急転

 俺は霧谷にメッセージでお礼を言ってから、懐にスマホをしまった。

 学校の最寄り駅で降りて、通学路を歩く。

 歩きながら、姿の見えない相手のことを考える。


 彩月と華丸って先輩たちも、下駄箱に手紙を入れて脅迫されたのだろうか。 

 ストーカー被害に困らされている者同士、結託してストーカーに立ち向かいたいものだが……そのふたりが学校に来ていない以上、話を聞くことも出来ない。


 姿の見えない相手にどう太刀打ちすればいいだろう。


「そもそも姿が見えないって時点でズルだよなぁ」


 敵の姿がそもそも見えない。どこの誰かも分からない。

 俺の目の届かない場所から、一方的にやられてばかりいる。

 はっきりいってこの状況は不利だ。


 ここから状況をひっくり返すためにも。

 ……まずどうにかして犯人を目の前に引きずり出してやらねばならない。

 そのためにも対抗手段を考えなければ。


 そんなことを考えている内に、いつの間にか校門が見えてきた。


 校門の前に、見覚えのある人物がこちらに手を振ってくる。

 あれはたしか――綾藤透だ。

 冬葵への手紙を通じて俺たちに、風紀委員長へ恋の相談をもちかけてきた丸眼鏡の男子だ。


「お、おはようございます、沢野さん」

「おはよう、綾藤。どうしたんだ、こんな朝っぱらから?」

「その……お話ししたいことがありまして……」

「話?」


 聞かずとも、大体察しはつく。

 きっとこいつが校門で待ち構えていたのは、岸園の情報が知りたいからだろう。

 意中の相手のことが好きで好きで、気になるあまり、いてもたってもいられないのだ。


 だが、最近色々ありすぎて……依頼のことをすっかり忘れかけていた。

 実害が出ている以上、ストーカー問題を先に片づけておきたいし

 綾藤には悪いが、いまはこいつに構っていられる余裕がない。


「なあ、綾藤。その、俺も身辺が色々とゴタゴタしててな。悪いんだが――」


 お前の依頼を後回しにしてもいいか?

 そう口にしようとしたのだけれど、やたらと切羽詰まった綾藤に遮られる。


「ぼ、僕のことはいいんです! そんなことよりも……たっ、大変なことが!」

「大変? 何が大変なんだ?」

「じっ、実はその……学校中にこんな紙がバラまかれていて……っ」


 そう言って、綾藤が取り出したものに目をやって。

 そこに書かれていた内容に、瞠目どうもくした。


『春咲冬葵は学校中の男を手玉に取って、何股もかけてる最低のビッチだ』


 血のように真っ赤なインクで、そう書かれていた。



 ◆



 俺はおたおたとする綾藤を置いて、動揺しながら教室へと急ぐ。

 途中、綾藤が教えてくれた紙が至る所に張り付けられているのが目に入る。

 本当に学校中にバラまかれているらしい。

 生徒たちは奇妙なものを見たような顔で、しきりに何かを囁き合っている。


 教室の前にたどり着いたとき、大勢の人だかりが出来ていた。

 同じクラスメイトだけではなく、他のクラスから来たであろう知らない顔ぶれまである。


「おい。あれ……誰か止めなくていいのかよ」

「いや、余計なことすんな。あいつ、空手部の部長と付き合ってるらしいし、チクられたら袋叩きだぜ」

「うぅ……おっかねえ」


 なにやら雰囲気がものものしい。

 嫌な予感がする。

 俺は人だかりをかき分けながら、やっとのことで教室に足を踏み入れる。


 そこでは、目を疑うような光景が繰り広げられていた。

 5、6人ほどの女子生徒たちが何事かをやかましく喚きたてている。

 あれはうちのクラスの女子ではない。他クラスからきたのだろう。


 俺は彼女たちを初めて見たので名前は分からないが、それでも彼女たちがどういう立ち位置の人間なのかは想像がつく。

 いわゆるクラスカースト上位にいる女子たちだ。

 それも性格が悪く、自分より下にいる人間たちを無条件で見下していいと思っている存在。

 周りに向ける高圧的な目が、彼女たちの傲慢さを物語っている。


 そして彼女らの中心には、冬葵がいた。


「ねえ。あんたさ、さっきからあたいらのこと無視してるけど何様のつもり?」

「周りから聖女サマだとかナントカってちやほやされて、勘違いしてんでしょ」

「その清楚な聖女サマが、裏で何十人も男囲ってたってのが信じらんないよねー」

「聖女じゃなくて、性女サマってわけ?」


 低俗な言葉を吐きながら。

 口汚い罵声を浴びせてケタケタと笑っている。

 きっと彼女たちは学校中にばらまかれていた例の張り紙を見て、こんなことをしているのか?


 あるいは元々大勢から好かれる冬葵をよく思っていなくて、もやもやとしていたところを、張り紙のおかげで陥れるチャンスが巡ってきたのだろうか。

 どちらにせよ、あまりにも短絡的に過ぎる。


 どうしよう、助けにはいるべきか?

 だけど目立ちすぎて冬葵との間によからぬ噂が経つのは避けたい。

 唯一この状況をなんとか出来そうな姫川はいない。人混みのせいでまだここまで来れないのだろうか。

 それにあの女子たちには空手部の彼氏がついているらしいし、反感を買うのは得策と言えない。


 そんなことを考えていると、冬葵の目がこちらに向いた。

 こちらを射貫くような力強い眼差しに、はっと息を呑む。

 冬葵の瞳は、ここはわたしひとりで大丈夫です、と言っているような気がした。


 ならば冬葵を信じて、この場は見守っていよう。

 この騒ぎだし、すでに誰かが先生を呼びにいってるだろう。

 最悪な事態を迎える前に、終息するはずだ。


「おい。耳ついてんのかよ!」

「シカトこくんじゃねえよ、このクソビッチ!」


 そんな悪意を真っ向からぶつけられても、冬葵は動じない。

 それどころか底冷えするような、冷ややかな眼差しを向けている。


「……それで? 言いたいことは言えて、満足しましたか」


 ぞっ、と気圧されたように女子たちが後退った。

 やはり美人に睨まれると、ものすごい迫力がある。

 見ているだけの俺ですら、寒気で震えてしまうほどだ。


 だが、それでもすぐに持ち直したようにリーダー格っぽい化粧の濃ゆい女子が負けじと詰め寄っていく。


「……お前さ、あたいの彼氏に色目使っただろ?」

「何のことですか?」

「ばっくれてんじゃねえよ。彼氏の目があたしじゃなくて、お前ばっか見てんだよ! 絶対、何かしただろ!」

「はあ」

「謝れよ!」

「……?」

「謝れっつってんの!」


 声を荒げる女子に対して、冬葵は本気で訳が分からなそうに首をかしげている。

 たしかに冬葵は道行く人たちが振り返ってしまうような美少女だ。


 だから彼女持ちの男が目移りしてしまう気持ちは分からなくもないが……浮気性の彼氏を選んだことがそもそもの間違いではなかろうか。

 けれど女子たちは冬葵に全ての非があると言わんばかりに声を上げる。


「そういえばこいつウサギ好きなんでしょ?」

「ウサギってさ、年中発情期だって知ってる? どうせお前もさ、学校中の男とっかえひっかえしてんだろ」

「うわ~、きっも」

「だからウサギ好きなの!?」

「マジないわー、超どん引きなんですけどー」


 品のない罵倒の数々に、冬葵は呆れたようにため息をついた。


「もうこれ以上は付き合いきれません」


 くるりと身を翻して、その場を立ち去ろうとしたところを、女子のひとりが足を伸ばした。

 冬葵はそれを避けきれず、盛大に転んでしまう。

 どっ、と笑い声が上がる。


 いじめを先導している女子だけではない。

 周囲のクラスメイトたちも笑っている。


 可笑しいものを見たとばかりに。

 滑稽なものを見たとばかりに。


「うっわー、だっせーこいつ!」

「転んでやがんの!」

「ざまーみろビッチ!」

「このクソビッチが!」


 どこかから醜い笑い声が上がる。

 売女ビッチ! 売女ビッチ! 売女ビッチ! とはやし立てるようなコールが巻き上がる。

 誰もが指を差して笑っている。


 異常な空間に、目頭が熱くなる。

 なんだ。

 なんなんだ……この光景は?

 一体俺は。

 何を見てるんだ?


 どうして誰も冬葵を助けない?

 どうして彼女の味方をしない?

 お前らが学園の聖女と慕っていた存在が、辱められているんだぞ?


 先生はまだ来ないのか?

 誰も呼びに行っていないのか?


 それでも冬葵は起き上がろうとする。

 氷点下のように冷え冷えとする眼差しで、睨みつける。


「なんだその反抗的な目は!」


 すかさずリーダー格の女子が踏みつけた。

 まるで地を這うアリを踏み潰すかのように。

 冬葵が痛みに喘ぐ声を漏らしても、お構いなく体重を込めている。


 笑い声が上がる。


 ぷつり、と――

 自分の中で何かが切れる音が、聞こえた気がした。


 気づけば、俺は踏み出し、叫んでいた。


「黙れ!!」


 しん、と教室が静まり返る。

 女子たちが固まる。

 針のような視線が周囲から突き刺さってくるがどうでもいい。

 俺は冬葵を踏みつけているリーダー格の女子を突き飛ばした。


「なっ……ちょっ、何すんだよお前!」

「喋るな、クソビッチ」

「は、はぁぁぁ!?」


 腐りかけのオレンジのように顔を真っ赤にして、何事かを喚き散らしているが知ったことじゃない。

 こんなやつはどうでもいい。

 俺は倒れている冬葵に手を差し伸ばす。


「大丈夫? 立てる?」

「このくらい、平気です」

「でも一応、保健室いこっか」

「……はい」


 そっと伸ばされた手つかみ取ると、冬葵が立ち上がる。

 俺はそれを見届けてから、壁のように立ちふさがる野次馬共を睨みつけた。


「邪魔だ、道を開けろ!」


 さっと人混みが慌てて割れる。

 冬葵の手を引いて、その間を抜けようとしたとき。

 リーダー格の女子が、背後で怒声を上げる。


「待てよ。あたいらはその女に用があるの。急にしゃしゃり出てきて白馬の王子気取ってんじゃねーぞオタク野郎!」


 ほんとうにしつこい。

 しかも罵倒のレパートリーの無さが、貧困な発想力を露呈しているのに気づけないだなんて、哀れにも程がある。


「ようはお前らの言い分ってさ、彼氏に構ってもらえないから欲求不満なんだろ?」

「は、はあ!? 分かったような口利くんじゃねーよ」

「もういい加減喋るな、この万年発情期女」

「お前……っ、分かってんのか! あたいの彼氏は空手部の主将なんだぞ! こんなことした以上、ただじゃすまさねーからな!」


 金切り声を上げる女に構わず、俺は冬葵を保健室へと連れて行った。





「これでよし、と」


 幸いなことに、冬葵の怪我は軽いものだった。

 保健の先生が留守にしていたため、どうなるものかと思ったが、保健室の棚に置いてあった傷薬を塗ってガーゼを張る程度で済んだ。

 あとはベッドで少し休んでさえいれば良くなるだろう。


 でも身体の傷よりも、心の傷の方が心配だ。

 大勢の前であんな辱めを受けたら、傷の深さは計り知れない。

 俺としては今すぐ帰宅して安静にして欲しいところだ。

 学校中にさっきの紙がばらまかれて噂が広がってるみたいだし、またさっきの女子みたいな輩が現れて突っかかってこないとも限らない。


「……どうして、あんなことをしたんですか?」


 ぼそり、とつぶやくような声で冬葵は言った。

 あんなこととは、俺が冬葵を助けたことだろう。


「さあね」

「……噂になってるのはわたしだけなんですよ。沢野さんは関係なかったのに、どうして、そんな?」

「よく、わからないんだ」


 自分でも、馬鹿なことをしたと思う。

 冬葵との同居を少しでも勘づかれないようお互い学校では関わらないようにと決めていたのに。それを破ってしまった。


 きっと明日から俺は後ろ指を差される存在だろう。

 冬葵に気があるだとか、誑かされた男の一人だとかそんな感じの噂がつきまとうかもしれない。

 だけど、それを全て承知の上で――


「気づいたらカッとなって、身体が動いてたんだ」


 それでも俺は間違ったことはしていないと思う。

 もし冬葵があんな目に遭っても見捨てていたら。

 俺はきっと自分が許せなかったと思う。


「どうしてですか? わたしが、わたしひとりが……我慢すれば、よかったことなんです」


 冬葵は力ない笑みを浮かべる。

 どこか痛みに堪えるような、苦しげな声に聞こえてきて。


「放っておいてくれたらよかったんです。沢野さんが、わたしをかばう必要なんて、なかったんです」

「……やめろ、もうやめてくれ」


 そんな辛そうな冬葵を見てられなくて、声を張り上げていた。


「あんな人に絡まれたことなんて、一度や二度じゃありません。だから、わたしは平気です」

「いいや、嘘だ」

「嘘じゃ、ないです」


 俺は、よく知っている。


 俺が冬葵に迫ったとき、彼女は内心の恐怖を押し殺して。

 泣いて震えてしまうほど怖かったのに、それでも俺のために身体を差し出そうとして。


 冬葵はゴキブリを見たら泣いて助けを求めてしまうほど、か弱い女の子で。

 怖くて怖くてたまらないのに、殺すほど残酷にはなりきれなくて。

 恐怖を押し殺して、なんとか外に逃がしてあげようとしたり。


 そんな誰よりも、心優しい女の子が苦しんでいるのに。

 放っておくなんて、出来るはずがない。


「本当に大丈夫な子が……どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるんだ?」

「……え?」


 冬葵はいまその事実に初めて気づいたと言わんばかりに。

 顔を驚きに歪め。


「あれ……嘘? わたし、なんで? どうして、こんなっ……」


 顔をくしゃくしゃにして。

 嗚咽を上げながら。

 自分の頬を流れ落ちる、温かなものに戸惑いながら、


「こんなの、平気だったのにっ……いつもみたいに我慢できるのに……わたしは、わたしは……っ」


 今まで堪えていたものが、堰を切って流れ出てきたとばかりに。

 赤ん坊に立ち戻ったかのように、ぼろぼろと涙を流している。


「辛かったら、辛いって言えばよかったんだよ」


 俺は冬葵の蜂蜜色の髪に、そっと手を伸ばした。

 女の子の頭を撫でるという行為はこれが初めてだった。


 なぜそうしたのか俺には理由が分からない。

 理由なんてなかったのかもしれない。


 けれど俺が子供だったとき。

 悲しいことがあったとき、両親に頭を撫でられるのがとても嬉しかったから。


 泣き虫の子供をあやすかのように。

 そっと優しい手つきで、時間の許す限り、いつまでもいつまでも撫で続けた。

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