来訪者
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
はあい? どちらさまでしょうか?
反射的にそんな声が出かけて、はたと思い直す。
さっき沢野さんに言われたことを、思い出したからだ。
――最近物騒だから、くれぐれも戸締りに気をつけてくれ。
それにわたしはちょっとムッとして子ども扱いしないでください、と返したのだった。その程度、自分にも分かることだと。
だから居留守を決め込むつもりで口を閉ざしていたのだけれど。
「は、春咲さん! そ、そこにいるんですよね!」
意外なことに……
ドアの向こう側から聞こえてきたのは聞き覚えのある声だった。
「綾藤……さん?」
なぜここに彼がいるのだろう。
たしかに恋文を書くにあたって彼にいくつか質問してみたい心境ではあったけれど。
そんなことはさておいて。
この場所を誰かに教えたことはない。親友の姫ちゃんにさえ知らせていない。
考えられるのは、沢野さんから聞いた可能性だけど……彼がそんなことをするだろうか。
沢野さんはクラスでもいつも隅っこの方にいて人との関わり合いを避けようとしているし、彼自身が目立つのを好んでいるようには思えなかったからだ。
それだけに自分と同居しているだなんて話を、自慢げに吹聴して回るような性格には思えないのだけれど。
「あ……ああっ、その声は春咲さんですね。よ、よかった。中にいるんですね」
「綾藤さん。どうしてここにいるんですか?」
わたしは玄関に近寄りながらも、決してドアを開けるような真似はしなかった。
綾藤さんはとても気弱で、変なことをするような人柄には見えないけれど、彼がなぜこの場所を知っているのか分からない以上、ドアを開ける理由にはならない。
「そ、そんなことよりっ……大変なんです! さ、沢野くんが交通事故にあって、大怪我をしてしまって!」
「沢野さんが……!?」
ほとんど悲鳴のような声が漏れる。
綾藤からもたらされた情報は、そのくらい衝撃的だったからだ。
おそらく彼がここにたどり着いたのも、怪我をしてやむにやまれぬ状態になった沢野さんから聞いたものだろう。
「沢野さんは大丈夫なんですか!?」
「と、とにかく外に出てきてくれませんか? か、彼のいる病院に案内しますので!」
「はい、わかりました!」
頭の中が真っ白になる。
逸る気持ちを抑え、ドアの鍵を開けて、外に一歩踏み出したときだった。
ばんっ! と大きな音を立てて綾藤がドアを押さえた。
「綾藤……さん? 何をしているんですか?」
気のせいだろうか。
わたしがドアを閉められないよう、綾藤さんが手で固定しているように見えるのは。
しかもわたしが逃げられないよう、退路を塞ぐように立ちはだかっているような。
「ね、ねえ、聖女さま。ぼ、僕の依頼……覚えてる?」
「え……?」
そこでようやくわたしは気づいた。
彼から発せられる雰囲気が、異様なものであることに。
「は、はは……っ、そうか。僕のことなんてどうでもいいよね。き、記憶に残ってなくて当然だよね」
「勿論覚えています。岸園さんへの恋を叶えて欲しいのですよね? わたし、そのためにあなたのラブレターを考えていたのです」
「――それは違うよ」
それまでおどおどしていた綾藤さんの口調が、いきなり力強くて芯のある響きに変わった。
わたしは彼の豹変に驚きながらも、問い返す。
「え? 何が違うのですか?」
「僕はね、岸園なんて女に興味なんてない。本当の、僕の想い人はね――」
――君だ。
粘っこくて、ぎらぎらとした眼差しを向けられる。
全身が総毛立った。あまりの気迫に、わたしは後退っていた。
取り返しのつかない事態になったと気づいたときには、ドアの閉まる音がした。
綾藤さんが鍵を閉めたのだ。
「綾藤さん! これは何の真似ですか!」
ちょっと強めに声を上げても。
綾藤さんは聞く耳を持とうともしない。それどころか両手を上げて、血走った目で、酔いしれたような顔で叫び始める。
「ああ……ああっ……ああっ! どれだけこの日を待ち望んだことか! き、君もそうだよね、聖女さま! ぼ、僕のことが、恋しかったよね? 寂しくて寂しくて仕方なかったよね?」
「ふざけないでください。怒りますよ!」
「ふざけてないよ。僕はいたって真面目さ」
綾藤さんがじりじりと近づいてくる。
さっきまでの狂態が嘘みたいに、その瞳にはいくらか理知的な光が戻っていた。
「むかし僕は君に告白したことがある。覚えているかい?」
「……ごめんなさい。よく、覚えていません」
「だろうね。君はほぼ毎日大勢から告白を受けている。全員の顔を覚えているだなんて到底無理だ」
わたしはすぐに距離を取る。
でも綾藤さんは開いた距離を詰めてくる。
「まあ結果は惨敗だった。最初は僕が不細工だからと諦めた。けれど君はどんなイケメンに告白されてもなびくどころか、必ず断っていた。そこに気づけたのは嬉しかったなぁ。けど同時に、なんでだろうと疑問に思っていたよ。顔の美醜が理由でなければ、一体何が原因だろうと」
背中に壁が当たった。
いつの間にか壁際まで追い詰められていたようだ。
綾藤さんの手が迫る。
もう……逃げられない。
「でも真相は……この通りだ。まさかこんなふうに、男の家に上がり込んでいたとはね。そんな単純な事実にさえ僕は気づけなかった」
「沢野さんとは……そういう関係じゃありません」
「うん。大丈夫、僕は全部知ってるよ」
まさか家出したとき、沢野さんに助けてもらった経緯を知っているのだろうか。
わたしはそう思ったけれど。
綾藤さんから出てきた言葉は予想外のものだった。
「あの沢野という男に騙されていたんだろう?」
「え?」
「無理やり迫られて、洗脳されて……それでここから出るに出られなくなった。そうなんだろう?」
洗脳……?
この人は何を言っているんだろう?
「怖かったよね? 辛かったよね? でももう大丈夫。僕がついている。この狭い牢獄から助け出してあげる」
「あ、あなた……さっきから何を言ってるの?」
「そうだ! 僕の家においでよ!」
綾藤さんはまくしたてるような声で言った。
「お父さんとお母さんは驚くだろうし、ふたりの仲を認めてくれるか分からないけれど、ちゃんと説明すればわかってくれるさ。上手く行けば僕らの門出を祝ってくれるかもしれない」
どうしよう。
さっきから言っている意味が分からない。
こっちが何を言っても、この人は聞く耳を持ってくれない。
「もし両親が受け入れてくれなくても平気さ。そのときはふたりで働きながら暮らしていこう。大丈夫、僕は君を見捨てないよ。だって僕だけが、君をわかってあげられるのだから」
手を握られる。
ぞっと鳥肌が立った。
反射的に、払いのけていた。
綾藤さんは信じられないものを見たような顔で、わたしをまじまじと見つめてきた。
「痛いじゃないか。これは何のつもりだい?」
「……嫌、です」
喉の奥からやっとのことで絞り出した声に、綾藤さんは理解できないとでもいうふうに首をかしげている。
「ん、なんだって?」
「あなたみたいな人は――死んでもお断りだと、言ったんです!」
うっ、と綾藤さんは傷ついたように後退る。
怒りに満ちた、低い呼気が漏れる。
「……君も、他の女と同じことを言うのか」
「そうやって君もっ……僕を否定するのか! 君は聖女のように清らかで! 誰にも分け隔てなく優しかったのに!」
頭をかきむしりはじめる。
毛根ごと皮膚が抜け落ちて、おそらく血が出ているだろうに。
ごりごりと不快な音を立てて。
それでもかきむしる手を止めようとしない。
「だから君はっ、君だけはっ! 君だけは違うと思っていたのに! 特別だと思っていたのに!」
綾藤さんの目が離れた一瞬の隙を突いて、玄関に走り出そうとしたけれど。
彼はわたしの肩をつかみ、その場に押し倒してきた。
馬乗りになってわたしの首を絞めつけてくる。
「まさかまさかまさかまさかっ! 他の女みたいに僕を僕を僕をっ! 裏切るだなんて! このビッチが! 謝れ! 謝れ謝れ謝れ謝れぇっ!」
苦しい。
呼吸が出来ない。
胸が破裂してしまいそうだ。
――このままだと、殺される。
そう思ったけれど。
意外なことに。
綾藤さんはわたしの首を絞める手を、緩めた。
そのままわたしの上で、ぼろぼろと泣き始めた。
「ごめん……ごめんよ。君を傷つけるつもりはなかった」
綾藤さんは嗚咽を上げる。
声をつまらせてむせび泣いていたかと思うと、急に優しい声になった。
「ごめん、ごめんよぉ……怖かったよね? 痛かったよね?」
わたしは彼の急変に戸惑った。
さっきまでの激昂が嘘のように。
またしても人が変わったように表情まで穏やかになっている。
「君はまだ、あの沢野という男に騙されてるんだね。まったく、酷い男だ。危うく僕も罠にはめられるところだったよ」
「…………ぇ?」
どうしよう。
まるで話が通じない。
急に怒りだしたかと思えば、急に泣いたり笑ったりする。
ありもしない事実を語ったり、自分に不都合な出来事があれば、それを都合よく捻じ曲げて解釈したりする。
感情の波がおそろしく不安定な人間だ。
次に何をしでかすかわからない恐ろしさがある。
「大丈夫、僕たちは恋人同士だ」
綾藤さんの手が、わたしのシャツへと伸ばされた。
そのまま脱がそうとしてくる。
ぞっと鳥肌が立って、わたしは叫んでいた。
「やめてください!」
必死に振りほどこうとするけれど。
綾藤さんの腕はものすごい力で、振りほどけそうにもない。
「今はすれ違っていても、お互い時間をかければきっと分かり合える。話し合えればなんだって乗り越えられる。愛があればどんな障害にも打ち勝てるんだ」
綾藤さんは優しい笑顔を浮かべてくる。
気持ち悪い、気持ち悪い……!
「だから力を抜いて。僕と一緒に、深いところまで繋がろう」
目から涙が溢れてくる。
ああ、わたしは馬鹿だ。
泣いたってどうにもならないのに。
ドアを開けるなと言われたのに、こんな人に騙されてしまうだなんて。
彼にもそう言われたはずなのに。
頭の中に、彼の姿が思い浮かび――
「――助けてください! 沢野さん!」
その名を叫んだ、そのとき。
「……冬葵さん!」
勢いよくドアが開かれた。
沢野陽が、そこには立っていた。
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