第20話
多江と佐々がねぐらのある場所まで戻ってきた時、波弥斗がやってきた。波弥斗がここへ来るのは、大抵澪を探している時だ。
「澪は来なかったか?」
「いいところへ来たね。宇潮とお前さんに話があるんだ。一緒に行こうじゃないか」
「話? どんな話だ。それに澪は?」
波弥斗が怪訝そうな顔をする。彼はやはり、澪のことしか頭にないのだ。多江が澪に代わって妻になると聞いたら、いったいどんな顔をするだろうか。腹を括ったつもりだが、波弥斗の顔を見るととたんに不安になった。
「お前さんは相変わらず澪の尻尾ばかり追いかけるね。最近ちいっとばかり大人になったと思ったら、もう元通りだ」
「澪は俺の妻になるんだ。姿がなければ、心配して探すのは当然だろう」
むっとした顔で佐々に言い返す。それを見て、多江はますます後込みしてしまった。気がつけば、佐々の後ろに隠れるようにして下がっていた。
「これからは探す必要はないよ」
「どういうことだ?」
「多江が、お前さんの妻になる。この子も『幸せを約束された娘』だからね。わたしが手塩にかけて育てたんだ。大事にしておくれよ」
思いがけない言葉に、波弥斗はきょとんとしていた。しかしやがて、その意味を理解したのか、まなじりがつり上がる。
「澪は、どこへ行った」
「澪はもうお前さんの許嫁じゃない。探す必要はないよ。それより、長のところへ行こうじゃないか。嫁になる娘がちょっと変わるだけだが、ちゃんと言っておかないとね」
「耕太のところだな!? 佐々、お前、澪に人間になる薬を渡したんだろう!」
「証拠もなしに、何を」
「俺の母親に薬を渡したのもお前だ。そんな薬を渡さなければ、澪も母さんも――!」
「……波弥斗にい様は、澪ねえ様じゃないと、だめなの? わたしではだめなの? わたしも澪ねえ様と同じ『幸せを約束された娘』なのに、だめなの……?」
佐々の後ろからではあったが、多江は意を決して口を開いた。
「……そういう問題じゃない。佐々がいつでも勝手なことをするから、俺が――」
今にも佐々につかみかかりそうだった波弥斗は、ぱっと身を翻した。
「波弥斗にい様」
呼び止めるが、彼は勢いよく尾鰭を振って行ってしまった。
「宇潮のところへ行こう。しばらくすれば、頭が冷えて戻ってくるだろう」
「うん……」
波弥斗はどこへ行ってしまったのだろう。彼のねぐらの方ではなかった。泳ぎ回って頭を冷やすのならばいいが、きっと澪を探しに行ったのだ。
すぐには無理だと思ってはいたが、波弥斗がやはり澪に執着しているのを見せつけられて、多江は肩を落とした。いつか澪を諦めて、多江を見てくれたらいいのだが、果たしてそういう日は来るだろうか。
●
澪はヒオウギガイを開いた。貝の中に身はなく、代わりに透明な粘膜で包まれた、魚卵のような黒い粒がぎっしり詰まっていた。
それを口の中に一気に流し込み、飲み下す。
ひどく苦くて舌がしびれ、喉が焼けたように熱くなる。思わず吐き出しそうになるのをこらえ、澪は口元を手で押さえた。
えづく彼女の背中を、耕太がさする。ごわごわとして固い掌は温かく、少しだけ慰められた。
尾鰭を引き裂かれるような激痛が走った。食いしばった歯の隙間から呻き声が漏れる。痛みは強くなったり弱くなったり、まるで波のようだ。
耕太の胸にすがり、澪は痛みに喘いだ。全身に脂汗が浮かぶ。耕太が励ましてくれているが、彼が何と言っているのか、痛みのあまりよく分からない。
体が裂かれるように痛いのは、きっと足に変わっているからだ。澪の体から、尾鰭と何が失われるのだろう――。
「澪!」
激しい水音と共に舟が揺れ、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
耕太の胸からゆっくり顔を持ち上げると、怒りを滲ませる波弥斗の顔が海面にあった。
ああ、もう波弥斗に見つかってしまった。でも、もう薬を飲んでしまった。尾鰭は足に変わりつつある。
「澪、戻ってこい。人間は、お前を一度裏切ったんだぞ!」
「そんなことは、俺が二度とさせない」
耕太が、見せつけるように澪の体をいっそうしっかりと抱きしめる。
痛みはこんな状況でもお構いなしに、澪の体を苛んでいた。澪はますます耕太にすがりついて、痛みと苦しみを紛らわせようとした。それが波弥斗の目にどんな風に映るか、考える余裕はなかった。
「澪!」
「波弥斗、海へ帰れ。澪は、これから俺と生きていく」
どこか勝ち誇った耕太の声に、水音が続く。波弥斗は素直に海へ帰ったのだろうか。しかし、彼が簡単に引き下がるとは思えない。
舟が大きく揺れた。転覆するのではないかという揺れに、澪と耕太の体が離れた。
「澪、どこかにしっかりと掴まっていろ!」
波弥斗だ。彼に違いない。
縁を掴み、投げ出されないよう踏ん張った。耕太は、彼は無事だろうか。
顔を上げた澪の目に飛び込んできたのは、海から大きく飛び上がった波弥斗の姿だった。水をまき散らし、飛び散った水が太陽の光を弾いて煌めく。驚く耕太を睨む波弥斗の手には、銛が握られていた。
鱶を倒したあの銛で、波弥斗が何をするつもりなのかは容易に想像できた。
澪は痛みも忘れて叫んだ。
「――!?」
痛みに喘いでいたはずの喉からは、わずかな音も出てこない。どうしてと思う前に、銛の先端が耕太の胸に食い込んでいた。
耕太の名前を叫ぶが、やはり声は出なかった。前のめりに倒れ込む彼の体を支えた。波弥斗が海に落ちて大きなしぶきがあがり、再び舟が揺れる。耕太の体を支えたままでは船縁を掴めず、二人して海に投げ出された。
海に落ちても、澪は耕太の体を放さなかった。ぐったりとして動かない彼を放してしまえば、海の底まで沈んでいくに違いない。
海の中でも、耕太一人を抱えて泳ぐのは難しくない――人魚であれば。
息が苦しく体は重く、下半身を大きく動かしても少しも浮かび上がらない。なぜと自分の体を見下ろす。澪の腰から下に続くのは、尾鰭ではなく二本の細い足だった。
人間になったのだ。
波弥斗が、ものすごい剣幕で耕太に掴みかかり、澪から引きはがそうとしていた。離せと言っているようだが、澪には泡が弾ける音しか聞こえなかった。
澪は更に強く耕太を抱きしめた。彼の腕が抱き返してくることはなかったが、構わなかった。
今度は独りで沈んでいくわけではない。重石をくくりつけられ海に突き落とされた、あの時の悲しみと絶望と苦しみに比べれば、耕太と一緒にいる今は――。
海で死んだ人間は人魚に生まれ変わることがある。耕太と一緒に人魚に生まれ変われたら、今度こそ二人で生きていける。
無数の泡を見上げる彼女に、かつて抱いたような絶望はなかった。
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