兆し


 俺と冬葵とあの同居生活が始まってから、平穏に日々が過ぎていった。

 ……なんてことは決してなく。


 学校から自宅に帰って夜までバイト。

 家に帰っても冬葵とまともに顔を合わせることなく、倒れこむように寝る日々を過ごす。

 その繰り返しだった。


 身体は疲れているはずなのに、眠れない日々が続いた。

 原因は分かっている。


 ……冬葵だ。


 疲れを取ろうにも、冬葵が近くで寝ているという特異な状況のせいで。

 異性がすぐそばで寝ているという状況のせいで。

 落ち着いて寝ることが出来ない。


 薄闇の向こう側に、冬葵のすうすうと寝息が聞こえてくる。

 寝顔もきっと穏やかなものだろう

 俺はソファーで、冬葵はベッドで寝るようにしている。

 お互い離れた場所で寝ているとはいえ……どうしてもそっちが気になってしまう。


 すぐそばに。

 手を伸ばせば触れられる距離に。

 冬葵がいる。


 そう考えるだけで心臓が痛いほど脈打ってくる。

 胸の奥で、暗い衝動がこみ上げてくる。

 目がぎんぎんに冴えて睡眠どころではない。


 髪の間から覗く、白いうなじ。

 絹のように透き通った真っ白な肌。

 果実のように実った、たわわな胸。

 白魚のようにむっちりとした太もも。


 手を伸ばせば。

 触れられる距離に。

 冬葵がいる。


 なんて無防備に寝ているんだろう。

 男がすぐそばにいるにも関わらず。

 あまりにも無警戒すぎやしないだろうか。

 誘っていると思われてもおかしくはない。


 駄目だ。

 駄目だ。

 駄目だ駄目だ。

 だめだ! だめだ! だめだ! だめだだめだだめだ!

 目を閉じる。


 ――俺は彼女を傷つけるような真似はしたくない。


 頭を抱え込む。

 必死に頭の中から、冬葵のことを追い出すようにしたけれど。

 考えないように意識すればするほど、冬葵を意識してしまうという悪循環に陥ってしまう。


 くそっ。

 何が俺の家を好きなだけ使えばいい、だ。

 ……あのときは冬葵が可哀そうだったから、後先考えずに叫んでしまったけど。

 やっぱりやめるべきだったのではないか。



 ――俺はいつかあの子に、手を出してしまうのではないか?



 そんな恐れが、身体の奥底から膨れ上がっていく。

 強く後悔するが、もう遅い。

 あれだけ冬葵に大見得を切って見せたというのに、このザマだ。

 これでは俺も、霧谷の釣りアカウントに寄ってきた男どもと大差ない。


 最低だ。

 なんて最低なんだ、俺は。


 そんなことを繰り返している内に。

 ……いつのまにか窓の外が明るくなってしまい、寝るタイミングを逃してしまった。


 俺は悩んだ末に、冬葵から遠ざかることにした。

 俺の大好きなライトノベル『冒涜のファントムエッジ』の主人公、魔剣士カイトも、自分の中に眠る魔人の衝動を必死に抑え込んでいた。

 魔人に身体を乗っ取られて、最愛のヒロインを傷つけてしまわないように自ら離れることを決めた。


 大切な人を守るために、俺もカイトを見習うことにした。

 これも全て、冬葵さんを守るためだ。


 そんな俺を見て。

 冬葵は何か言いたげな表情をしていたような気がしていたけれど。

 俺は見て見ぬふりをして、家を飛び出した。

 まるで冬葵から逃げ出すように。

 学校で寝て、バイトに没頭した。


 眠れない夜が続く。

 そんな必死の思いでやっと迎えた、金曜日の昼休み。


 さすがに連日のバイトが堪えたのか、全身が怠い。

 そのせいか一時間目から四時間目まで、授業をほとんど寝て過ごしていた。

 教科書を立てて読んでるフリをしながら、眠りこけるのだ。


 学校の机と椅子が硬いせいか、寝心地は最悪。

 しかも背中と首が寝違えたように痛い。


 昼休み。

 そんな俺を見かねたように霧谷が心配そうに声をかけてくる。


「おいおい、どうしたんだよ。沢野」

「ああ……なんとか大丈夫だ」


 最初は真面目に授業を受けようとしたけれど、頭がぼうっとしていて内容が頭に入ってこない。

 ほんとうに眠い。

 そんな状況だから、ノートなんてまともに取れてるわけがない。

 ……霧谷に借りを作るのは癪だが、ノートを借りて写させてもらうとしよう。


「大丈夫ってお前……顔色やばいぞ。ゾンビみてぇに真っ青じゃないか」

「最近バイトで疲れててな」

「……バイトぉ?」


 霧谷が声をひそめる。

 学則でバイトが禁止されているため、気遣ってくれているのだろう。


「ああ。シフト、増やしたんだ」

「何でまた? もしかして女でも出来たのか?」


 霧谷が訝しげに眉間にしわを寄せる。

 微妙に核心をついたその言葉に、うっと喉が詰まりかける。


「うるせえな。そんなんじゃないって。とにかく、金が要るんだ」

「金? 何か欲しいものがあるのか?」

「ああ……そんなところだ」


 嘘は言っていない。

 俺と冬葵。

 ふたり分の生活費を稼ぐためには必要なことだ。


「沢野が何のためにそこまで頑張ってるかはわからないけどよ……」


 霧谷がこめかみをぽりぽりとかきながら、言う。


「ほどほどに休まないとぶっ倒れるぞ。ほら、五時間目と六時間目は保健室で休んできたらどうだ? 担任には俺から言っといてやるからさ。な?」

「霧谷、お前……」


 ふいに見せた友人の優しさに、呆気に取られる。


「熱でもあるのか? 病院、一緒に行くか?」

「おい、なんでそうなる!?」


 おかしい。珍しく霧谷が優しい。

 女子トイレの前で姫川を出待ちしていたり、女子高生ネカマの釣りアカウントを使ってSNSで大暴れしてるようなやばい奴と同一人物だとは思えない。


 こいつが心配してくれるだなんて。

 ……よほど俺は追い詰められて見えるのだろう。


「ありがとう。霧谷」 


 でも、と俺は首を振る。


「もう大丈夫だ。授業をまるまる睡眠にあてたから元気が出てきたぞ」

「そっか。まあ無理すんなよ」


 霧谷はひらひらと手を振って、自分の席に戻っていく。

 いくら親友といえど、本当のことを馬鹿正直に話すわけにはいかない。

 誰にも話すこともできない。

 これは俺と冬葵の問題なのだ。


「痛つつ……」


 疲労で凝り固まった身体をほぐすべく、後ろに反り返って大きく伸びをしたとき。

 教室の端っこ。

 窓側の席。

 そこで頬杖を突きながら、こちらをじっと見つめる女子生徒がいた。


「……」


 冬葵だ。

 冬葵と、目が合った。

 俺の心の、何もかもを見透かすようなエメラルドの瞳に、きゅっと息が詰まる。


 だが、それも束の間の事。

 ぷいっと目線を逸らされた。


 俺たちは学校では関わらない。

 互いの関係を悟られないよう他人のふりをする。

 その約束を思い出したかのように、冬葵は机の中から取り出した文庫本に目を落としている。


 俺は本を読む彼女の横顔を見ながら。

 昨夜の、天使のようなあどけない寝顔を思い出していた。

 あまりにも無防備なのは。

 人と関わってこなかったから警戒心がないのだろうか。


 俺の家に泊まっているのだって、他に心を許せる友人がいなかったからかもしれない。

 自分の悩みや趣味を話し合えるような、そんな存在が。


 趣味といえば冬葵さんは、やはりラノベが好きなのだろうか?

 ブックカバーで表紙が隠れているため何の本かは分からないけど、あの下はもしかしたら『冒涜のファントムエッジ』かもしれない。

 まだ俺も買えていない最新刊なのだろうか。


 結局本人に聞きそびれてしまったため、真相は分からずじまいだが。


 とにかく。

 今日はようやく迎えた金曜日。

 今日を乗り切りさえすれば、土日は学校が休みだ。


 そして土日はバイトのみ。やることが一つだけなのはありがたい。

 午前は自宅で身体の休息にあてれば、午後から万全の態勢でバイトに臨めそうだ。

 

 ……頑張れ、俺。

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