聖女と魔法
「はあ……疲れた」
バイトが終わり、帰宅する。
寝不足で疲れ切っている身体には堪えた。
集中力が低下しているせいか、ミスも何度かしてお客さんや先輩に怒られてしまう場面が何度かあったしもう今の気分は――
「辛い。死にたい……」
心から死を望んでいるという訳じゃない。
今の自分は死んでしまいたいくらいメンタルが落ち込んでいる。
疲労困憊で今すぐにでも倒れこみたい。
ふらふらの身体で、マンションの前にたどり着く。
やっとのことでドアを開けたとき、
「あ。おかえりなさい」
鈴を転がすような声がした。
エプロン姿をした冬葵だった。
それとキッチンの方から、温かな味噌汁の匂いが、俺を出迎える。
無人の静寂が立ち込めていた自宅に、誰かがいるという事実に面食らってしまう。
一瞬遅れて。
ああ、そういえば冬葵を家に待たせていたな、ということを思い出す。
「ああ……冬葵さん。ただいま」
「何をそんなに驚いてるんですか?」
家にいてもいいと言ったのはあなたじゃないですか、と冬葵はほっそりとしたくびれのある腰に手を当て、ちょっぴり不機嫌そうに頬を膨らませている。
「……やっぱり、後悔してますか?」
「そういうわけじゃないけど……」
今までは誰もいないのが当たり前だったから。
なんかむずむずするというか、無性に落ち着かない。
でもそんなことを言えば、冬葵を余計に気遣わせてしまうだろう。
これから二人暮らしを始めるのだ。
誰かが家にいるという感覚にも慣れていかなければならない。
しかも相手はあの聖女様ときた。
果たしてこの感覚を克服出来る日は、訪れるのだろうか。
……そんな日は、一生来なさそうだ。
「さ、もう夜も遅いですし……御夕飯にしますか? それともお風呂にしますか?」
「あれ? 風呂も沸かしてくれたのか? なんか、色々やってもらって悪いな」
「いいえ。時間が余ってしまったので、ほんのついでです」
そこまで気を回してくれてたとは、ありがたいを通り越して申し訳なさを感じる。
「冬葵さんはもう入ったの?」
「いえ……さすがに置いてもらっている以上、一番風呂を頂いてしまうのは申し訳ないので」
なんと律儀な子なのだろう。
別にそんなの俺は気にしないのに。
しかし、そうか。
考えもしなかったけど……これからは冬葵と同じ風呂に毎日入るわけだよな。
きっと熱々のお湯で、汗とかたくさんかいちゃうんだろうなぁ。
冬葵の入った湯……冬葵の残り湯……。
だめだだめだだめだ……頭が沸騰しそうだ。
考えるのはよそう。
「あの……沢野さん! 聞いてますか?」
「な、なんだ!?」
「お風呂と御夕飯、どうしますか?」
冬葵さんの訝しげな声に、はっと現実に引き戻される。
「ああ……それならご飯を先に頂こうかな」
「わかりました。焼き魚の方、仕上げてきますね」
すぐに焼きあがりますのでお味噌汁の方、飲んでお待ちください、と冬葵は台所へと歩き出した。
「なんだ。まだ焼いてなかったのか?」
「はい。下準備をしておりました」
「下準備?」
「魚に塩を振って数時間ほど置いておくと、魚の臭みが抑えられますし、味も良くなるんです」
「ほー」
「さらに魚焼きグリルも予め熱しておくといいのですよ。網に酢や油を薄く塗っておくと、焼いた魚の皮がくっつきにくいんです」
「洗うとき便利そうだな」
一度も魚を焼いたことないからそこらへんの手間が想像出来ないのだけど、後処理の手間が省けて楽そうだ。
「ここで一番大事なのは焼き加減です」
「強火じゃダメなのか? その方が早く焼きあがって楽そうだし」
「それだと焦げてしまいます。かといって弱火だと、魚の水分やうまみが逃げてしまいます。中火でささっと短時間で焼き上げてしまうのが美味しい焼き魚の秘訣なのです」
「そういうものなのか」
そんな些細なことで味というものは移り変わるものなのか、と俺はしきりに頷くばかり。
素人の俺にはおよそ及びもつかないような繊細な気遣いによって、料理の世界は成り立っているのだろう。
いささか陳腐な表現かもしれないけど、
「まるで魔法みたいだな」
そんな俺の言葉に、くすっ、と冬葵は可笑しそうに笑った。
「大袈裟ですね。そんな大それたものではありませんよ」
「そう、かな?」
俺にはとても真似出来る気がしない。
というか料理を作ることそのものに興味を抱いてなかったのも大きいだろうが。
「これくらい覚えれば誰でも簡単に出来ますよ」
「何かコツはあるのか?」
「そうですね。とにかく最初は失敗してもめげないことでしょうか」
「冬葵さんも失敗してたのか?」
こんなに料理に詳しい冬葵が、料理を失敗する光景は想像がつかない。
「はい。たくさん……たくさん、練習しました。その分、数えきれないほどのお料理を無駄にしました」
こともなげに冬葵は頷いた。
彼女は何でもないように言っているが、その表情からは血のにじむような努力と、並々ならぬ苦労の色がうかがえた。
「あとは……その……」
そこまで言ってから、冬葵はふいに黙り込んでしまう。
「どうしたんだ?」
「いえ、あの……これからわたしの言うことを、笑わないと約束してくれませんか?」
そうしたら教えてあげます、と冬葵は言う。
「ああ、笑わない。約束するよ」
俺の言葉に、わかりました、と冬葵は頷き返した。
「……食べてもらう人の顔を、思い浮かべる事でしょうか」
冬葵は自分の口にした言葉に照れくさそうに肩をすくめてから、言う。
「その人にどうやったら美味しい美味しいって言ってもらえるか、考えながら作ること」
とっておきの宝物を見せびらかすような、懐かしむような、愛おしそうな声。
「それが料理をおいしくする、最高の隠し味だって……そう教えられました」
「へぇー……」
なにそれ、なにそれ。
じゃあ冬葵は俺の満足そうな顔を思い浮かべながら、料理を作ってくれてるってこと?
冬葵が……俺の、ことを……!?
その……なんか、嬉しいな。
「あ、笑わないでって約束したじゃないですか!」
「ごめんごめん。馬鹿にしてるんじゃなくて、なんか冬葵さん、可愛いなって思ったら、つい……」
「えっ……」
ぽっ、と火が付いたように冬葵の顔が朱色に染まった。
それから桜色の唇を震わせながら、消え入るような声で、
「……かわいく、ないです」
そう言ったのだった。
あまりの破壊力に、否応なしに胸が高鳴った。
あざとい。あざとい冬葵さん。
略して、あざとあ……って何考えてんだ俺は。
「さ、さあ。わたしの話よりもお味噌汁、冷める前に飲んでくださいな」
「ああ」
冬葵に促されるまま、俺は食卓に並べられた茶碗を手に取り、すする。
「うん。美味しい」
濃すぎず、薄すぎることなく、丁度いい味わいだ。
あっさりとした優しい喉越しで飲みやすい。
しかも野菜たっぷりだから、なんだかこれだけで得した気分になる。
冬葵はどこで料理を覚えたのだろう。
料理の天才的な才能があるのか、または親の教育の賜物か。
……両親に料理を教わったのだろうか?
しかし彼女は、何か家庭の事情があって出てきたのかもしれない。
そう考えると、それを聞くことは躊躇われた。
「それにしても随分と遅かったですね」
「そうか?」
「もう22時過ぎですよ」
いつもこんな時間まで働いてるんですか、と咎めるような目で冬葵が見つめてくる。
「俺としてはもっと働きたいんだけどな。お金、欲しいし」
裏を返せば、この時間までしか高校生は働かせてくれないということだ。
お酒も飲めないし、心行くまでガチャに課金出来ないしで、辛い。
早く大人になって自由を満喫したいものだ。
「バイトもいいですけど、わたしたちは学生なんですから勉強も大事にしてくださいよ。あと、しっかり身体も休めてくださいね」
「そうだな。そうするよ」
冬葵の言うことも最もだけど、これからのことを考えると勉強どころではない。
親から仕送りはもらっているが、当然俺一人用のお金しか貰っていない。だからといって誰かと暮らしてお金が足りないから支援してって伝えるのも気が引ける。
それも……異性と。
可愛い女の子とひとつ屋根の下にいるから助けて欲しいなんて恥ずかしくて言えるわけがない。
めちゃくちゃ冷やかされるに決まってる。
いや、もしかしたら余計な気を回されて警察に通報だなんてことも有り得る。
それは俺も冬葵も、望む結果ではない。
とにかく働こう。たくさんシフトを増やそう。
二人暮らしが始まることを考えれば、お金は多いに越したことはないし。
時間の上限は増やせないが、出勤日数を増やすことは出来る。
これまで以上にバイトを頑張らなければ。
俺が冬葵を、養うために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます