弱肉強食

 あれから冬葵はひとしきり泣き続けて。

 いつの間にか疲れて保健室のベッドで眠ってしまった。


 無理もない。

 あんな張り紙が出回って、身に覚えのないことで意地悪な女子たちに責められ、ずっと気を張っていたせいだ。


 時間が許す限り、このまま彼女を見守ってあげたかったけれど。

 それは保健室の先生が許してはくれなかった。


「心配なのは分かるけど、沢野君は健康体なんだから授業は受けてきなさい。大丈夫、あとは先生に任せて」


 と、追い出されてしまった。

 確かにそう言われてしまっては一介の生徒でしかない俺は従う他ない。

 心残りはあるけれど、さすがに先生の目の前で堂々と冬葵に嫌がらせをしにくる輩はいないはずだ。


 そんな確信を抱きながら、教室に戻る。

 すでに予鈴が鳴っていたから分かってはいたが一限目が始まっている頃だろう。


 がらりと扉を開けると、クラスメイトや教師が振り返る。

 息が詰まりかける。

 この視線が集まる一瞬が、俺はとてつもなく苦手だ。

 そして俺から気まずそうに目を逸らす者、未だに俺を観察する者がいた。


 反応は様々だが、どこかいたたまれない空気が教室にいる全員を支配している。

 この様子だと、朝の騒ぎはすでに誰もが耳にしているに違いない。


 ……今日に限って、霧谷が休みなのが悔やまれる。

 あんな変な奴でも、俺の心の支えになっていたのは確かだったから。


 俺は出来るだけ周りを気にしていないふうを装いながら、自席に着く。

 鞄からノートや教科書を取り出して授業の準備をしていると、ポケットの中のスマホが震えた。


 教師から見えないように机の中でスマホを取り出すと。

 姫川からラインが来ていた。



 姫川秋葉:『一限終わったら、廊下来て』



 ちらりと姫川の方に視線を向けると、目が合った。

 またあとでね、とウインクを向けられる。




 ◆




 姫川に誘われるがまま廊下に出て、これまであったことを話した。


 ストーカーに後をつけられたこと。

 下駄箱に脅迫のような手紙が来ていたこと。

 今朝、冬葵の誹謗中傷が学校中に出回っていたこと。

 5、6人ほどの女子たちが冬葵をいじめていたこと。

 全て話した。


「なるほど、そんなことがあったとはね。あきら君もお疲れさまー」


「なるほどってお前……あれだけの騒ぎがあって気づかなったのか?」


「いや……ウチ、学校いつもギリに来るからさ」


 それでもなんか奇妙な雰囲気漂ってるから察してはいたんだけどね、と姫川は言った。


「でも誰も気まずがって話してくれないんだよねー。教室はお通夜だし、職員室は大騒ぎだし。しかも一限始まってるのに冬葵ちゃんはいないし、陽君は遅れてくるし……もうわけワカメだったんだよー」


「俺だって訳がわからねえよ。朝来たら変な紙がバラまかれてるしよ」


「それだよねー。こんなよく分からない紙をバラまくだなんてキモイとか通り越して最早怖すぎっていうか。誰なの、こんなことしたの?」


「さあ。どこのどいつかだなんて……そんなの、俺が知りたいよ」


 脳裏に。

 下駄箱に入れられていた脅迫文が蘇る。



 ――彼女に近づくな。後悔したくなければな。



 俺に手を出すだけならまだいい。

 けれど無関係の人間を巻き込んで、挙句の果てに冬葵を巻き込んで、こんな大騒ぎを引き起こしたのだ。


 絶対に許してはおけない。

 冬葵を傷つけたことを謝らせなければ。


「ところで例の張り紙……撤去されてるな。先生が外したのか?」


「うん。先生もだけど、みんなもはがすのに協力してくれたんだよ」


「……みんな?」


「冬葵ちゃんに助けられてきた人たちだよ。今こそ恩を返すときだって、ね。みんな、立ち上がってくれたんだよ」


 さっきの教室の騒ぎのせいで学校中の生徒全員が、冬葵に敵対したように錯覚してしまったけれど。

 それでも冬葵を気遣ってくれる人間がいることに安心する。

 人に対して情けを掛けておけば,巡り巡って自分に良い報いが返ってくるというのは本当だったらしい。


「ところで。冬葵ちゃんは保健室にいるの?」


「ああ。疲れて眠ってるよ」


「そっか。ありがとね、あきら君。冬葵ちゃんのこと、守ってくれたんだね」


「いや、礼を言われることじゃないよ」


「なんていうか、意外かな。あきら君ってそういうことするキャラじゃないと思ってたから」


 たしかに姫川の言う通りだ。

 俺は誰かのために身体を張れるような勇気は持ち合わせていない。

 冬葵が不良に絡まれていたとき、前に出ることは出来なかった。

 たまたま警察が近くに来たからそれを利用する形だったし。


 だから俺が、自分自身の行動に驚いている。


「その……春咲さんには世話になってるからね」


「本当にそれだけ?」


「それだけだよ」


「ふうん」


 意味ありげに、姫川が八重歯を覗かせた。


「で、冬葵ちゃんとは、何かあったの?」


「何かって?」


「そりゃあチューとかに決まってんじゃん」


「……そんなわけないだろう」


「したいとは思わないの?」


「あのなあ、彼女は俺を恋愛対象として見てないんだ。それに……そういう弱みにつけ込むことはしたくない。そんなことしても春咲さんは嫌がるだけだろう」


「そんなこと、ないと思うけどね」


「俺がそんな人間に見えるのか。……一応、頭を撫ではしたけれど」


「……頭を? なんで?」


「なんでって言われてもなぁ」


「いいから。答えてよ」


 力強い言葉に、気圧される。

 なぜこんなことで、食いついてくるのだろう。


 答えないことには引き下がってくれなさそうだし、なんと返答するべきか。

 それにあのときは泣いてる冬葵を前にそうするしかないと思っただけで、理由なんて特にないというか。


 ――ああ、そうだ。

 理由なら他にあるじゃないか。


「……俺が小学生だった頃、よく遊びにいってた公園で泣いてる女の子がいてな。その子をなだめるために頭を撫でたら、泣き止んでくれたことがあってな」


 あまりにも昔の事だから忘れていたけれど。

 多分そういった成功体験のおかげで、無意識の内に冬葵を撫でていたのかもしれない。


「ふーん……公園で泣いてる女の子、か。へー……まさか、ね」


 何がおかしいのか、姫川はひとりでに笑い出した。


「こんな偶然、あるんだね。――ああ、可笑しいなぁ、笑っちゃうなぁ」


「おい、姫川。……どうしたんだ?」


「ごめんごめん、何でもないよ」


 それよりも、と姫川は遮るように言った。


「ところでさ。冬葵ちゃんをいじめてた女子って誰?」


「すまん。ちょっとわかりそうにない」


 基本的に、自分と関わらない人間の名前は覚えられない。

 同じクラスならまだしも、違うクラスになるとまず接点がないときつい。

 それが5、6人もいるとなるとなおのこと難しい。


「強いて言うなら、化粧が濃かったかな。あと香水がくさい」


「それってファンデの色を間違えてる子?」


「ファ、ファン? その何とかってのはよく分からないけど、お化けみたいだったな」


「それって、もしかして……柳川清美じゃん!? どうしてそれを早く言ってくれなかったの!?」


 姫川の顔が死人みたいに青ざめる。


「何を焦ってんだ? そいつはそんなに有名人なのか?」


「かなり、ね。よく前から冬葵ちゃんにつっかかってきてはいたけど……」


 それはまだ女子同士だったから小競り合いで済んでたんだ、と姫川は言う。


「でも、揉めた相手が男子だと話は違うんだよ!」


「……どういうことだ?」


「あーっ、もう! 説明してる暇なんてないの! いいから今すぐ逃げて!」


「はあ?」


 いまいち要領を得ない姫川の言葉に、首をかしげていたそのとき。

 ぽんっと肩に手を置かれる。


 岩みたいにごつごつとした感触だなと思いながら、振り向くと。

 そこにはヤクザみたいに凶悪な面をした男がそびえ立っていた。


 隣には屈強な男たちが7人もずらりと並んでいる。

 その後ろで、さっき冬葵をいじめていた化粧の濃ゆい女子――柳川清美がニヤニヤと勝ち誇ったような笑みを浮かべている。


 ――あたいの彼氏は空手部の主将なんだぞ!


 ――こんなことした以上、ただじゃすまさねーからな!


 そういえば教室から冬葵を助けたとき、そんな捨て台詞を吐いていたような気がする。

 成る程、ようやく姫川の焦っていた理由がはっきりとした。


「お前か、沢野って野郎は。俺は空手部、主将の大田原だ。俺の女が世話になったらしいな。礼がしたいからツラかせや」


 逃げられないよう、がっしりと肩を掴まれた。

 どうあっても平和的な話し合いは期待できそうにない。


「ちょっ……やめてくださいよ! あきら君をどうするつもりなんです!」

「悪いな、お嬢さん。この男、ちょっと借りるわ」


 あわあわと慌てふためく姫川にそれだけを告げると、大田原は俺の肩を抱いたまま歩き出した。




 ◆




 大田原という大男たちに連れていかれた場所は、校舎裏だった。


 どこへ連行されるかと冷や冷やしていたが、まさかこんな人気のない場所に連れていかれるとは予想通り過ぎて思わず感心してしまった。

 ここなら何をしても、誰にもバレないというわけだ。


「なぜ連れて来られたか、分かってるな?」


 大田原は威圧するように、横柄な態度で上から見下ろしてくる。

 岩山に押し潰されるような圧迫感にたじろぎながらも、なんとか口を開く。


「さあ。分かんないな」


 腹に膝が叩きこまれる。

 丸太のような重い一撃に、胃液を吐いた。

 視界がぐらつく。

 それでもその場に倒れこまなかったのは、ほとんど意地みたいなものだ。


「俺の女を発情期呼ばわりしただろうが! なあ、そうなんだよな清美!」


「そうだよ。しかもその男、あたいのことを突き飛ばしたんだ」


「女に手を上げるとはクズだな、テメエ!」


 大田原の正拳突きが、顔面に撃ち込まれた。

 頭の中でひどい耳鳴りがする。


 なんだ、これ。

 人間の身体の中からこんな音するのか。


 よろめく俺の姿がおかしかったのか、取り巻き共が笑い声を上げる。


「清美に謝れ。土下座したら許してやるよ」


「……っ」


 大田原が睨みつける。

 自分よりも小さく、弱いものは何をしても当然だと思ってる表情だ。

 そうやって自分よりも力のない者たちを思い通りに従わせてきたのだろう。


 怖い。

 ものすごく怖い。


 痛いのはもう嫌だ。

 ここで頭を下げて。


 今すぐ。

 楽になってしまいたい。


 だから俺は。

 よろよろと震える手で、地べたに手をついて。


「……付き合う相手はちゃんと選んだ方がいいぞ」


 腹を蹴り上げられる。

 苦しみにのたうち回る。

 取り巻き共の怒声と金切り声が聞こえる。


「まだテメエの置かれてる状況が分かってねえようだな」


 本当はここにいる連中を全員ぶちのめせたら格好いいのだろうけれど。

 生憎、ろくに筋トレすらしてこなかった俺にそんな真似は出来ない。


 ……でも。

 ここで謝ったら、この女が冬葵にやった暴力行為を正当化することになる。

 そんなもの、遠巻きから囃し立てている連中と何も変わらない。


 それだけは。

 死んでも嫌だ!


「その根性、叩き直してやんよ!」


 地べたでもがく俺めがけて。

 大田原が拳を振り下ろそうとしたそのとき。


「貴様ら、そこで何をしてる!」


 ――凛、とした声が響き渡った。

 突然の闖入者に誰もが振り返る。


 そこにはモデルのように、すらっとした女子生徒がいた。


 きりりとした切れ長の、鋭い瞳。

 腰の高さまで伸びた黒いストレート。

 腕には『風紀委員』と書かれた腕章がある。


 この場にいる誰よりも偉そうに腕を組んで。

 屈強な男たちをものともせず。

 全てを値踏みするような眼光で、真ん中へと進んだ。


「委員長……?」


 それは綾藤透の想い人だ。

 いや、今はそんなことより。

 なんであんたがこんなところにいるんだ?

 まさか助けに来てくれたとでもいうのか。


 その気持ちはありがたいけど、女性一人で乗り込むのは無謀にも程がある。

 いくら鬼の風紀委員長といえども、無茶だ。


「テメエ……岸園。なんでここが分かった」


 大田原が立ちふさがっても、岸園は眉一つ変えずに口を開く。


「貴様らにそれを話す義理はない」

「何ぃ!?」

「用があるのはそこの怪我人だ。大人しく引き渡せば、貴様らは見逃してやろう」

「ふざけんな。渡すわけねーだろうが!」


 大田原が、岸園めがけて拳を振りかぶる。


「あ、危ない……っ!」


 巨大な岩石と見まがうようなその一撃を。

 ――岸園は身をかがめて避けた。


「なっ……!?」


 虚を突かれ、硬直する大田原に。

 岸園は猫のような軽やかな身のこなしで懐に入り込むと、大田原の股間を握りしめた。


 心の臓を掴んだに等しい一撃に、大田原は悲鳴を上げてのたうち回った。

 取り巻き共が、柳川が怯む。

 見ているだけなのに……こちらまで痛くなってくる。


「なんだ? 女みたいな悲鳴を上げるとはな。鍛え方が足りないんじゃないか」


 まさに女騎士と呼ぶのに相応しい鋭い瞳で。


「面倒だ。――この場にいる全員でかかってこい!」


 岸園は挑むように叫んだ。

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