聖女の秘密

 冬葵とあの介護を受けながら、夕食を食べ終えた頃には。

 時計の針は21時を過ぎようとしていた。

 テレビを見ながらだらだら座っていただけなのに、あっという間に時間は過ぎていくものだから恐ろしい。


 台所には、冬葵がこちらに背中を向けながら、使い終わった食器を洗っている。

 彼女は誰に言われるまでもなく、嫌な顔一つすることなく、いつも率先して家事をこなしてくれている。


 料理も、掃除も、洗い物も、お風呂も、洗濯物も――全てだ。


 さっきの話を聞く限り、全部俺への恩返しらしいのだけれど、やっぱり度が過ぎているように思う。

 今までまともに家事をこなしてこなかった俺でも、ひとりでやるには重労働だというのは分かる。

 何か手伝えることはあるかと冬葵に尋ねてみても、


「大丈夫です。ひとりでやった方が効率がいいですし」


 と、笑いながらやんわりと断られてしまう。


 彼女はそれで満足しているのかもしれないけれど、さすがに全てを押し付けるのは俺としても忍びない。

 見ているだけで罪悪感がこみ上げてきて落ち着かなくない。

 いつか過労で倒れてしまわないか、心配になる。


 ……いずれ家事の役割分担なども、近い内に話し合いの場を設ける必要がある。


 冬葵から逃げるのをやめて、今度こそ真摯に向き合うと決めたからには。

 この子と暮らしていくためにも、しっかりと向き合わなければならない。

 そのためにはルールが必要だ。


 俺は男で、冬葵は女。

 和解したとはいえ、どうあがいても性別からは逃れられない。


 お風呂に入る前、うっかり着替え中に出くわさないようにする工夫だとか、洗濯物に服を放り込むとき下着を一緒に洗っていいかとか、寝る場所はどうするかとか。


 ……問題は山積みだ。


 これから俺と冬葵が一緒に暮らしていくために。

 互いに対等であり続けるために。

 俺たちは、話し合わなければならない。


「眠くなってきたな……」


 眠気を自覚した途端、喉の奥から欠伸がこみ上げてくる。

 このままぼんやりと椅子に座っていても……気づかない間に寝落ちてしまいそうだ。

 風邪で全身が怠いから、今すぐソファーで横になりたいけれど。

 汗を洗い流さないまま寝てしまうのはなんだか落ち着かない。


「冬葵さん。俺、そろそろ風呂に入るから」


 冬葵に断りを入れてから、ふらふらと腰を浮かしかけたそのとき。


「待ってください。その身体でお風呂になんて入ったら倒れてしまいますよ」


 きっ、とした目で冬葵に睨みつけられる。


「風呂くらいで大袈裟だよ」

「いいえ、油断大敵ですよ。お熱のときに湯船に浸かったら脱水症状になってしまいます」

「そんな、老人じゃあるまいし」


 だが冬葵は頑なに首を縦に振ろうとはしない。


「駄目なものは駄目です。それにあなたが倒れでもしたら、そのっ……ぜ、ぜんらのあなたを、運び出すのは……わたしなんですからね」

「うーん……」


 そう言われてもなぁ。

 やっぱ汗まみれのまま寝るのは気持ち悪いし、俺の体臭で冬葵に迷惑をかけるのは嫌だ。


「ですから。こんなこともあろうかと、蒸しタオルを用意しておきました」

「おっ、ありがとう」


 きっと俺が風邪だということを見越して、用意してくれていたのだろう。

 用意周到にも程がある。

 さっそく冬葵から蒸しタオルを受け取ろうとしたのだけれど――


「横になってください」

「え?」

「遠慮はいりません。汗をかいたままだと、もっとお風邪がひどくなってしまいます」

「……はい?」


 冬葵の言わんとすることを理解しかねて、首をひねっていると、彼女はいたって真剣な顔で、


「わたしが身体を拭きますので、今すぐ横になってください」

「い、いいよ。そこまでは。自分でやれるから」


 慌てて両手を振るけれど、冬葵は聞く耳を持とうともしない。


「ほらっ、病人なんですからおとなしくソファーの上で横になってください」


 このまま粘っても冬葵は「はいわかりました」と素直に蒸しタオルを渡してくれそうにない。

 ……俺は根負けする形で。

 彼女に言われるがまま上着を脱ぎ、ソファーの上で横になった。


「では、行きます」


 温かなタオル越しに、冬葵の柔らかな手が、そっと俺の背中の上を撫でる。

 気持ちがいい。

 天にも昇りそうな心地のいい感触だ。

 けれどその手つきはぎこちないというか、どこか遠慮がちだ。


 そういえば以前、冬葵は俺の上半身を見るだけで、茹だこのように真っ赤になっていたっけ。


 横になっているから冬葵の様子は見えないけれど。

 目をぷるぷると痙攣させ、羞恥に顔を赤らめながらも、一生懸命拭いてくれている姿が思い浮かぶ。


「なあ。もしかして、照れてる?」

「……照れてないです」

「無理はしなくていいからな」

「無理なんかしてません」


 そう言いながらも、冬葵の声は恥ずかしさで若干上ずっている。

 男の上半身だけでこの有り様だ。

 もし、あのとき俺が手を出していたらどうなっていたのだろう。

 恥ずかしさのあまり……この世から跡形もなく爆散して消えて無くなってしまうのでは?


 冬葵が照れている姿は可愛らしくて。

 いつまでも堪能していたいという思いはあるが、ずっとこのままというのも酷だ。

 気晴らしに何か話題を振ってみるとしよう。


 とは思ってみたものの……何も思い浮かばなかった。

 冬葵が好む話題がまるで分からないし想像もつかない。


 やはり女の子だし、服だとかイケメン俳優だとか、流行りのドラマとかだろうか?

 駄目だ。……そこら辺の話題は専門外だ。

 くそっ、教室にいるとき姫川と普段何を話しているかもっと聞いておけばよかった。


 これが霧谷とかだったら面白かったアニメや漫画、ラノベなどの話を振ればいくらでも盛り上がれるのだけれど――


 ……ん? ラノベ?


 そこではたと思い出す。

 思い返されるのは数日前の風呂上りのこと。

 冬葵が疲れてソファーの上で眠っていたときのこと。

 白魚のような真っ白い膝の上に、一冊のラノベが置かれていた。


 俺の記憶が定かならば。

 あれは俺もまだ購入出来ていない『冒涜ぼうとくのファントムエッジ』。

 その最新巻だったような――


「ねえ、冬葵さん。つかぬことを聞くんだけど」

「はい?」

「ライトノベル、好きなの……?」


 俺の問いかけに、冬葵の手がこわばる。

 背中越しに、かすかに息を呑む音を聞いた気がした。

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