聖女と一千万
「お待たせしました。今日は沢野さんのために消化のいいお粥をつくりましたよ」
そう言って、冬葵がキッチンからご飯釜を持ち上げた。
しかもいつの間にそんなものを用意したのか、可愛らしいウサギがプリントされた、オーブンミットで運んできてくれている。
当然俺の家にそんなファンシーなものは置いていないので、冬葵が自前で購入していた私物だろう。
熱でぼうっとする頭で、そんなことを考えていると。
「おっとっと」
鍋がちょっと重いのか、冬葵の足が右に左に、ふらふらと足をもたつかせているではないか。
なんだか不安になって、つい腰を浮かばせて駆け寄ろうとしたけれど。
「こらっ、病人なんですからおとなしくしなきゃ、めっ! ですよ」
「でも……重くないか?」
「こんなの平気のへっちゃらです。わたしに任せてください」
優しい声で、たしなめられてしまう。
……ほんとに大丈夫? スプーンとフォーク以外に重いもの、持てる?
ふらつく冬葵をはらはらと見守っていると、なんとか無事に机の上に、ご飯釜を運び終えた。
その様子にほっと息を吐く。
「なあ。食べる前に聞いておきたいことがあるんだけどいいか?」
「なんでしょう?」
「疑ってるわけじゃないんだけどさ。さっき言ってたお金……1千万って本当なのか?」
「はい、本当ですよ」
冬葵はこともなげに頷いた。
どういうわけか、冬葵はたくさんのお金を持っている。明らかに一介の高校生だけで生み出せるような額ではない。
いっせんまん……いっせんまんかぁ……うーん。
やはり何度聞いても、現実味のない数字だ。
「今度の休みに、一緒に銀行に行きましょう。そうしたら証明出来ると思います」
本人がここまで言うくらいだから、おそらく本当に1千万を持っているんだろう。ここで嘘をついても後でバレるし、意味はないと思う。
問題なのは、その1千万という大金の使い道だ。
冬葵はそのお金を、俺の家賃に充ててくれるといっていた。
たしかに資金の問題を解決してくれるのはありがたいし、願っても叶ってもない話なのだけど……
「なあ、なんでそこまで俺に尽くしてくれるんだ?」
料理や掃除とかならまだ分かる。
だけどお金まで貸してくれるだなんて明らかに行き過ぎている。
「あなたは、わたしの恩人だからです」
「恩人……?」
俺、なんかしたっけ?
「財布を見つけてもらったり、不良の方から助けてもらったり、行く当てのないわたしに家を貸してくれたり……わたしはあなたに、十分なほど助けてもらってます」
「ああ……」
そんなことも、あったなぁ。
……懐かしい。
ほんの数日前の出来事なのに、今となっては遥か昔のことのように思えてくる。
「わたしはまだ、あなたの恩義に報いられているとは思っていません」
「いやいや、そんなことないって!」
むしろ毎日、料理や掃除までしてもらってる時点で大助かりというか。
その上、さっきあんなひどいことをしでかしたというのに。
全てを笑って許してくれている時点で、彼女には恩義を通り越して罪悪感しかない。
「あなたの恩義に報いることが出来るなら、私は何でもするつもりでした。文字通り……この身体を差し出す覚悟もありました」
でもごめんなさい、わたしには無理でした、と冬葵は申し訳なさそうに瞳を閉じた。
「行為を目前にした途端……なぜか恐怖で身体が震えてしまって」
だからさっき、俺が冬葵の身体を求めたとき、身体を差し出そうとしたのか。
俺への恩返しのために、そこまで真剣になってくれてたなんて。
好きでも何でもない相手に迫られるのはとんでもなく怖かっただろうに。
「これは虫のいい話かもしれません。……わたしの身体の代わりといっては何ですが、わたしのお金であなたのお家賃をお支払いさせてはもらえませんか?」
いや……虫のいい話も何も、現金でも十分やばいんだよなぁ。
でも、そうか。
冬葵が払ってくれるなら、たしかに俺も夜遅くまで汗水垂らしてバイトをする必要がなくなるし。
彼女の提案は、抗いがたい魅力のある話だった。
金銭的に余裕が出てくれば、生活にも余裕が生まれる。
バイト代を好きなことにも使える余裕が出る。
学校帰りにコンビニで気になるお菓子や弁当も買える。興味のあるゲームにも手が伸びるし、それこそ欲しいソシャゲのキャラを当てるまで課金だなんて力業も可能だ。
今の冬葵なら、それくらいのことは恩返しだといって受け入れてくれるだろう。
……でも、それこそ虫のいい話だ。
俺にばかり都合がよすぎる。
こういう形で冬葵に頼りきりになれば、さっきとまた同じことの二の舞になる。
誘惑に負けて、彼女にとりかえしのつかないものを背負わせるのはもう嫌だ。
「さすがにお金を貰うのは、冬葵さんに申し訳ないかな」
「そんな……」
なんで彼女はこんなに残念そうな顔をするのだろう。
もし俺が冬葵の立場だったらたとえ一億円が手元にあったとしても、誰かに渡すのは死んでも嫌だ。
気のせいかもしれないが、誰かの役に立たなければという、強迫観念じみた何かを感じる。
「だから俺が、君からお金を借りるというのはどうだろう?」
「貸し借り、ですか?」
「そう。君が家賃を払ってくれる代わりに、俺はその借りた分をバイトで稼いで冬葵さんに返す。これならどうかな?」
「そんな……返さなくてもわたしは大丈夫です。わたしのことはどうかお構いなく。ご自分のことを考えてください」
「いや、自分のことを考えた結果だよ。俺は冬葵さんと、対等でありたいんだ。」
結果的に冬葵に貸しを作ることにはなるし、彼女に負担があるのは変わりないけれど、現状ではこれが一番後腐れのない形だと思った。
何を言っても俺が意思を曲げないと感じ取ったのだろう。
冬葵はため息をつきながら、
「そうですか。それが沢野さんのお望みというのであれば、わたしに異論はありません」
残念そうに、形のいい眉をひそめた。
「とりあえずお話はまた後にしませんか。ご飯、冷めちゃいますし」
「ああ、そうだな」
冬葵は食卓にふたりぶんのお茶碗と箸をてきぱきと並べていく。
いつもなら机を挟んで、俺と冬葵は向かい合うのが定位置なのだけれど。
なぜか彼女は、俺の隣に腰かけた。
しかも俺の茶碗に、スプーンでお粥を注いでくれるではないか。
「何をしているんだ?」
「今の沢野さんは病人です。動くのも大変でしょうし、わたしがお手伝いをしてあげようと思いまして」
たしかに頭は痛いし、関節の節々が痛むし、起きているだけでも辛い。
冬葵の気遣いはとてもありがたい。
「はい。あーん」
何もそこまでしなくてもいいのに、冬葵は俺の口元に運んでくれようとしている。
冬葵に悪いし、女の子にされるがままになっているのは恥ずかしい。
けれどまあ……今日だけはこういうのも悪くないのかもしれない。
なんせ俺は病人なんだしな。
「どうですか? 風邪に効くように、ネギたっぷりにしておきました」
「味が……しないな」
こんな子が、さっき俺に身体を差し出そうとしてたんだよな。
そう考えると、胸がどきどきするあまり、食事を楽しむ余裕なんてない。
「あら? 風邪のせい、でしょうか?」
俺の内心を知ってか、冬葵は小さく笑う。
「そ、そうだな。早く……治したいな」
冬葵の手料理を楽しめないのは勿体ない。
それは人生を損しているといっても過言ではない。
そうだと分かっていても、意識してしまう。
「それならちゃんと安静にしてくださいね。風邪が治るまでバイトも禁止です」
「……はい」
現に無理して倒れてしまっているわけだし、こうして冬葵に迷惑をかけている以上、そこに関しては申し開きもできない。
「さあ。早くお口を開けてください。冷めちゃいますよ」
ふーっ、ふーっ、と俺のお粥を冷ましてから、俺の口元にまで運んでくれるではないか。
「まったく、世話がかかりますね。大きな赤ちゃんみたいですね」
その割に、本人はまんざらでもなさそうに笑っている。
相手から主導権を握るのが大好きなのだろうか。
それとも俺のお世話を心から楽しんでいるのだろうか。
出来れば後者であってほしい。
「そういう君は、まるでお母さんみたいだ」
「こらっ、誰がお母さんですか」
屈託のない笑みを冬葵が浮かべる。
どこにでもいるような、年相応の女の子の笑みだ。
こんな子が、一体どうやってあれほど金を手にしたのだろう。
あれだけの大金だ。貧困などで帰る家がないという線は有り得ない。
となると考えられるのは……家出の線か。
親子関係で何かがあって家にいられなくなった、という可能性がいまのところは濃厚だろう。
そういえば俺は冬葵を、彼女のことをよく知らない。
学校でも接点はない。だから特に会話もしない。
教室でも姫川をはじめとしたクラスの中心的人物と話していたり、男子から告白を受ける姿を見かけたりはするけれど。
彼女が何を好むのか。
どんな食べ物を好むのか。
休みの日にどこに遊びに行くのか。
友達と何を話しているのか。
趣味が何かも分からない。
何もかも分からないことだらけだ。
一緒に暮らすようになって、冬葵は料理が上手で世話を焼くのが好きなことは分かって来たけれど、そんなのはほんの一面だ。
彼女の全てではない。
――春咲冬葵は、何者なんだろう?
そもそもなぜ家にいられないのだろう。
理由が、気になる。
今すぐにでも聞いてみたい気持ちはあるけれど……さっき冬葵に負い目の残るようなことをしてしまった以上、聞くのは憚られた。
……まあいっか。
今すぐ事情を無理に聞き出さなくてもいい。
焦る必要はない。この家で長いこと過ごすことになるのだ。
これから少しづつ、彼女のことを知っていけばいい。
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