聖女とエプロン
……誰かに見られている。
やはり屋上で目にした光は、気のせいじゃなかった。
その疑念が確信に変わったのは、校門を出たときだった。
住宅街を通って駅までの道のりを歩いていると。
――背後に粘りつくような、何者かの視線を感じる。
がばっと振り返る。
けれどそれらしき姿は確認できない。
そこにあるのは人気のない閑静な住宅街だけだった。
学校を出る前に、図書室や購買にわざと立ち寄って時間を潰したのは失敗だった。そんなことをしても無駄だ。
校門を見張っていれば、俺が出てくるところなんて相手には丸わかりなのだから。
問題なのは、相手の姿がまるでわからないことだ。
俺が立ち止まるたびに、向こうの足も止まるのが分かった。
こうして俺が戸惑っている間にも、じっくりと息を殺して、俺を舐めまわすように見ている。
それは分かるのに。
どこから俺を観察しているのか見当もつかない。
近くにいるのかも、遠くにいるのかさえ分からない。
ただ気配だけが、そこにある。
「……っ」
内心の気味の悪さを押し込んで、俺はまた歩き出す。
帰宅中の小学生の集団や、ジョギングをしている大学生とすれ違う。遠くから犬の吠え声が静かな住宅街に響き渡る。
心なしか、すれ違う通行人たちでさえ怪しく思えてくる。
それからしばらく、駅まであともう少しの道のりにまで差し掛かったとき、背後につきまとっていた気配がぷっつりと途絶えた。
振り返るが、やはりそこには何もいない。
諦めたのだろうか?
わからない。
まだ安心することは出来ない。
どこかで待ち伏せている可能性は十分にある。
駅前の本屋やデパート、家電品のコーナーを時間をかけてぶらついたり。
電車に乗っても念のため最後尾から最前列まで移動した。
そうしていつもより時間をかけて帰宅したせいか、家に帰り着いた頃、辺りは真っ暗になっていた。
道中、神経を張り詰めていたせいか、すごく疲れた。
身体がどっしりと重たく感じる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
ドアを開けると、腰に両手を当てた冬葵がエプロン姿で立っていた。
ぷっくりと頬を不機嫌そうに膨らませている。
「……今日は随分と遅かったですね」
「ごめん。ちょっとコンビニで漫画を立ち読みしていたら遅くなっちゃって」
肩をすくめる俺に、冬葵はため息をついた。
「別にそのことを咎めるつもりはありません。あなたがご友人と夜中まで遊んでいてもわたしが口出しをする権利はありません」
ですが、と冬葵は人差し指を立てた。
「遅くなるときは必ず連絡をください。何度も電話かけてるのに反応がないだなんて……そんなの、心配するじゃないですか。この前みたいに身体を壊してどこかで倒れてるんじゃないかと不安でたまらなかったんですからね!」
瞳に涙をうるませて、冬葵が詰め寄ってくる。
姿の見えない尾行者にばかり気を取られて、冬葵に一言連絡を入れるのを忘れていた。
彼女にこんな顔をさせるだなんて、本当に悪いことをした。
「ああ……ごめん。もうしない。次からは気をつけるよ」
すぐに頭を下げようとしたのだけれど、冬葵はじっと俺の顔を怪訝そうな顔で見つめている。
「冬葵さん、どうしたの? 俺の顔に、何かついてる?」
「いえ、気のせいでしょうか。なんだか沢野さんがひどくお疲れのような……」
うっ、なかなか鋭い。
こちらを見透かすような言葉に、冷や汗が流れた。
「あっ、わかる? 実は帰りの電車が出発しそうでさ。急いで走ったから疲れちゃって」
ははっ、と冬葵を安心させるように笑い声をあげる。
けれど冬葵は探るような眼で、俺の顔を見つめている。
奥底を見通すような眼差しに、身じろぎも出来ないでいると――
「……そうでしたか。ゆっくりと休んでください」
ぺこりと頭を下げて、キッチンに戻った。
よかった。諦めてくれた。
ふう、と息を吐いて俺はソファに腰を下ろす。
しかし、奇妙だ。
あれがどこの誰で、何の目的で、俺につきまとっていたのかも分からない。
姿形も見えないだなんて、やけに手馴れている。
考えられるとすれば、冬葵に恋情を抱いている者だろうか。
ともなれば動機は、俺と屋上で会話している姿を見かけて、気になって後をつけた、という線だろう。
……いや、よそう。
俺は多分、人よりも考えが顔に出やすい性質だ。
下手すれば、冬葵に悟られる。
とりあえず……今日あった出来事は、ひとまず俺の胸に秘めておこう。
あれがただの気のせいだったり、俺の心が生んだ幻の存在という可能性は大いにある。
俺の帰りが遅いだけで心配して泣きそうになるくらいだ。
尾行者がいるという確証がはっきりと取れない以上、冬葵に余計な心配をかけたくない。
でもこのまま黙っているのはよくない。
俺は冬葵と対等になると決めたのだ。
もし本当に尾行者が実在していた場合、彼女にも害が及ばないとは言い切れないし。
今回のようなことが続くようであれば、注意勧告も兼ねて冬葵にも相談するとしよう。
「弁当箱、流し台に置いといてください」
キッチンから冬葵が振り返る。
「ああ。分かった」
俺は鞄から弁当箱を取り出して、流しに置いた。
ちらりとキッチンを見やると、ボウルの中にぽこぽこと泡を吐く、山のように積み重なったアサリが見えた。塩水にアサリをつけて塩抜きをしているのだろう。
今日の夕ご飯は、アサリの味噌汁だろうか。
俺、アサリ大好きなんだよな。
貝殻があって食べにくいのが難点だけれど、あのもちっとした感触がクセになるし、いつまでも噛み続けていたくなる。
「沢野さん。今日のお弁当、どうでした?」
「驚いたよ。まさか伊勢海老が入ってるとは思わなかった」
「ええ。張り切っちゃいました」
えっへん、と冬葵は胸を張る。
「沢野さんに、わたしの作品を読んでいただくよう、お願いする記念日と決めていましたから」
なるほど。
やたらと弁当が豪華だったのはそんな下心があったわけだ。
でもいくらなんでもふたりとも伊勢海老ってのはやり過ぎだったと思う。
霧谷なんてすごい不思議そうな顔していたし……。
そんな俺の考えをどう取ったのか、冬葵はしゅんとしたように目じりを下げる。
「もしかして……海老はお嫌いでしたか?」
「いや、好きだよ。好きなんだけど……そうじゃなくて」
そんな顔をされると、逆にこっちが申し訳なくなる。
冬葵の料理は美味しい。いつも三食作ってもらっている身で、中身に文句をつける気はないのだけれど――
「弁当の中身、同じなのはやめた方がいいかも。その、バレたら恥ずかしいだろ……」
「あっ、たしかに! すっかり失念しておりました」
今まさにその可能性に思い当たったというふうに、ぽん、と冬葵は両手を叩いた。
「それでは明日から別々の献立を考えておきます」
何でもないことのように、冬葵はそんなことを言ってのける。
「いや、ごめん。やっぱ今のなし」
「何でですか?」
「俺から言っておいてなんだけど、単純に冬葵さんの手間が増えるし、悪いなって」
「いいですよ。いつもわたしは沢野さんにご迷惑をおかけしていますし、それに元々料理は好きでやってることですから」
冬葵は笑った。
そこに無理して気負っている様子は微塵もない。
本当にやりたくてたまらない、とでもいうような、やる気に満ち溢れた顔だ。
「でも……」
「いいんですよ。なんでも頼ってくださいね」
迂闊だった。自分の発言を悔やむが、もう遅い。
冬葵さんは頼られれば嫌な顔することなく、なんでもかんでも引き受けてしまうのだ。さもそれが当然だとでもいうふうに無理をしてしまう。
ううむ、どうしよう。ただでさえ彼女には家事や家賃を背負わってしまっているのにさらに重荷を背負わせてしまった。
こうなったら冬葵はもう止められない。
うーん、困った。
俺に何か手伝えることがあればいいのだが。
せめて彼女から何か頼みごとをしてくれれたりしたら嬉しいのだけれど。
そんなふうに腕を組んで悩んでいると――
「じゃあ、そのかわりといってはなんですが。わたしがご飯を作っている間に、わたしの小説を読んでくれませんか?」
「え?」
「わたし、読者の声を聞くことが出来るのは初めてのことで……とてもワクワクしているんです!」
この世で、それに勝る喜びはないとでもいうふうに。
冬葵は微笑みを浮かべていた。
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