聖女の寝顔
「
冬葵の振る舞ってくれた料理を食べ終えて。
俺は風呂椅子に座り、頭にぬるいシャワーを浴びながら、はーっと深い息を吐いた。
野菜たっぷりの味噌汁も良かったけれど、特に焼き魚の塩焼きは最高の一言に尽きる。
塩焼きにしたことによって魚の風味を引き立てていたし、さらにその上に大根おろしと醤油をかけたときの甘い香りといったらもうたまらない。
カップラーメンやコンビニ弁当三昧だった暮らしからは想像もつかない贅沢だ。
こんなふうに、冬葵お手製の手料理がこれから毎日のように食べられるだなんて、想像出来ただろうか。
いや、出来まい。
しかもお風呂のお湯を張ってくれただけでなく、浴室も洗剤の香りが微かに漂っているし、掃除されたような跡まである。
気が利くとかいうレベルじゃない。
このままだと健康体にされて冬葵なしでは生きられない身体にされてしまう。
「本当にふたり暮らし、始めちゃったんだな……」
口で言葉にしてみても実感が湧かなかった。
昨日だけならまだしも。
あの聖女と。
クラスメイトの誰もが羨望してやまない冬葵さんと。
こんな形で近づいてしまうとは。
まさかこれから一緒に暮らす羽目になるとは……あまりにも都合がよすぎて、ずっと夢の中にいるんじゃないかと思えてくる。
「っと……いけないけない」
さっきから考え事ばかりでシャワーを浴びてしかいない。
水代も馬鹿にならないし、長風呂して冬葵さんを待たせてしまうのも悪い。
……それに寝不足と、バイトで心身ともに疲れきっている。
もうすぐ深夜0時を過ぎるし、明日も学校とバイトがある。
さっと洗ってさっさと寝てしまおう。
そう思って、シャンプーの置いてある方へと手を伸ばしたそのとき、
「ん?」
ふと、見慣れない容器が並んでいることに気づいた。
いつも俺が使っているシャンプーの横に、見慣れない容器が並んでいるではないか。
「誰が置いたんだ、これ?」
気になって、手に取っては、じろじろと眺め回してしまう。
だが英語で書かれていて、何が書かれているかは分からない。
近くの薬局で適当に買った市販のものとは明らかに何かが違う気がする。
試しにワンプッシュして中身を手の平の上に取る。
そのまま匂いを嗅いでみると、
「……っ!?!?!?」
――脳に、電撃が走る。
思い……出した。
俺は、この香りを知っている。
というか、つい最近まで嗅いでいた。
「冬葵さんの……匂いだ」
いつも冬葵の横を通るとき、あの目を惹くような輝かしいプラチナブロンドが揺れるとき、すごくいい匂いがするのだ。
ふわっと鼻を包み込むような、女の子の香り。
その匂いを嗅いだ男子はドキドキするあまり、「女子がいい匂いするのはなんでだろう?」と幸せな気分で振り返ってしまうような、あの匂い。
いま、その謎が解けた。
――あの不思議な香りの源は、これだったのか。
手の平の上の、ジェル状の液体を見やる。
つまり。
これが冬葵さんの匂いだとすれば。
これで頭を洗えば。
「……天才か?」
ごくっ、と喉が鳴る。
震える手で、おそるおそる自らの髪を撫でつけた。
そう、別にこれは悪いことではない。
冬葵さんのシャンプーで頭を洗う。
ただそれだけの行為。
やましいことも、後ろめたいことは何もない。
そう自分に言い聞かせている内に。
のぼせてしまいそうになっていた。
……アホか、俺は?
◆
「ごめん、遅くなった。いま上がったよ、冬葵さん」
風呂を出て、着替え終えて、居間に冬葵を呼んでみたのだけれど。
まったく返事がかえって無い。
「……冬葵さん?」
再度呼びかけてみるも、返答はない。
どうしたのだろう。
気になって見まわしてみると、
「くぅ……すぅ……」
冬葵はソファーにもたれかかりながら、すやすやと寝息を立てているではないか。
「あちゃー……」
しまった、と両手で顔を覆う。
あまりにも風呂に時間をかけすぎたか。
冬葵も口には出さないだけで色々疲れているのだろう。
風呂掃除や料理、俺への気遣いで身も心もすり減らしているはずだ。
俺はまじまじと、冬葵を見やる。
「……」
伏せられた細長い睫毛。
もちもちしたほっぺたが、安らかに緩んでいる。
呼吸に合わせて、豊かな胸がゆっくりと上下している。
天使のようなあどけない寝顔に、思わずどきりとする。
まるでお人形さんのような愛らしさだ。
思わずそっと頭を撫でてしまいたくなる。
しかし、一人暮らしの男の部屋で、寝るだなんて無防備にも程がある。
いや、おかしくはないのか。
いつまでかは分からないけどこれから二人暮らししていくわけだし。
そもそもこの家を使っていいと許可を出したのは俺だ。
いや、でもなぁ、こういうのまずいと思うんだよなぁ。
俺だって男だし。
冬葵に対して口にするのも憚られるような欲求を全く呼び起こされないわけでもないし。
俺に気を許してくれているのか、男の部屋になんて行き慣れているのか、そもそも女の子に手を上げられない無害な存在だと見くびられているのか。
叶うのならば、前者だといいなぁ。
「ん?」
そのとき。
冬葵のスカートから剥き出しになった、瑞々しい太ももに目が向いた。
……別に、冬葵の太ももがえっちだなぁと思って眺めまわしていたわけではない。
無駄な脂肪のない、白魚のような生脚の上に、読みかけの本が乗っていることに気づいたからだ。
何の本なのだろうか。
きっと冬葵のことだから、小難しい文学作品を好んでいるのだろう。
背表紙に目を凝らしてみると。
そこには見覚えのあるタイトルがあった。
「
思わず目を見開いた。
それはツノヤマシューズ文庫から出版されているライトノベル――
『冒涜のファントムエッジ』だったからだ。
ソシャゲ化はもちろん、つい最近アニメ化が決まった人気作だ。
俺はファントムエッジのファンだ。
ラノベ原作は当然のように全部買い揃えているし、主に俺のバイト代は、ファントムエッジのソシャゲに消えていた。
だが、俺の話はどうでもいいのだ。
特筆すべきは。
いま冬葵の膝の上に乗っているものは――
「ファントムエッジの……最新巻だと!?」
叫びながら、身を乗り出した。
そう、それは今日発売の最新巻だ。
本当は学校帰りにでもすぐ買うつもりだったのだが、バイト疲れと徹夜続きの身体ではそんな余裕はなかった。
ぼろぼろの身体に鞭打って、買いに行ってもどうせ疲れてまとめに読めないだろうし、次の休みに買いにいこうと思って購入を後回しにしていたのだが。
それがなぜ、ここにある?
よりにもよって、冬葵の膝の上にある?
まさかとは思うが、冬葵さんは――
「んぅ…………」
冬葵が甘い声を漏らしながら、ぴくりと身じろぎする。
しまった。
興奮で我を失うあまり、騒ぎすぎて冬葵を起こしてしまったか。
あたふたと焦る俺の前で、
「…………ふぁ」
冬葵は瞼をこすりながら、大きく身体を伸ばした。
まだ覚醒しきっていない、とろんとした眠気まなこで、俺を見上げている。
胸の奥をかき立てられるような、妙な色気に、俺は目を逸らしてしまう。
「あ……沢野さん。ふみません。寝ちゃってたみたいれす」
「ああ、いいんだ。それよりお風呂上がったから入っていいぞ」
「わはりまし……た」
ふあ、と冬葵はまた一つ大きな欠伸をする。
「ところでさ、聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんですか?」
「その冬葵さんの膝の上に乗ってる本なんだが……」
そこまで言って、冬葵は自分の膝の上、読みかけのファントムエッジを乗せていたことにようやく気づいたのか、
「ひゃっ……!?」
甲高い叫びながら、ぱっと立ち上がった。
きょとんとなる俺の前で、
「これはその……そのっ、そのぉっ……!」
なぜか熟れたトマトのように顔を真っ赤にして、
「な、何でもありませぇん!」
逃げるように浴室の方へと走り去っていった。
「一体……どうしたんだ?」
何か聞いたらまずいことだったのだろうか。
それとも俺のことが嫌いなのだろうか。
考えようにも、眠気と疲れで回転が鈍った脳みそではわかりっこない。
「明日も早いし、もう寝るか……」
俺は冬葵さんの奇行に首をかしげながらも、一人で先に寝る準備についたのだった。
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