救済

「わたし、はじめてなんで、やさしくしてくださいね?」


 ――これからこの子と、するんだ。


 あまりにも現実味のない出来事を前に、頭の中が真っ白になる。

 制服の胸元から覗く、鎖骨のラインが美しい。

 冬葵に導かれるがまま、おそるおそる手を伸ばし、肩に手を置いた。


「……っ」


 冬葵が悲鳴のような、かすかな吐息を漏らす。

 そのまま何かに備えるように、ぎゅっと目をつむった。

 ごくり、と喉が鳴る。

 胸の高鳴りが収まりそうにない。

 初めて触れた女の子の身体は、自分の想像していた以上に柔らかかった。


 なによりも、華奢な肩だと思った。

 このまま握りしめたら折れてしまいそうなくらい小さくて、脆い。


 ……どうしよう。

 ここからどうすればいいか、まるで分からない。


 今まで誰も教えてくれなかったから、何が正解なのか分からない。

 学校では勉強を教えてくれるが、こういうときどうすればいいのかまでは教えてくれない。

 くそっ、こんなことなら事前にネットで調べておけばよかった。


 途方に暮れてうんうんと唸っていると、手が震え出した。

 なんてザマだ。

 自分の情けなさに、身体まで震えてくるなんて。


「……?」


 いや、違う。

 これは俺の手じゃない。


 震えているのは、冬葵の肩だ。

 冬葵の身体がかすかに、揺れている。


「冬葵、さん……?」 

「どうかしましたか?」


 冬葵が小首を傾げる。


「いや……その。肩、震えてるけれど……」

「え……?」


 冬葵は驚きに目を見開き、自分の身体を見下ろした。

 俺に言われて、ようやく自分が震えていたのだという事実に気づいたとでもいうふうに。

 頬をこわばらせ、うつむいた。


「うそ……」


 薄い肩をきゅっと縮めて、悲しみに顔を歪める。

 どうしたんだろう。何か、様子がおかしい。


「なんで……わ、わたし……どうして……」


 冬葵は、自分がなぜ震えているのかもわからないとでもいうふうに、戸惑い、立ち尽くしていた。


「……ごめっ、なさい…………わたし、こわくてっ……やっぱり、できません!」


 何かを我慢するように、唇を引き結んだかと思うと――

 ぽろぽろと大粒の涙を零し、俺の腕の中で、わんわんと大声を上げて泣きじゃくった。


「え……えええっ!?」


 初めて見る女の子の泣き顔に、困惑する。

 どうしよう。

 こんなとき、どうすればいいんだろう。


 考えがまとまらない。

 頭の中がぐるぐるする。


 分からない。

 分からないけれど。


 冬葵にこんな顔をさせてしまったのは、俺に原因がある。

 それは火を見るよりも明らかなことだろう。

 きっと彼女は無理をしていたのだ。

 怖いという感情を無理して押し殺して、その結果、堪えきれなくなって爆発してしまったのだろう。


 それにも関わらず、俺は冬葵を求めた。

 彼女の内心にも気づかず、迫ってしまった。

 本当に、なんてことをしてしまったんだろう。

 俺は、最低な人間だ。


「ごめん」


 冬葵を腕の中から引き離す。


「我ながら、どうかしていたと思う」


 頭を下げた。

 泣いている女の子の前で、こんなことしか出来ない自分の情けなさに、挫けて倒れてしまいそうになりながらも、続ける。


「女の子と話すのも、近くで一緒に過ごすのも――俺にはなにもかも初めてのことだったんだ」


 初めは冬葵の助けになりたい一心だった。

 家に帰れず困っている彼女を、なんとかしてあげたかった。

 その支えになれるなら、何だってしようと思っていた。

 人を救ったという陶酔感に酔いしれていて。


 だけどその一方で、クラスで人気のあの聖女と、俺だけがふたりきりになれるという事実に、途方もない高揚感を覚えて。

 あわよくば彼女とお近づきになれるかもしれない……なんて馬鹿みたいに舞い上がっていて。

 

 異性とひとつ屋根の下で過ごす――


 その本当の意味をわかっていなかった。

 人ひとりを養なっていくという責任を、ちゃんと理解しきれていなかった。


 冬葵を助けたつもりが、彼女を苦しめることになるだなんて。

 あまりにも、考えなしだったと思う。


「だから……夜、寝るときもドキドキして、うまく眠れなくなって、それで疲れが溜まって……頭がおかしくなりそうだった」


 というかおかしくなった。

 耐えきれなくなって、取り返しのつかないことをしでかそうとしてしまった。

 冬葵さんの気持ちを無視する形で。


「……本当に、最低ですね」


 胸の奥を、剣で貫かれたような痛みが走る。

 その言葉で、とどめを刺されたような気分になりながらも、必死に喉から言葉を絞り出す。


「謝って済むようなことじゃないのは分かってる」


 どんな理由があったとしても、到底許されるべきことじゃない。


「……もうここにいたくないというなら、出て行ってもらっても構わない」


 いや、違うな、と首を横に振る。


「……ここを出ていくべきなのは、俺の方だな」


 もっと早くにそうしていればよかったのだ。

 そうしていればこんな怖い思いを冬葵にさせることもなかった。


「ま……まって」


 冬葵に、腕を掴まれる。


「ちがっ……ちがうんですっ」

「いいや、何も違わないさ」


 悪いのは俺だ。

 だから出ていくべきは、俺一人でいい。


 大丈夫だ。俺は実家に戻るという選択肢が残されている。

 冬葵は俺がいなくなった後も、ここで過ごせばいい。

 両親には俺が頭を下げて、ちゃんと説明しておこう。

 それが俺の果たすべき、せめてもの責任というものだろう。


「わたしも……あなたと、同じだったから……」


 冬葵の言葉に、虚を突かれ、足が止まった。


「沢野さんとっ……同じことを、考えていたんです」

「俺と、同じ?」


 それはどういう意味だろう。


「わたしも……男の子とふたりきりになるのはっ……初めてでしたから……その、すごく、緊張しちゃって」


 嗚咽を漏らし、途切れ途切れになりながらも、とんでもないことを言ってのけた。


「夜……寝てるとき、心臓の音……聞かれていないか……心配で眠れませんでした」

「え……?」


 なにそれかわいい。

 ……っじゃなくて!

 冬葵も緊張していたのか。


「あ、でも勘違いしないでくださいね。わたしはあなたのこと、好きでもなんでもありませんからね」

「お、おう……」


 はっきりとそう口にされると、それはそれで傷つくものがあるけれど。

 今の俺にはいい薬だ。

 変な希望を持たないためにも、そのくらい言ってくれた方がいいのかもしれない。


 ……でも、そうか。


 冬葵も余裕そうに見えて、結構気にしていたんだな。

 学校では男子から告白されているのを見かけるから男慣れしているだろうと思っていたのだけれど。


「とにかく、夜も眠れませんでしたから、授業中、何度も何度も居眠りしちゃって……ノートなんてまともに取れてません」

「俺も、そうだ。ノートなんて全然取ってない。でも、そんなのどうでもよかった」

「友達に借りちゃえばなんとかなりますからね」

「ああ……そうだ。俺も丁度それを言おうとしていた」


 というか授業をまともに受けれてないことなんて気にならなかった。

 家に帰ったらどうしよう。同居人と、どう接すればいいのだろう。

 そんなことばかりでずっと悩んでいた。


 俺も、冬葵も同じことを考えていた。

 同じ悩みを抱えていた。

 お互い、そんなことにも気づけないくらい余裕がなかったのだ。


「まったく、ダメダメですね。わたしたち」

「ああ……」


 くすり、とどちらからともなく笑い声が漏れる。

 張り詰めた空気が少しづつ弛緩していくのが分かった。

 そうして気が抜けたのを感じ取ったせいだろう。


「っ……」


 疲れがどっと押し寄せてくる。

 目まいがして、身体がぐらついた。

 倒れそうになる俺の身体を、冬葵さんが優しく受け止めてくれる。


「ほら、病人なんですから。おとなしく寝ていてください」

「……すまない」

「御夕飯。消化のいいものを作っておきますね」


 そう言って、冬葵は笑いかける。

 彼女の顔にはいまだ涙の跡があったけれど。

 それでも、どこか吹っ切れたような笑みだと思った。

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