黒き異形
どんなに急いでも、どんなに速く走っても。
俺の意思に合わせて電車は速く着いたりしない。
なんでこんなに遅いんだ。
途中の駅にいちいち止まるのがもどかしい。
このときほど俺の家めがけて一直線に走って欲しいと思ったことはない。
最寄り駅の扉が開いた途端、俺は走り出した。
走って10分ほどで、息が荒くなる。
運動不足の肉体を呪いながら、歯を食いしばりながらも、倒れこみそうになる身体を前に動かす。
家に着くと、急いで鍵を回し、ドアを開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、何者かに荒らされたかのように散らかる室内。
漫画や雑誌があちらこちらに散らばっていた。
部屋を区切るためのカーテンが中途半端に開け放たれている。
そして、部屋の隅っこに。
怯えた様子で、縮こまる冬葵――
「大丈夫か!?」
靴を脱ぐことも忘れ、慌てて駆け寄った。
冬葵は俺に気づくと、安心したように吐息を漏らしながら、抱き着いてきた。
そこにいることを確認するように、暖かで触れあえるものをしっかりとつかまえるように抱きしめた。
相当怖い目にあったのだろう。
瞳が、涙で濡れている。
彼女の髪も、衣服も、どこにも乱れた様子はない。
その事実に安堵しながら、冬葵から離れて、荒れた部屋を見渡す。
この部屋からまだ脅威が去ったとは限らない。
ストーカー野郎を探すが、姿形も見当たらない。
一体、どこに隠れている?
こんな狭い部屋のどこに隠れているのか?
「どこに行った? 君を襲ったやつはどこにいる?」
「あ、あそこ……です」
そう言って。
冬葵が指さした先にあるものは――
「冷蔵庫……?」
きょとんとなる。
まさかこの中に隠れているのか。
ここを開けたらホラー映画みたいに暴漢が飛び出してくるのか。
とりあえず冬葵の示した方角に、近寄ってみる。
冷蔵庫の下から、真っ黒な異形が、目にもとまらぬ勢いで飛び出した。
「うおおぉぉっ!?」
思わず、後退った。
情けない大声を上げてしまったのも無理はないだろう。
猛烈な速さで飛び出したそいつは――
「ゴ、ゴキブリぃ!?」
冬葵はストーカーじゃなくてこいつにびびっていたのか。
ほっと安心する。
いや、安心したけど……まだ安心できないというか。
こいつを野放しにしていたら襲撃に怯えて眠れない夜が続く。
家の中で増え続ける恐怖に、震え続けなければならない。
近くに落ちていた雑誌を丸めて即席の武器を作る。
抜き足差し足でゴキブリに忍び寄ろうとしたとき、
「だ、だめ……です」
「え?」
なぜか冬葵に、後ろから服の裾を掴まれた。
「その子を……殺さないでください」
その子とは。
もしかしなくとも、ゴキブリのことだろうか。
「その子に……悪気はありません。わたしが洗濯物を取り込むためにベランダを開けっ放しにしていたら……迷い込んでしまっただけなんです」
か細い声で、息を詰まらせながらも続ける。
「その……最初はティッシュで掴んで、逃がそうと思って……」
「で、でもなぁ。君はこいつに怖がっていたんだろう?」
「それでも、お願いです。どうか殺さないでください……わたしも、頑張ってお手伝いするので」
涙で瞳を潤ませながら、懇願するように見上げてくる。
はっ、と俺は息を呑んだ。
こんな誰からも嫌われるような害虫のことを気遣うだなんて。
俺は奴らを見かけたら、すぐに叩き潰そうと身体が動き出す。
思考が冷徹な殺人マシーンへと早変わりしてしまう。
だというのに。
君はこんな虫けらにすら救いの手を差し伸べようとするだなんて。
いくらなんでも優しすぎる。
そう思うと、胸の奥から、温かな感情が湧き上がってきた。
今の気持ちを、俺はうまく言葉に出来る自信がない。
だけど……それでも、一つだけ確かなことがある。
信じられないくらい尊いものを目の当たりにしたとき、人は言葉を無くすんだなって思った。
「……いや、そこでじっとしててくれ。俺がやるから」
俺は彼女へと振り返ることもなく、頷いた。
ずるい。
冬葵は本当にずるい。
だって、それがどんなに面倒なことでも。
……そんな切なそうな目でお願いされたら、無視できるわけないじゃないか。
冬葵は、本当に俺と同じ生き物なのだろうか。
こんなに可愛い生き物が、俺と同じ生き物であるはずがない。
◆
窓を全開にして、なんとかそこに誘導するようにゴキブリを追い立てるのを繰り返して。
……やっとのことで、外へと追い出すことに成功する。
「わがままを言ってしまって、ごめんなさい」
「いやいや、気にしないで」
むしろ大事じゃなくてよかった。
もし冬葵が暴漢に襲われたとかだったら、さすがに立ち直れなかったと思うから。
そんなことを考えるだけでも……身の毛がよだつ。
だからゴキブリ撃退くらいで済んで良かった。
心からそう思う。
「それとお部屋を……散らかしてしまってごめんなさい」
「ははっ、それも気にしないで。部屋の中に奴が出たら、俺も散らかしちゃうと思うから」
大丈夫だから、一緒に片づけよう、という感じで笑いかけてあげる。
冬葵を安心させてあげるように、出来るだけ穏やかな声を意識しながら。
「……ありがとうございます。沢野さんにはいつも助けられてばかりですね」
冬葵は赤く腫れたまなじりを拭いながら、そっと笑みをこぼした。
この笑顔を……もう二度と曇らせたくはない。
だからこんなことを聞くのは、すごく気が引けるのだけれど――
「片づけをする前に、春咲さんに聞きたいことがあるんだけど……」
「はい、なんでしょうか?」
「最近、背中に妙な視線を感じるとかってことない……?」
「視線、ですか?」
冬葵は小首を傾げた。
ちょっと考え込むような間を置いてから、
「いえ、特には。むしろ見られることには慣れておりますので」
「そうなの?」
「はい。よく分かりませんが、無害ですので放置しております」
なんてことないように、冬葵は言ってのけた。
たしかに彼女は人目を惹くような美少女だ。
ただそこに在るだけで、通行人たちが一斉に振り返ってしまう。
それはつまり、見られることに慣れきっているわけであって。
……俺とは真反対の存在であることを嫌でも意識させられてしまう。
「俺も……綾藤のことを言えないな」
「どうしたんですか?」
「いや……人から見られることを当たり前とした人生って、なんかすごいなって思って」
「そうでしょうか?」
「うん、すごいよ」
でもそれは。
邪まな考えを抱く者の目線に気づけないということでもあって。
……一歩間違えれば、取り返しのつかない危険にさらされることもある。
たとえば……数日前に俺の後をつけてきた、謎の追跡者。
その存在に気づかないでいるのは非常に危うい。
以前はただの気のせいだと思ったから何も言わなかったのだけれど……さっきの脅迫状の件といい、俺たちに見えない何かが、脅威が迫っていると考えてもいい。
本音を言うなら……これ以上、冬葵に心配をかけたくない。
でも伝えなければ、彼女は目に見えない脅威に備えることもできないのだ。
俺は躊躇いながらも、意を決して、口を開いた。
「春咲さん。話があるんだけど」
「失礼ですが……その前に、わたしからも質問いいですか?」
珍しいことに、冬葵が割り込んできた。
これ以上は我慢がならないと言わんばかりに。
「何だ?」
「……なぜわたしのことを、春咲呼びなのでしょうか?」
「そりゃあ……まずいだろ。その、教室のやつらに疑われるかもしれないし」
俺なりの説得力を込めた理由を伝えたつもりだったけれど。
冬葵は納得が言っていないといわんばかりに、ぷくっと頬を膨らませている。
「姫ちゃんの事は、秋葉って名前で呼んでいるのに?」
「それは……あいつに言われて仕方なくというか。そうでもしないとあいつ、セクハラやめてくれなかっただろうし」
「ふぅん。……本当に、やめてほしかったんですか?」
「そりゃあ、やめてほしかったに決まってるだろ」
「あんなに顔がデレデレしていたのに?」
「いや……その、あれは俺も健全な男子高校生だから仕方ないというか」
「……」
俺の返答が気に食わなかったのか、冬葵は拗ねてそっぽを向いてしまった。
なんか知らないが……やけに突っかかってくるな。
かと思うと、冬葵はため息をついた。
「申し訳ありません。こんなこと、言うつもりなかったのに……わたしとしたことが、つい言い過ぎてしまいました」
自分の行動が不可解だとでもいうふうに、ぶんぶんと首を振っている。
「いや、いいんだ。俺も悪かったからさ」
冬葵が言いたかったことは……おそらく付き合ってもいない男女が身体を触れ合わせるのは不健全に映ったのだろう。
そこは俺も同意見だ。
昼休みの一件に関しては、姫川ひとりの責任ではない。はっきりと姫川を怒れなかった俺にも原因はある。
次から気をつけよう。
さて。
だいぶ話が逸れてしまったが……本題に戻るとしよう。
「で、話したかったことなんだけどさ」
「はい」
「今さ、綾藤の依頼で忙しいけどさ。調査の方は俺たちが頑張るよ」
「はい」
「その……なんだ。世の中さ、色々と物騒なこととかあるじゃん」
「わかります。さっきのゴキブリさんみたいなことですね」
「そうだけど、そうじゃないというか」
なにそれかわいい。
「まあ、とにかく。気にせず真っすぐ帰ってラブレターに集中してくれたら嬉しいかな。この中で文才あるの、春咲さんだけだしさ」
「わかりました。急いで帰って書きあげますね」
「俺が留守の間に誰か訪ねてきても、知らない人を上げたらダメだぞ」
「言われなくてもそのくらい分かってます。沢野さんは心配性ですね」
冬葵はくすくすと笑い声をあげる。
……結局、彼女にストーカーのことを打ち明けられなかった。
本当のことを話しても、冬葵を余計に怖がらせてしまうと思うと、何も言えなかった。
でも、これで冬葵を早く帰す口実を自然に作れた気がする。
ひとまず彼女に危険が及ぶ可能性は限りなく減った。
「沢野さん。あの、お願いがあります」
「どうしたの?」
「もしわたしに危ないことがあったら……また助けてくれますか?」
ふわり、と冬葵は儚い笑み浮かべた。
彼女の表情に、きゅっと胸を締めつけられた。
冬葵がこのままどこか遠くに行ってしまうんじゃないか。
俺の手が届かない場所へ、消えて無くなってしまうのではないか。
そんな予感にも似た恐れが、膨らんできた。
だから俺は――
「うん、勿論。必ず助けるよ」
力強く頷いた。
手にしたものを手放さないという思いを込めて。
この子を守ろう。
そんな感情が、自然と湧いた。
何があっても、俺がこの子を守るのだ。
強く、そう思った。
「ありがとうございます」
微笑む冬葵と目を合わせるのがなんだか気恥ずかしくって。
俺はつい目を逸らしていた。
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