第17話
網を入れ、食い入るように海をのぞき込み、小さな影も見落とすまいと遠くの海面まで目を光らせる――舟に乗った漁師達は、それぞれに与えられた役割を果たしていた。平蔵から計画の詳細を明かされていないので、人魚を探すふりをするしかない。同じ舟に道之進がいるので、そのふりも、ほとんど演技ではなかったが。
「おい、あれ……」
誰かが声を上げた。舟の中程にいた男が、遠くを指さしている。全員の視線が、その示す先に向いた。
ほとんど白波のない、緩やかに不規則にたわむ水面に、ぽつりと黒いものが浮かんでいた。真っ黒で、わかめが張り付いているようにも見えるが、それは長い髪の毛だった。
「――人魚だ」
誰ともなく呟く声に、道之進がいちばんに身を乗り出した。
「若様。あまり身を乗り出されては」
「あれはまことに人魚か? 海女ではないのか?」
道之進の視線は、しかし海に浮かぶそれに向けられたままだ。
澪だ。顔はこちらに向いていないが、向いていたとしても遠くてはっきりとは見えないだろうが、間違いない。
頭だけを海上に出した澪が、こちらをふり返す。そして、人間がいたのに今初めて気付いたような驚いた素振りを見せ、海の中へ頭を沈めた。深いところへ潜っていくのだろう。水しぶきを上げて尾鰭が海面を叩くのを、誰もが目撃した。
「人魚だ!」
道之進は歓喜と興奮の露わな声を上げ、立ち上がった。
「見たであろう、皆の者。早く網を投げ入れよ!」
「若様。お座りください。むやみに立ち上がってはあぶのうございます」
平蔵がたしなめるが、道之進の耳には入っていなかった。彼は網元に、澪が現れたあたりに舟を動かすように命令し、もう一艘の舟にも同じことを命じる。
耕太は櫂をしっかりと握り、漕いだ。ここからがいよいよ正念場だ。なのに、耕太にできることはほとんどない。歯がゆい思いをかみしめながら、危険きわまりない役を自ら提案して引き受けた波弥斗の無事を祈るしかできない。
網元の合図で漕ぐのをやめる。海面をのぞくが、魚の影さえ見えなかった。
――本当に、うまく鱶をおびき寄せられるのだろうか。この付近に時折現れるのを、耕太達はもちろん、人魚達も承知していた。
鱶が来ると、魚が逃げてしまう。漁網を食い破られることもある。海女漁をしている時に現れたら、急いで引き上げなければ大惨事になってしまう。
これから何が起きるか、耕太と平蔵以外は誰も知らない。皆、道之心の望み通りに、網を入れる作業をしていた。
道之進は、縁を掴んで海をのぞき込んでいる。
「若様。あまり身を乗り出しては――」
平蔵が注意をしたその時、船底に何かがぶつかるような音と震動がして、舟が大きく揺れた。
「なんだ!?」
驚く声を上げる間に、もう一度、二度と舟が大きく揺れる。
「舟の下に何かがいるぞ!」
近くに浮かぶもう一艘から、叫ぶ声が届いた。
水面はべた凪で、波のせいではない。こういう揺れ方に、耕太は覚えがあった。
人魚が体当たりしているのだ。
「下? 人魚か!?」
「若、いけません!」
舟の下を見よう更に身を乗り出す道之進に、従者が悲鳴のような声を上げる。
もう一度、舟が大きく揺れた。道之進が体勢を崩して頭から海へ落ちる。平蔵が手を伸ばしたが、間に合わなかった。
大きな水しぶきがあがり、一呼吸置いて、道之進が顔を出す。
「若、はよう舟へ! おい、手を貸して差し上げろ!」
「舟を寄せよ」
「馬鹿。近付きすぎては若を挟んでしまう」
手の届かないところにいる従者達の慌てふためく声が聞こえる。しかし当の道之進は、驚いた顔はしていたものの、笑っていた。
「若様。お手を」
平蔵が手を差し出すが、道之進は立ち泳ぎをしたまま、視線は海中に向いていた。
「おい、何か大きな影が見えたぞ。人魚かもしれぬ」
「若様。舟の上からご覧ください。このあたりは鱶も――」
「鱶だ……!」
耕太はわずかに立ち上がった。水面近くに、大きな影が二つ、縦に並んでいる。
「人魚もいるぞ」
影に気付いた他の漁師も声を上げる。
手前を泳ぐのは人魚――波弥斗だ。その後ろをついてくるのは――実際は追いかけているのだが――鱶だった。大きさからすると、イ達ザメだろうか。人間と同じかそれより小さい鱶だ。大きくはないが、腹が減っている時は人間を襲うこともある。
「若様、はよう舟へ!」
鱶と聞いて、さすがの道之進も顔色を変えた。慌てて舟に取り付き、平蔵の手を掴む。
「……耕太、手伝ってくれ!」
道之進の方が力が強く、気が急いているせいもあって、平蔵も舟から落ち掛ける。耕太は慌てて彼の背中を掴んだ。近くの漁師も加勢に来るが、舳先に三人も集まると狭い。
「他の者も手を貸さぬか!」
従者が声を荒らげるが、これ以上舳先に人が集まると舟の重心が偏って転覆しかねない。
道之進は、耕太達と違って立派な身なりをしているため、何重にもなった衣が水を吸ってとにかく重かった。引き上げようと皆でもがく間にも、波弥斗と鱶が近付いてくる。
「銛を打て!」
「待て、若様に当たるかもしれない!」
命じる網元に耕太は慌てて反論した。道之進ではなく波弥斗に当たる可能性の方が高い。
波弥斗と鱶はすぐそこまで来ていた。道之進はようやく体半分を海から引き上げられたところで、足はまだ海に浸かっている。
その真下を、波弥斗が通り過ぎていった。すぐ後を、鱶が通る。悲鳴を上げたのは、道之進だったか従者だったかその両方だったか。とにかく、騒然としていて耕太にはよく分からなかった。
ひとまず大丈夫かと皆が胸をなで下ろしたのも束の間だった。
「戻ってくるぞ!」
波弥斗が大きく弧を描き、こちらへ戻ってくる。鱶は波弥斗を執拗に追いかけていた。
「はよう、はようせい!」
道之進のつま先が水面を蹴ってしぶきがあがる。三人がかりでようやく道之進を引き上げた直後、波弥斗が舟のそばをまた通り過ぎていった。
「若、ご無事でございますか!?」
従者が身を乗り出して声を上げる。道之進はそちらをちらりと見ただけで、返事をする余裕はないようだった。
肩で息をする道之進は、顔を伝う海水を拭うことすらなかった。もう一艘が近付いてきて、舟を横付けする。その時になって、ようやく口を開いた。
「……人魚と鱶は?」
「去ったようでございます」
平蔵が周囲を見回す。
鱶を引き連れた波弥斗は、舟の近くを二度通って、そのまま消えていった。
「そうか……」
「若様。今日のところは戻りましょう。よろしいですな?」
道之進は無言で頷いた。すっかり憔悴しているようだった。
浜に戻った道之進は、平蔵の館で湯に浸かり衣を改めても、口数が少なかった。
帰る、と彼が言ったのは、その日の夜のことだった。
●
波弥斗の活躍で、源藤様の若様が乗った舟が陸へ戻るのを確認した後、澪は長の元へ向かった。波弥斗も、銛を持って万が一に備えていた人魚達も、まだ戻ってきていない。
長と二人の古老と、ほとんど会話もなく帰りを待っていた。
「――みんな揃って、辛気くさい顔をしてるな」
仲間を引き連れて戻ってきた波弥斗は、おどけた口調でそう言った。左手の甲のは一筋の傷があり、血がにじみ出ている。だが、それ以外に目立った怪我はない。手の甲の傷は、鱶をおびき寄せるため、自らつけたものだ。
「鱶はどうした?」
「みんなでやっつけたよ。ちょっと手こずったが、まあ、これがあったからな」
と、手に持った銛を見る。
「波弥斗、よくやった。澪も、お前達も」
「人間は陸に戻った。でも、諦めたかはまだ分からないな。十分に脅せたとは思うが」
「平蔵達からの知らせを待つしかあるまい」
波弥斗達の無事が分かって安心したのも束の間で、長が表情を引き締める。
「澪、頼んだぞ」
「はい」
若様が人魚狩りを諦めたか、まだ続けるか、耕太がいつもの場所で澪に伝えることになっていた。ただし、すぐには決定しないかもしれないからと、それは三日後になっている。
「波弥斗。お疲れさま」
「澪も。無事で良かったよ」
「うん。わたし、多江と佐々ばあ様に知らせに行くね」
「ああ、頼むよ」
佐々は、あれから一度も長の元へは来ていなかった。人間と協力すると決まったなら、自分にできることはないと言って。
ねぐらにやって来た澪を見て、多江が飛ぶように寄ってきた。
「澪ねえ様。無事だったのね、良かった」
「波弥斗も無事よ。みんなも」
澪が知る限りの一部始終を伝えると、多江の表情にようやく安堵の色が見える。だが、
「波弥斗にい様、怪我をしたのね」
心配の方が、まだ大きいようだ。
「鱶をおびき寄せるために仕方なく、ね。佐々さまなら、いい薬を持っているでしょう? 多江、それを波弥斗に届けてあげて。お願いね」
多江は意表を突かれた顔をして、それからすぐに神妙な面もちで頷いた。
それからの三日間、澪は息継ぎの時以外、ほとんどねぐらを離れなかった。澪だけでなく、他の人魚達も皆同じように過ごしているはずだ。波弥斗ですら、澪を訪ねてくることはなかった。
息継ぎで海面に近付く時は、やはり緊張した。舟のような陰を見つけると、不安で心臓が跳ね、それが見間違いだと気付くと、肩の力が抜けるのが分かった。
耕太に早く会いたい。顔が見たいし、もう大丈夫だという言葉を聞きたかった。
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