはやめてくれませんか」


「それは出来ない相談だな」


「……なぜだ?」


「なぜだと思う?」


「ふざけないでください」


「じゃあ私から、ヒントをあげよう」


 岸園は笑った。


「人は幼少期の体験や、生まれ育った環境で人格が形成されるという。生みの親から虐待を受けた子が大人になったとき、同じ虐待を繰り返す確率が高いのだと言われている。本人はやめたいという意思があっても、やめられない。悪意は連鎖していくんだ」


「それって……」


 言葉に詰まる。

 岸園が言わんとすることの意味を、嫌でも分かってしまう。

 つまり岸園は幼い頃に同じようなことを――


「嘘だ。私にそんな特別な過去はない」


 岸園は手を叩いて笑った。


「幼少時の虐待も、辛い生い立ちもない。両親はお金持ちで食べるものにも着るものにも困ったこともない。両親は望むものを何でも私にくれた。ここに一人暮らしさせてくれたのもそう。――何もかもが、私の望んだ結果さ」


 岸園は笑う。


「私はね、生まれつき自分に興味を持てなかった。綺麗な景色を見ても、祖父の葬式でも心を揺り動かされることはなかった。車にはねられて生死をさまよったときも、どこか他人事のように感じた。私は生きているようで死んでいるようなものだった」


 自分の事なのに、まるで見知らぬ誰かのことを話すような口ぶりだ。

 自分に興味が無いというのも、本当のことなのかもしれない。


「だから父親からの厳しい訓練や指導に耐えることが出来た。極寒の冬山に置き去りにされても生還することが出来たのかもしれない。自分がどうなろうと、本当にどうでもよかったんだ」


 でもあるとき私のに人生にも光が差したんだ、と岸園は言う。


「そんな私も、読書や映画は好きだった。寝食を忘れ、貪るようにいろんな作品を見た。自分とは違う誰かの物語を見るのが大好きだった。自分ではなく、他人に興味があるのだと気づいてから、いつの間にか私は見知らぬ他人を追いかけ始めていた」


 自分の大切な宝物をみせびらかすような、うっとりとした口調で。


「名前、性格、顔、身長、言動、癖! その日何を食べたのか、何が好物なのか! 誰と付き合ってるのか、何回キスをしたのか! 何回まぐわったのか――その全てを私は知りたい!」


 ただそれだけの取るに足らない話だよ、と岸園は言った。


 こいつ……!

 なんて迷惑な奴なんだ。なんて身勝手な奴なんだ。


 俺に脅迫文を送ったのも、冬葵のデマをばらまいたのも。

 自分の個人的な欲求を満たしたいがために、こんな大それたことをやったのか。


「成る程、よく分かった。委員長……あんたは生まれついての異常者ってわけだ」


「心外だな。私は別に人殺しをしているわけじゃない」


「そういうことを言ってるんじゃない。あんたには、人の心が無いっていってんだ!」


「そうだろうか。私だってそこは弁えているよ。本人に迷惑さえかけなければ、別に覗き見くらい可愛いものだろう?」


 岸園は笑った。

 相変わらずよく笑うやつだと思ったが、俺は気づいてしまった。


 岸園の顔は笑っていても、目は笑っていない。

 意思のない黒々とした瞳が、俺をじっと捉えて離さない。

 まるで自分の存在そのものがカメラだと言わんばかりに。


「なんであんたみたいな人間が風紀委員長なんてやってるんだ」


「そこには私なりの理由があってね。まず持ち物検査という名目で小型カメラを仕掛けられるのがひとつ。厳しくて近寄りがたい人間を演じていれば、みな私から遠ざかってくれる。趣味と実益を兼ねているというわけだ」


「ふざけるな! 何が学則を守れだ。しかも俺の部屋を覗き込んでおいてよく言えたものだな!」


「そちらの気分を害してしまったことは詫びよう。私としても不本意だが、気づかれてしまった以上……二度と君の家を覗かないと約束するよ」


「そんなの当たり前のことだ!」


 ただの口約束だし、信用できたものではない。

 気づかれなければいいやでまた平然と見てきそうだ。


「委員長。警察に行く気はありませんか」


「それは私が警察の娘だと知っての発言か? ははっ、だとしたら面白い冗談だな。それに、うちの父は警察庁長官だ。私自身、政治家ともかなりのコネクションがある。どういう意味かは口にしなくても分かるだろう」


「くそが……っ!」


 堂々と権力を使っていくらでも握りつぶしてやると言ってくるとは。

 こんなのに力を与えるだなんて。

 世の中は……どこもかしこも腐ってやがる。


「ならここであなたがやったことを大声で叫んでやります」

「無駄だ。私はマンションの住人達と仲がいいんだ。たとえ貴様が何かを叫んだところで、誰も信じるはずがない。頭のおかしな男だと思われて終わりだ」


「この……!」


 なんて汚い女だ……!

 とても腹の虫がおさまらない。

 まだまだ岸園に言いたいことは山ほどあるというのに。


「お前のそのくだらない人間観察とやらのために、春咲さんにあんなひどいことをしたのか!」


「ん? なんのことだ、それは」


「とぼけるな、忘れたとは言わせないぞ! 俺の後を付け回したり、俺の下駄箱に脅迫の手紙を入れたり、学校中に春咲さんのデマをばらまいただろうが!」


「……ああ、そういうことか」


 ようやく合点がいったと言わんばかりに岸園は頷きながら、


「残念ながら、貴様は勘違いをしている」

「なに……?」


 お前、ふざけるな!

 そう怒鳴りかけたとき、岸園が口を開く。


「簡単なことだ。それをやったのは、私じゃない。別の人間だ」


「嘘をつくんじゃない! つくにしてももっとマシな嘘をついたらどうだ」


「嘘じゃない。私は覗き専門で、そういう脅しは好まない」


 そんなのは邪道だ、と岸園が怒ったような声で言う。


「この間、君を助けたのだって相当悩んだ。物語には直接介入しないというのが、私の信条だ。それでも君がやられっぱなしなのは私の望むところではない。だから助けたし、こうして話を聞いてあげているし、私なりの誠意を見せているのだがな」


「ならあんた以外に、もう一人たまたまストーカーがいるってのか? そんなバカな話があってたまるか!」


「いいや、よく考えてみたまえ。地球上に人間は何十億といるんだ。それだけいれば、ストーカーのひとりやふたりが身近にいてもおかしなことではないだろう?」


「あんたじゃないっていうんなら……一体誰が犯人なんだよ! あんたは知っているのか?」


「もちろん知っているとも。私はストーカーだからね」


「誰なんだ、そいつは?」


「そいつは――」


 岸園が告げた名前に。

 俺は驚愕した。

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