尾行

 カッターをスライドさせ、刃をせり出してみる。

 途中でつっかえることなく、錆一つない真新しい輝きが顔を出した。

 当然だ。

 美術の時間以外で使ったことがないので新品同然である。


「こんなところでいいか」


 とりあえず使用に問題がなさそうなのを確認してから、そっと胸ポケットにしまった。

 ずっとカッターナイフの見ているのは良くない。誰かに目撃でもされたら、俺は刃物をじろじろと眺めている危険人物扱いだ。


 これから岸園に、事の真偽を確かめにいく。

 俺と冬葵に嫌がらせをしたかどうか、聞きださなければならない。

 場合によっては、暴れ出した岸園と戦うために、カッターナイフが必要になる事態も考えられたからだ。


 とはいえ……こんなものを持っていても岸園に勝てるビジョンが見えない。

 俺では手も足も出なかった空手部の部員たちを、岸園はたったひとりで制圧してしまったのだから。


 警官の父親から護身術を学んでいる彼女にはカッターナイフなんて付け焼刃もいいところだろう。

 でも他に何か武器になりそうな物はないし、俺にできる備えはこの程度だろう。


 ……せめて、これを使う事態にならなければいいのだが。


「っと――そうだ。忘れるところだった」


 鞄から生徒手帳を取り出す。

 分厚くて、手で持っているだけでもずっしりとした重量感がある。

 明らかに設計ミスだと思う。

 そこは教師も思っていることなのか、いくら学則とはいえ教師もうるさく言ってこないし見逃してくれる。

 俺としても、こんな重いものを胸ポケットに入れておくのは嫌なのだけれど。



 ――私に何か物申したいならば、まずは校則を守りたまえ。話はそれからだ。



 もし岸園のあの言葉が本当なら。

 荒事を少しでも避けられる可能性があるならば、備えるに越したことはないだろう。

 そう願いながら、俺は学ランの胸ポケットに学生手帳を仕舞った。


 放課後になったと同時に、校門まで走った。

 木の陰に身を隠し、校門から出てくる生徒たちを見張る。

 ここで岸園がやってくるのを待ち続けるためだ。


 後をつけて、決定的な証拠をつかむために。

 岸園が今日いきなり何かをしでかすとは限らないから、数日にも渡って根気よく後をつけなければならないだろう。


 これが間違っているという自覚はある。

 相手と同じ罪を犯しているという後ろめたさもある。


 でも、どんな汚い手を使ってでも俺は――


 冬葵を泣かせた人間を、許してはおけない。

 あのような悪意の針に突き落とした輩を、野放しに出来ない。


 涙する彼女を思い返すたびに、怒りで胸が張り裂けそうになる。

 嫌がらせをやめさせるためならば、何日でもここで張り込むつもりだ。


 ふいに、スマホが震えた。

 画面を見ると、冬葵からだった。



 春咲冬葵:『さっきは迷惑かけて、ごめんなさい』



 おそらく俺が、柳川からかばったことを言っているのだろう。

 そんなの謝ることじゃないのに、律儀なもんだ。



 沢野陽:『いや、大丈夫。謝ることじゃないよ。それより春咲さんは、もう家についた?』



 春咲冬葵:『はい。さきほど洗濯物を取り込み終わったところです』



 沢野陽:『そうか。それは良かった』



 冬葵にはいつもお世話になっている。

 返しきれない恩がある身としては、あのくらい何でもない。

 むしろもっと迷惑をかけてくれてもいいと思っていたくらいだ。

 奇しくもそのチャンスが望まぬ形で巡ってきた訳だけど……これからも何かあったらいつでも俺を頼ってくれたら嬉しい。



 春咲冬葵:『ところで、沢野さんって好物はありますか?』



 沢野陽:『好物? そうだなぁ、ハンバーグかな』



 春咲冬葵:『なるほど。承知いたしました』



 沢野陽:『それがどうかした?』



 春咲冬葵:『いえ……その、先ほどはみっともない姿を見せしてしまったので、何かお礼をと。わたしにはこんなことしか出来ないのが心苦しい限りですが……』



 沢野陽:『あはは。そんなの気にしなくてもいいのに』



 春咲冬葵:『はんばぁぐ、たくさんたくさん作って待ってますね。あ、間違ってひらがなで送ってしまいました……は、恥ずかしい。と、とにかく待ってますから、早く帰ってきてくださいね!』



 よほど張り切って文字を打ち込んでしまったのだろう。

 冬葵の微笑ましさに頬を緩めながらも……だが俺は、強いて目を背けた。

 


 沢野陽:『ごめん。悪いけど、今日は速く帰れそうにないんだ』



 春咲冬葵:『どうしたのですか?』



 沢野陽:『いや、霧谷にさ。同人誌買うの付き合ってくれって誘われちゃって。そのままファミレス行くと思うから俺の分は作らなくても大丈夫かな』



 春咲冬葵:『そうでしたか』



 沢野陽:『悪いな。だからハンバーグはまた今度頼む』



 春咲冬葵:『いえいえ、こちらは気にせず、お友達と遊んできてください』



 沢野陽:『うん。それと最近物騒だからくれぐれも戸締りに気をつけてくれ』



 春咲冬葵:『もうっ、子ども扱いしないでください。そのくらいわたしにも分かりますよ』



 沢野陽:『くれぐれも知らない人や霧谷が来ても、ドアを開けたら駄目だよ』



 春咲冬葵:『はいはい。知らない人や霧谷さんが訪ねてきても、開けたりしません』



 冗談で霧谷の名前を出したのだけれど、ツッコミがないあたり、奴はやはり不審者扱いが周知されているのだろうか。

 親友の風評が気になり始めたそのとき、校門からすらりとした影を認めた。


 ――岸園奈津乃だ。



 沢野陽:『悪い。霧谷が来たからまた後で連絡する』



 急いで冬葵にメッセージを打ち込んでから。

 俺は岸園の後を追いかけた。

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