導き


 目が覚めると、俺は自室のソファーの上で横たわっていた。

 冬葵と口論をしている間に眠っていたらしい。

 台所に目を向ければ、冬葵がプラチナブロンドの髪を揺らしながら、ネギを包丁で切っているのが見えた。


 頭がずきずきと痛む。

 相変わらず体調は最悪だったが、寝ていたおかげで少しは楽になった。さっきみたいに立ち上がれないほどじゃない。


 太陽はとうに沈んでおり、窓から見える空は夜のとばりに包まれていた。


 ……いま何時だろう。


 気になって壁掛け時計を見れば、夜の19時を指し示していた。

 ――19時?

 胸がざわつく。

 何か、大事なことを忘れているような気がする。


「あっ……!」


 そうだ、今日はバイトだ。

 18時には着いていないといけないのに、もう1時間の遅刻である。

 やばい、こうしてはいられない。

 焦燥に駆られ、ソファーから起き上がる。

 冬葵が包丁を置いて、振り返る。


「どこに行くんですか、沢野さん。まだ寝てないとだめですよ」

「バイトだよ、バイト!」


 冬葵の方を見向きもせず、まくし立てる。

 とにかくバイト先に連絡をして、遅刻を謝罪した後に、今から向かう旨を伝えなければならない。


「それなら大丈夫ですよ。今日は休みになりましたから」

「は?」


 いきなりそんなことを言われて、唖然となる。


「30分ほど前、沢野さんのバイト先から電話が来たんです。なので、わたしが沢野さんの状況を説明してから、きちんとお断りしておきました」

「そう、だったのか」


 また後日、突然休んでしまったことを改めて謝罪しなければならない。

 きっと今日のことをどやされるだろうが……とりあえずバイト先への連絡は済まされているという事実に、ほっと胸を撫で下ろす。

 脱力しきったように、ソファーにどっかりと腰を下ろした。


「だから安心して、身体を休めてくださいね」


 けれどまだ安心はできない。

 ……ここには冬葵がいる。


 彼女を見てはならない。

 取り返しのつかない過ちを起こさないために。


「沢野さん。ここ最近、あなたはずっとバイトばかりですよね。一体、いつ休んでるんですか?」

「休みなんて……ないぞ」


 本来なら日曜日だけに休みを入れている。

 だが、今週はすべての日にバイトを入れていた。

 冬葵から逃げるために、一緒に過ごす時間を少しでも減らそうとしていた。


「いくらなんでも働きすぎじゃないですか?」

「金が欲しいからな」

「そんなにお金が大事なんです?」

「居候を抱え込む以上、今まで以上の稼ぎが必要だからな……」


 俺には両親からの仕送りがある。

 でもそれは俺一人分だけであって、同居人のことは考慮されていない。

 だからそれを補うためにも、今まで以上に日数を増やして稼ぐ必要がある。

 お金は切実な問題だ。


 そんなもっともらしい言い訳で。

 本心を隠して安心している自分に。

 ほとほと嫌気が差してくる――


「なんだ、そういうことだったんですね」


 冬葵はからからと笑った。

 なんでもないことのように。


「そのためにあんなに必死になって頑張ろうとしてくれてたんですね。わたしのために一生懸命頑張ってくれていたんですね」


 俺は目を逸らした。


 違う。

 そうじゃない。

 そんな綺麗な人間じゃないんだ。


「でも大丈夫です。それなら心配ありません」

「は? 何を言って――」

「お金なら、あります」


 この子は何を言っているのだろう。

 ふたり分も生活出来るような額なんて、あるわけ――


「ざっと30万円です」


 そう言って、冬葵は財布から大量の札束を取り出した。

 以前にも、こんなことがあったような気がする。

 どこか既視感のある光景に、はっとなる。


 ……そうだ、思い出した。


 俺は駅前で、冬葵の財布を拾ったことがある。

 中身を見たとき、ざっと30枚かそれ以上の一万円札が入っていた。

 これで★6キャラが引き放題だとか、冬葵はお金持ちの出なのかとかそんなバカげたことを考えていたっけ。


 たしかに30万は大金だが、一時しのぎでしかない。

 ずっと暮らしているだけの額には到底足りていない。

 そんな俺の考えを読んでいたかのように、冬葵は豊かな胸を張る。


「まだこれだけじゃありませんよ。わたしにはまだ沢山の預金があります」


 そう言って、得意気にキャッシュカードを見せつけた。


「この中には、一千万円があります」

「いっせん、まん……!?」


 思わず、目を見開いた。

 およそ正気とは思えない数字に、頭が真っ白になる。


 そんなの出まかせにも程がある。

 そう思って、睨みつける。


 彼女は目を逸らさない。

 ひるまず。

 まっすぐに。

 俺の瞳を、じっと見返してくる。


 ……なんて曇りのない綺麗な瞳なんだろう。

 あれは嘘をついている人間の目じゃない。


「これなら、わたしがあなたの生活費を負担してあげられます!」


 ほら、これで大丈夫でしょう? とでもいうふうに冬葵は続ける。


「嘘だとお疑いなら、今すぐ銀行から全額引き出してきましょう」

「いや、そこまではしなくてもいい」

「そうですか?」


 ちょっと残念そうな顔で、肩をすくめている。

 やめてほしい。

 そんなことをすれば絶対、騒ぎになる。


「さあ。これでもまだ足りないものがあるなら遠慮なくおっしゃってください」


 ……どうしてこうなった。

 もう言い訳なんて出来ない。

 いよいよ逃げ道がなくなってしまったじゃないか。


 ……いいさ。

 なら全てをぶちまけてやろう。

 嫌われたってしるもんか。

 ここまで来たら俺という人間の醜さを。

 本性を徹底的にさらけ出してしまおう。


「君は……怖くないのか」

「何がです?」

「俺のことが、怖くないかって聞いてるんだ!」


 女の子を家に招き入れたことで、俺の生活環境はがらりと一変した。

 バイトも、生活費が足りないのも全部ただの言い訳だ。

 本当は――


「俺は男で、君は女だ! この意味が、分かってるのか!?」


 逃げ出したかったのだ。

 狭い空間に、女の子と二人きりという現実から目をそらしたくて逃げ出したのだ。

 俺はいつか、冬葵に手を出してしまうのではないかという恐れがあった。


「好きでもない男と、一緒に暮らすのが怖くないのか?」


 俺には異性との接し方なんて分からない。

 未知の生き物といっていい。


 ましてや同年代の女子と一つ屋根の下なんて、どうすればいい?

 そのせいか眠れない夜が続いた。

 ずっと、ずっと、我慢してきた。


「俺は、君が怖かった。君という女の子が、怖かったんだ」


 だから必死に考えないようにした。

 でも、無理だった。


 考えないようにすればするほど。

 すぐそばにいる異性を、どうしても強く意識させられてしまう。


 だって、それほどまでに春咲冬葵という女子は魅力的な毒だった。

 だから――


「君が……」


 髪。

 肌。

 瞳。

 鼻。

 耳。

 唇。

 首筋。

 うなじ。

 胸。

 脇。

 腕。

 手。

 指。

 爪。

 腹。

 臍。

 背中。

 腰。

 お尻。

 脚。

 匂い。


 ありとあらゆる君の身体すべてが――


「君のすべてが……欲しくて、欲しくてたまらないんだ!」


 ああ、言ってしまった。

 知られたくなかったのに。

 よりにもよって冬葵さんに知られてしまった。


「……いいですよ」


 え?

 それは、一体。

 どういう、


「ごめんなさい。わたしのせいで苦しい思いをさせていたんですよね。よく今まで我慢してましたね。よしよし、偉いですね。よく頑張りましたね」


 呆気に取られる俺の前で。

 冬葵はなんでもないことのように、笑みを浮かべる。

 全てを包み込むような、慈愛に満ち溢れた笑みだ。


「こういうときって上、脱いだ方がいいんですか?」


 冬葵はブレザーのスカーフを握ったり、手放したりしたり。

 照れくささを誤魔化すように頬をかいている。


「あ……そうでした」


 大切なことを伝え忘れていたというふうに。


「わたし、はじめてなんで、やさしくしてくださいね?」


 冬葵に導かれるがまま、手を伸ばし。

 そして、俺は――

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