聖女のフレンチトースト

 翌朝。

 ふわっと、甘い香りが俺の鼻をくすぐった。


 まぶたを擦りながらソファーから身を起こすと、台所にエプロン姿の冬葵が立っていた。

 しかもいつの間に着替えたのか、すごいラフな格好の私服姿だ。

 一つに結い束ねた長髪を揺らし、軽快な手つきでフライパンを小刻みに揺らしているではないか。

 朝起きたらあの学園の聖女が、誰もが羨む美少女が、俺の家で朝ご飯を作っている。


 うん、きっとこれは夢だ。

 これは寂しい一人暮らしが生み出した、妄想の産物に違いない。

 こんな幻覚を創り上げてしまうほど俺は精神がまいっているのか。


 寝よう。もうひと眠りしよう。

 ソファーに倒れこみ、再び惰眠を貪りこもうとしたとき、


「あ、おはようございます沢野さん。朝から騒がしくしてすいません」


 顔だけを振り返らせて、冬葵が言った。

 俺に語りかけながらも、調理の腕を止めることはない。

 鈴を転がしたような、美しく、澄んだ声。

 目の前の出来事が、現実であることを否応なく突きつけられる。


「あ、ああ……おはよう」


 低血圧で上手く動かない脳みそでは、そう返すので精いっぱいだった。


「あの、何してるの?」


 聞くまでもなく分かり切った質問に、冬葵は嫌な顔をするどころか申し訳なさそうな顔で、


「泊めていただいたお礼にご飯を、と思いまして。勝手に冷蔵庫を漁ってしまって申し訳ありません」

「そんな、いいよ。というか朝ご飯なんてむしろこっちが申し訳ないというか。俺も手伝うよ」

「いいえ、座っていてください。このくらいなんてことないですから」

「そ、そう……」


 呆気に取られる俺の前で、冬葵がてきぱきとテーブルの上に食器と料理を並べていく。

 彼女の髪の毛が揺れ動くたびに、シャンプーのいい匂いがそっと鼻を撫でつける。

 いつの間に風呂に入ったのだろう。


 雑念を振り払うように、食卓の上の料理を見やる。

 食器の上には、ふんわりと黄金色に膨れ上がったフレンチトーストと、その隣には綺麗に切り揃えられたパンの耳が並んでいる。


「たいしたものではないですが、冷めないうちに召し上がってください」

「い、いただきます」


 フレンチトーストにフォークを突き刺し、おそるおそる自分の口元へと運んでいく。

 甘い。

 口の中に甘味が染み込み、広がっていく。

 ふっくらとした食感が口の中で溶け崩れていく感触が、とても心地いい。


「うまいっ!?」

「ありがとうございます」


 冬葵は表情を変えることなく頷いた。

 けれどわずかに嬉しそうに頬が緩んだのを見逃さなかった。


「どうやってこんな美味いもん作ったんだ!?」

「あなたの冷蔵庫からです」

 

 俺は料理が得意じゃないし、コンビニ飯で済ましている人間だ。

 たまに台所に立つことはあってもパスタをお湯で茹でたり、ベーコンエッグやウィンナーをフライパンで焼くくらいの簡単なものばかり。

 うちの冷蔵庫に大したものは入ってなかったはずだが。

 一体どんな魔法を使ったというのだろう。


「一体、何を使ったんだ?」

「バターと牛乳と卵と、砂糖ですね」

「ほぉー……なるほど」


 その発想はなかった。

 俺の中で食パンといえばオーブントースターで焦げ目をつけるまで焼いてから、その上にバターを塗る……くらいのものしか思いつかなかったが、工夫ひとつでこんなに風味が変わるものなのか。


 お次に綺麗にカットされたパンの耳に、フォークを突き刺す。

 さくっと硬い感触に驚きながらも口にしてみると、優しい甘みが溶け広がっていく。

 これはハチミツだろうか。

 カットしたパンの耳を表面をハチミツで包み、その上から砂糖をまぶし、フライパンで加熱したのだろう。

 これは俺の知ってるパンの耳と違う。

 俺にとってのパンの耳といえば、味もしないのであまり食べる気がしないつまらない部位と思っていたのだが、こんな使い道があったのか。

 しかも噛めば噛むほどクセになる甘味が溢れ、口の中に染み出してくる。

 気づけば、あっという間に冬葵の手料理を平らげてしまった。


「おかわり! もっと! もっとだ!」

「いえ、いま食べたので最後です。まさかこんなに食べるとは思わなかったもので……」

「そうか」


 がっくりと肩を落とす。

 もっとあのフレンチトーストとパンの耳をじっくりと味わっていたかったが、ないものは仕方がない。


「やっぱり男の子ってことを考慮して、量を増やしておくべきでしたね」

「ああ、いや。いいんだ。気を遣わせてしまって申し訳ない」


 冬葵は腕組みをして、考え込んでいる。

 どうやら彼女なりにいろいろと考えて作ってくれていたらしい。

 その気遣いはありがたくもあり、申し訳なさもある。


「しかし……あなたはほんと美味しそうに食べますね」

「いや、マジで美味かったからさ。こんなに美味しいもの、生まれて初めてだ」


 お世辞とかではなく、本当に美味しかった。

 こんなことを言うのは失礼かもしれないが……母親の手料理なんか目じゃないくらい美味しかった。


「そうですか。そう言っていただけると嬉しいです」


 俺の言葉が嬉しかったのか、冬葵はにっこりと微笑んだ。

 その微笑みの破壊力たるや、俺の思考能力を停止させるほどかわいいものだった。


 以前、学校の廊下ですれ違ったとき、何の接点もない俺に微笑みかけてくれたときを思い起こさせるような笑み。

 あのときと異なる点があるとすれば……愛想から出た笑いではなく、心から笑ってくれたような気がした。


「沢野さん? どうしたんですか、ぼーっとして」

「いや、何でもない」


 冬葵から慌てて目を逸らした。

 まさか彼女の笑顔に見惚れていたなんて言えるはずもない。


 冬葵は不思議そうに整った眉根を寄せていたけれど。

 ふうと息をついてから立ち上がる。


「では、食器片づけてきますね」

「あ……いや、そこまでやってもらうのはさすがに悪いから俺がやっておくよ」

「いいんですよ。一晩、泊めてもらいましたからね。このくらいお安い御用です」


 言われて時計を見てみれば、時計の針は朝の7時を指し示していた。

 俺の家から学校まで約一時間ほどかかる。

 たしかに冬葵の言う通りそろそろ準備をしないとまずい頃合いだ。


 冬葵は食器を持って、キッチンで洗い始めた。

 俺は彼女の華奢な後ろ姿を眺めながら、これまでの冬葵さんを思い返す。

 掃除に料理に皿洗いをそつなくこなし、世話を焼いてくれるその姿は、


(なんていうか……まるで母親みたいだな)


 これでは聖女というより聖母だ。

 そう考えると胸に来るものがある。


「何ジロジロ見てるんですか?」


 じっとりとした目を向けられる。

 彼女の察しの良さに恐ろしい思いを気抱きながら、


「いや、別に」

「まったく……そんなことよりも、早く準備しないと学校遅れちゃいますよ」


 ここ最近、実家を飛び出してから一人暮らしをするようになったけれど、学校とバイトを終えてくたくたになって家に帰りついた後に、家事をする気力は残されてない。

 今まで家のことをやってくれる誰かがいるのは、とてもありがたいことだ。


「それと今日の事ですが、学校の皆さんには内緒でお願いします」

「ああ、分かってるよ。こんなこと知られたら面倒だもんな」


 あの学園の聖女とふたりきりだったなんて、ことが学校のやつらに知られようものなら恐ろしいことになる。


 冬葵とお近づきになりたいと願う相手は星の数ほどいる。

 だから、やっぱりこういうのは羨ましがられるんだろうか?

 校舎裏に呼び出されてボコボコにぶん殴られるだろうか。


 いや、そんな生易しいもので済めばいい。

 きっと、殺される。

 八つ裂きにされて、血祭りにあげられる。


 教室で俺みたいな輩が冬葵と親しげに話そうものなら、変に探りを入れられて面倒極まりない。


「はい。そんなわけで申し訳ないですが……よろしくお願いします」


 冬葵さんは皿を洗う手を止めることなく、振り返ることのないまま言った。


 こんなことがあっても俺と冬葵の、学校での立ち位置は変わらない。

 少し寂しい気はするが、彼女に迷惑はかけられない。

 俺と付き合っているなんて根も葉もない噂が立ってしまったら嫌だろうし。

 それを肝に銘じながら、俺がシャツを脱いだとき、


「きゃっ……何やってるんですか!」


 冬葵さんはぎゅっと目を閉じてまつげを震わせながら、ばたばたと手を振っている。


「いや、着替えてるんだが」

「こ、こんなところで着替えないでください!!」

「? 別にパンツ見せてるわけじゃないんだからいいだろ?」

「そういう問題じゃありません! ダメなものはダメなんです!」


 そう言って冬葵さんは耳たぶまで顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまった。

 別に俺の上半身くらい見せても減るもんじゃないが、向こうにとってはそうじゃなかったのだろう。


 こんな貧相な身体を見せてしまって申し訳ないなと思う反面。

 冬葵さんの恥じらう姿は、なんか可愛らしいな、と思ってしまった。

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