限界
身体の限界は、すぐにやってきた。
学校から自宅に帰宅したころには、もうふらふらだった。
ドアを開けたと同時に、玄関に倒れこんだ。
なんとか気力だけで立ち上がるが、がくがくと足が震えた。
まともに立っていられない。
足取りがおぼつかない。
壁に手を当て、支えにして歩かなければ、前に進むこともままならない。
「うわ……身体だっる」
吐く息が荒い。
手と足が、まるで鉛を巻きつけられたかのように重い。
全身が締めつけられるような倦怠感に支配される。
身体の異変を感じ始めたのは。
6時間目の数学の授業が終わりに差しかかろうという頃だった。
寒い。
それも身体の芯を貫くような、猛烈な寒気だ。
まだ桜が散って間もない頃だというのに、真冬のような寒さに身体が震える。
そのくせ頭が、灼けるように熱い。
そのせいか全身が怠い。
椅子から立ち上がれない。
ここから家に帰ることも億劫だった。
終礼で担任が何かを話しているが、内容が頭に入ってこない。
カチカチと音を立てて震えそうになる歯を、必死に抑え込むだけで精一杯だった。
放課後になった途端、脇目も振り返らずに帰路を急いだ。
今にも倒れこみそうな身体を引きずりながら、電車を乗り継ぐ。普段なら気にも留めない電車の揺れですら今の俺にはしんどい。
胃の中身をぶちまけそうだ。
やっとのことで最寄り駅にたどり着き、家に帰り着くことが出来た。
ソファに寝転がりながら、壁掛け時計を見やる。
これからバイトだ。
バイトまであと一時間ちょっと余裕がある。
それまで仮眠をとって少しでも体調の回復に努めるのだ。
大丈夫だ。
俺はまだ、やれる。
やれるはずだ。
そう決めて、目をつぶろうとしたとき――ドアが開いた。
顔だけを起こし、玄関に視線を向けると、蜂蜜を溶かしたような、きらめく黄金の髪をたなびかせた少女がいた。
「ただいま戻りました」
整った綺麗な眉。
すっきりとした鼻梁。
果実のように小さくて柔らかな唇。
学校指定のブレザーを大きく押し上げた胸元は、とても目のやり場に困るものだ。
……なんだか気まずくなって、目を背ける。
冬葵は俺と帰りがかぶらないようわざと時間をずらして帰ってきている。
そのわりにはいつもよりお早い帰りだ。もしかしたら同じ電車だったのだろうか?
まあ俺にはどうでもいい。大事なのは体調回復だ。
「鍵、開いてましたよ」
「そうだったのか?」
「駄目ですよ。ちゃんとカギはかけないと」
不用心にも程がありますね、と冬葵は言う。
……どの口がそれを言うんだ。
いつも無防備な姿をさらして寝ているくせに。
思わずそんな言葉が口を突いたのは気が立っていたせいだろう。
「悪いけど俺……バイト始まるまで寝るわ」
ごろりと身体ごと転がって、冬葵から目を逸らす。
これ以上、彼女を見ていると気がおかしくなりそうだった。
きっと冬葵に、他意はない。
異性を挑発するような子じゃないのは、この数日間でなんとなく分かっている。
「…………」
なぜか冬葵から返事が返ってこない。
気になって目を開けると、ソファーの上で寝転がる俺を、冬葵が見下ろしていた。
「……っ!?」
「何してるんだよ、そんなところで!」
「いいからおとなしくしてください」
「は?」
戸惑う俺の前で。
冬葵が顔を近づけてくる。
互いの吐息が吹きかかるような距離まで迫る。
ごくりと喉が鳴る。
「すごい熱……」
冬葵が、驚きに息を呑む。
相変わらず綺麗な顔をしやがって。
しかも女の子特有のいい匂いまでする。
くそっ……腹が立つ。
性欲に負けそうになる弱い自分が情けない。
「なんだかここ最近様子がおかしかったからもしやと思ってましたが……」
「大袈裟だよ。このくらい、ちょっと寝れば直る」
「ねえ、本当にそんな身体でバイトに行くつもりですか?」
「そう、だ」
頭がきんきんと痛む。
目まいがする。
頼むからもう俺に構わないで欲しい。
「そんなの、休めばいいじゃないですか」
「うちは人手が少ないんだ。俺が休んだら、先輩たちに迷惑がかかる」
「そんな身体で行ったらもっと迷惑がかかります。そんなことも分からないんですか?」
ああ、うるさい。
うるさい、うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい。
分かったふうな口をききやがって。
自分がどれだけ危険な存在か分かっていないくせに。
自分がどれだけ魅力的であるか分かっていないくせに。
「俺の先輩は熱が出ても頑張っていた。だからこの程度で休めない」
もう構うな。
俺に構うな。
これ以上、俺に構うな。
「この程度で休めば信用を失う。……最悪、クビだ」
お願いだ。
お願いだから。
離れてくれ。
俺が、君に取り返しのつかないことをしでかす前に――。
「いいじゃないですか。そのくらい」
「……そのくらい、だと?」
八つ当たりなのはわかっていても、どす黒い気持ちが溢れ出してくる。
お前に、俺の何が分かる。
この湧き上がる情欲を堪える苦しみがわかるのか?
そう思わずにはいられなかった。
「そんなことでクビにするようなところは、辞めて正解です」
「とにかく、どいてくれ。バイトが大事なんだ」
冬葵を押しのけて玄関に向かおうとすると、後ろから腕をつかまれた。
「……さすがに、放ってはおけません」
冬葵の手の柔らかさに、どきっとなる。
すかさず振り払おうとするが、弱った身体ではそれも上手くいかない。
「いいから放っておいてくれって言ってるんだよ!」
より一層の力を、身体に込めたそのとき。
「あなたがこれ以上、無理する必要なんてないんです」
後ろから、抱き着かれた。
胸が背中に当たっている。
思考が、真っ白に、塗りつぶされる。
視界がちかちかする。意識がぼやける。
家の中がぐらぐらと揺れる。
違う、揺れているのは俺だ。
――そう気づいたときに俺の身体は倒れこみ、意識が暗転した。
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