聖女の恩返し


 学校から家に帰り着いたのは17時頃だった。


 冬葵とあのおかげで、ちょっと片付いて足の踏み場の出来た我が家に、感動すら覚える。

 でも三日もしたらきっと散らかってしまうんだろうなぁ。

 そもそも普段から片づけられる人間ならば部屋が汚くなんてならないのだ。


「っと、いけない。時間がないんだった」


 寝不足で疲労がたまっているし、何も予定がなければこのままベッドに倒れこむのだが、残念ながらこの後すぐにバイトだ。


 ……目を覚ますために一風呂っ浴びるか。


 俺は洗面所に行き、脱ぎ捨てた上着を洗濯機に放り込む。


「あ、やっべ」


 間違ってワイシャツだけでなく、学校の制服も入れてしまったことに気づく。あれは洗濯機で洗ってはいけない生地だからだ。

 回転ドラムの中に手を突っ込んで、制服をつかもうとしたとき――


 ピンポーン、と間延びしたチャイム音が聞こえてくる。

 誰か来客が来たらしい。


「はあ……またか」


 舌打ちをしながらぽりぽりと頭をかく。

 一人暮らしをしてるとこういう手合いはたまによく来るのだ。

 しつこいセールスか、宗教勧誘のどちらかに決まっている。


「はーい、どちら様でしょうか?」


 玄関まで歩き、ドア越しに声をかける。


「あの……わたしです。冬葵です。沢野さんいらっしゃいますか?」

「と、冬葵さん!?」


 鈴を転がしたような心地の良い響きに、たじろぐ。

 なぜ冬葵さんがここに?

 いや、声がうりふたつの別人という可能性も否定できない。


 とりあえず用件を伺わねばと思い、ドアの鍵を開けて、来客を迎え入れる。

 そこには腰まで垂れさがるプラチナブロンドと、切れ長の瞳をした少女がいた。

 大人びた気配の向こうに、どこか幼さが残る顔立ち。

 間違いなく、冬葵その人だ。


「お邪魔しま――って、なんでまた裸なんですか!?」


 きゃっ! と可愛らしい声を上げて、両手で顔を覆い隠した。


「いまから風呂に入ろうと思ってて」

「もうっ……バカバカっ! 信じられない! このヘンタイ!」


 それなら開ける前に言ってくださいよ、と冬葵は顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振る。

 ……またやってしまった。

 自分の部屋だと気が抜けてしまうというか、つい上を着るのを忘れてドアを開けてしまった。

 そんなに恥ずかしがられると、なんだかこっちまで恥ずかしくなってくる。

 でもそれ以上に――

 冬葵には申し訳ないが、正直とても可愛らしい反応でぐっとくる。

 ネットが普及したこの時代において、こんな初心な反応をする子は希少じゃなかろうか。


「あの、すいません。目のやり場に困るので上……早く着てくれませんか?」

「ああ、悪い悪い」


 いつまでも彼女が恥ずかしさに悶える姿を堪能していたいけれど、彼女を困らせて嫌われてしまうのは俺の望むところではない。

 ぱっと奥に引っ込んでベッドの上にある適当なTシャツを着る。


「ほら、着たぞ」

「……ほんとですか?」

「ああ、ほんとだ」

「ほんとにほんとですよね?」

「ほんとだって。そんなことで嘘ついてどうすんだ」

「困ってるわたしを見て興奮してるんじゃないかと」

「人を露出狂みたいに言うな」


 冬葵は両手を開いて、指の隙間から赤らんだ顔をおそるおそる覗かせる。

 ちゃんと俺が服を着ているのに安心したようにほっと息を吐いてから、靴を脱いで玄関に上がり込んだ。


「で、何の用だ? 忘れ物でもしたか」

「いえ、そういうわけではありません」


 忘れ物といえば忘れ物なんですけども、と冬葵は学生鞄からビニール袋を取り出した。


「これは何だ?」

「学校近くのスーパーで買ったものです」


 中身は豆腐、昆布、ネギ、ぶなしめじ、しいたけ、油揚げ、味噌、魚の切り身などなど……どれもスーパーで買ってきたであろう食材。

 それを机の上に並べていくではないか。


「昨日のお礼、まだちゃんと出来てませんでしたから」

「ああ……」


 なんだ、そういうことか。

 昨日泊めたお礼として、食材を色々買い揃えてきてくれたのだろう。

 そんなこと、気にしなくていいのに。


 部屋の掃除してくれたし、美味しい朝ご飯作ってもらったしでむしろこっちが何かお返しをしなければと考えていたくらいだ。

 その上、こんなものをもらってしまうのは申し訳ない。


 ……しかし、困った。

 料理スキルのない俺には手に余るものばかりだ。いつも外食かコンビニ飯で済ましてしまう男に家事が出来るはずがない。


 けれどその気遣いは素直に嬉しい。

 貰ったものを腐らせてしまうのは彼女の好意を無下にしているみたいで非常に勿体ない。

 料理に自信はないが、ゼロに等しい家事スキルを総動員して何とか料理してみよう。


 ネットで検索すれば初心者の俺でも簡単に作れる何かがあるかもしれない。

 そんなことを考えていると――


「野菜たっぷりのお味噌汁はお嫌いですか?」


 冬葵は小首をかしげながら、小さく笑った。


「……へ?」


 つまりそれはどういう意味なんだろう。

 戸惑う俺の前で、冬葵は腕まくりをしながら、いそいそと鞄から取り出したマイエプロンをつけてなんかいる。

 困惑する俺をよそに、当人はなんだか張り切っている様子だ。


「もしかして今から作るのか?」

「はい。そのつもりです」


 さもそれが当然だと言わんばかりに、冬葵は頷いた。

 マジか。

 そんなことのためにわざわざ俺の家まで来てくれたのか。


「あ、台所借りますね」

「あ。ああ……」


 面食らっている俺の前で、冬葵はきのこや揚げを包丁でカットしていく。


「えっと……恩返しってそれのこと?」

「はい。……もしかして、ご迷惑でしたか?」

「いや、そんなことはないが」


 迷惑だなんてとんでもない。むしろ御礼を言いたいくらいだ。

 今朝、冬葵の手料理に唸らされた身としては、彼女の手料理をもう一度味わえるだなんて夢みたいな話だったから。

 だが、ひとつ問題がある。


「気遣いはありがたいんだけど……俺、今からバイトなんだ」

「あ、そうだったんですか。うーん、お味噌汁はまた後で温め直せばいいとして。でも焼き魚の方は冷めてしまうと味も落ちてしまいますし。どうしましょう」


 冬葵は包丁を動かす手を止め、腕組みをして考え込んでいる。

 俺が帰ってくるまで待つと言う選択肢は彼女の中にないらしい。

 そんな俺の考えを見透かしたのか、冬葵はあたふたと手を振って、


「あっ、長居をするつもりはありません。作り終わったらすぐに帰りますので」


 そうするのが当たり前だというように、そんなことを言った。

 ということは冬葵の、家に帰れない問題は解決したのだろうか。


「なんだ。家、帰れるようになったのか」


 なんとなしに聞いてみると、冬葵は静かに首を振った。


「いいえ」


 え?

 じゃあ何か別の場所にアテがあるのだろうか。

 そんなことを思って冬葵の顔を見つめていると、彼女は悩ましげに指の先でくるくると髪をいじりだした。


「色々、考えてみたんです。でもビジネスホテルに18歳以下は両親の同伴がないと泊まれないって言われて……」


 初耳だった。

 あれ未成年はダメなのか。


「それどころか親のことを聞かれたり、黙っていたら警察を呼ばれそうになりましたので」


 わたし、悪い子ですね、と彼女は力なく笑った。

 とても怖い思いをしただろうに。

 その笑みは、こころなしか無理をしているように思えた。


「おいおい、それじゃあ泊るところどうすんだよ!?」

「わたしは、大丈夫です」


 冬葵は言った。

 それは俺に向けてではなく、自分に言い聞かせるような響きだった。

 彼女は神様にすがりつくように、胸の前で両手を当てて、言う。


「近くの公園で、時間を潰そうかなと考えています」

「はぁ!?」


 とんでもないことを言ってのけた。

 どう考えても女の子が夜に一人でいようものなら大変なことになる。

 そんなことは彼女自身分かり切っているだろうに。


「自分が何言ってるのか分かってんのか!?」

「はい。だけど仕方ないことですよね」

「仕方ないって……あのさぁ」


 放っておけるわけがない。

 知り合いが公園に寝泊まりするだなんて話を聞かされて見て見ぬふりなんて出来るわけがない。


「……せめて俺が帰ってくるまで家で待っていてもいいんだぞ」

「そんな、悪いですよ。二日連続なんて、沢野さんに悪いですし」


 彼女は頑として縦に首を振ろうとしない。

 はぁ、とため息をつきながら、


「じゃあさ……公園で寝泊まりするとして、知らない奴に声をかけられたらどうするんだ?」

「知らないフリします」

「みんながみんな、君を放ってくれるとは限らないぞ。夜の公園なんてノミやダニやシラミやゴキブリだっているだろうし」

「が、我慢します」


 自分の身体にまとわりつく無数の虫を想像してしまったのだろう。

 表情では平気そうに取り繕ってはいるが、気色悪そうに鳥肌を立たせている。


「やめとけやめとけ。家出してる女子高生と見たら悪い大人は群がってくるもんなんだぞ」

「はあ? わたしなんかに声をかけるもの好きなんかいないと思いますけど」

「もの好きって……あのなぁ。それ本気で言ってるのか?」


 冬葵は目を丸くした。


「わたしなんかに、誰も興味なんて持たないですよ」


 またしても深いため息が漏れる。

 本気か?

 彼女は自分がどれだけ特別な存在であるか分かっていないのか?

 よく告白されているし、昨日は不良に絡まれたばかりだというのに。


 ……先日、俺の友達の霧谷が実験していたことを思い出す。

 SNSで家出女子高生になりすましたアカウントを作って、おっさんどもを釣ろうぜなんて悪趣味なことを言い出した日のことだ。


『お金が無いので誰か家に泊めてください。添い寝やえっちなことで払います❤ #家出女子』


 という投稿をした瞬間、ぶわーっと大量の返信が帰ってきた。

 見ず知らずの男たちが釣り糸に群がる魚のように、どこからともなく現れて女子高生アカウントをものすごい勢いで取り囲み始めたのだ。


 釣れた釣れたスケベオヤジが大量だ、なんて霧谷はゲラゲラ笑っていたけれど、俺は笑えなかった。あまりのおぞましさに俺は青ざめてしまっていた。

 冬葵はぴんと来ていないようだが、自分の娘くらい年の離れた女の子に邪まな心を抱く男どもは多い。


「とにかく考え直せ。俺の家を使うとか方法はあるだろ」

「そんな、でも、悪いですよ」

「だから、俺の迷惑だとか。そんなことは考えなくていい。帰れるようになるまで好きにいていいから」

「これ以上お世話になるのは申し訳ないですから」


 分からず屋にもほどがある。

 あまり使いたくなかった手段だが、彼女を説得するにはこれしかないだろう。


「じゃあ警察に声かけられたらどうするんだ? 両親や家のことも聞かれるぞ。それで君は正直に話すのか?」

「……っ、それ、は」


 冬葵は息を詰まらせる。

 やはり家の事情には触れられたくないのか、ほっそりとした睫毛を伏せてぷるぷると震えている。


「冬葵さんにどんな事情があるかなんて俺は分からない。話したくないなら無理に話さなくてもいい。聞くつもりもないし、知りたいとも思わない」


 だけど、と俺は続ける。


「困ってる女の子を放っておくなんて俺には出来ない。この家には俺しかいないし、うちの親も来ないから好きなだけ使うといい」

「で、でも――」


 冬葵はおろおろとしている。

 俺の申し出に揺らいでしまっているのだろう。屋根の下で寝泊まりできるという安心感。

 だけどそれを言われるがままにおとなしく享受していいものか迷っている。


「分かった。俺がいるのが嫌なら俺がここから出ていく。そうしたら冬葵さんも安心だろ?」


 そう言って、背を向ける。

 冬葵の返事を待たずに、そのまま玄関に向かおうとしたところを、


「だめです」


 冬葵に後ろから腕を掴まれた。


「それだけは、だめです」


 自分のために犠牲にならないでほしい、と冬葵は言った。

 俺はほっと胸を撫で下ろす。

 不承不承ながらも、ひとまず冬葵はこの家に留まってくれそうだ。

 彼女を夜の公園に放り出す事態はこれで回避できた。


 出来ればいまの不安定な状態の冬葵さんをひとりで放置しておきたくはないけれど、残念ながらバイトの時間が近づいている。


「じゃあ、俺これからバイトだから。ご飯、楽しみにしてる」


 そう言って、俺は自分の家を後にした。





 とても良いことをした。

 このときの俺は心からそう思っていた。


 ……だけど。

 それがあまりにも考えなしの行いだったと痛感させられることになる。

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