第19話

 波弥斗と澪が夫婦になるという話は、長の代替わりの話と共にあっという間に広まった。

 人魚狩りの脅威が去り、人間とこの先も協力し合うという長の決定は、戸惑いがありながらも概ね歓迎された。時代が変わる。長の代替わりと、波弥斗と澪の婚儀は、その象徴だと皆は受け取ったようだった。

「いよいよなのね。死んだ父さんも、きっと喜んでいるわ」

 知らせを聞いた澪の母親は、その日から婚儀に向けた準備をしなければ、と張り切っている。澪が今までもらった髪飾りや、今年捧げられた着物を眺め、どれで身を飾るのがいちばんふさわしいかと、楽しそうだ。

 母親なのに、娘がちっとも嬉しそうにしていないのが分からないのだろうか。

 澪は、浮かれる母を、暗澹たる気持ちで眺めていた。嫌だ。波弥斗の妻になりたくない。これからは堂々と耕太に会いに行けるはずだったのに。

「澪。どこへ行くの」

「息継ぎよ」

 そう言いながらも、澪は海底に沿って尾を振った。このまま何もせずにいたら、波弥斗と夫婦にされてしまう。耕太の作ったかんざしを髪に挿して。

「多江」

 ねぐらを訪ねると、多江はその近くの岩に座ってぼんやりとイソギンチャクを見ていた。

「澪ねえ様……」

 浮かない表情をしている。たぶん、澪も似たようなものだろう。

「あの、ねえ様……」

 多江のところにも、諸々の話は届いているはずだ。たぶん祝いの言葉を口にしようとしているのだろうが、小さな泡がいくつか出てきただけだった。

 澪はそんな言葉はほしくないし、多江に言わせたくもなかった。

「多江……ねえ、お願い。あなたが、波弥斗の妻になって」

「ねえ様……」

 驚く多江の手を取り、澪は顔をのぞき込む。

「多江も『幸せを約束された娘』だから、波弥斗の妻になる資格がある。前にも言ったじゃない。それに、多江は波弥斗が好きなんでしょう」

「……でも、波弥斗にい様は、ねえ様が好きなんだと思う」

「わたしは耕太が好き。叶うなら、耕太と夫婦になりたい。それが無理でも、波弥斗の妻にはなれない」

 ここが海の中でなければ零す涙が見えていただろう。澪は、目頭から熱いものがにじみ出るのを感じていた。

「今ならまだ遅くない。間に合う。多江、お願い」

「……わたしも、叶うなら、波弥斗にい様と夫婦になりたい」

 澪の手を多江が握り返す。

「――佐々ばあ様が、人間になれる薬を持ってる。波弥斗にい様のお母さんは、その薬を飲んで人間になったんだって」

「え」

「ばあ様から、こっそり教えてもらったの。薬のことを教えられた時に」

「誰にも言うんじゃないよ、とも教えたはずだけどね」

 澪と多江は驚いて顔を上げた。佐々がゆっくりとこちらに向かって泳いでくる。

「まったく、困った娘達だ」

「佐々ばあ様。わたし、人間になりたい」

「もうすぐ波弥斗の妻になる娘が、何を言ってる」

「波弥斗の妻には、多江がなるわ。わたしは耕太のところへ行きたいの。ばあ様、お願いします」

 海底まで降りてきた佐々は、さっきまで多江が座っていた岩にもたれ掛かった。

「人間になってもいいことなんてないよ。洲央村の連中を見ただろう。源藤様なんて奴らに支配されて、何かあれば言うことを聞かなきゃいけない。海に落ちたら簡単に鱶の囮食になってしまう。でも人魚は違う。長はいるが、それはまとめるための者であって、支配する者じゃない。この海で自由に生きていける」

「でも、海の中に耕太はいないわ」

「――志乃と同じことを言う。人間になりたがる人魚は、どうしてそうなんだろうね」

 志乃というのが、もしかして波弥斗の母親の名前なのだろうか。佐々は、呆れたような顔をしていたが、やがて真剣な眼差しに変わる。

「多江。お前は、肝心なことを澪にまだ教えていないだろう」

「肝心なこと?」

「人間になれる薬はあるの。でも、人間になると、足を得る代わりに、体のどこかが失われてしまう……」

「どういうこと?」

「人魚が人間になるのは、それは大変なことだというわけさ。薬を飲めば、この尾鰭が足に変わる。それと同時に、何かが失われる。目かもしれないし、耳かもしれない。腕がなくなるかもしれない――飲んでみないと、分からない。志乃は目が見えなくなって、愛しい男の顔を二度と拝めなくなった。それでも、お前さんは人間になりたいかい?」

「わたしは……」

 耕太と初めて会った時、胸が苦しくなるほど嬉しかった。一緒に来るかと聞かれ、迷わずうんと答えた。どうすれば一緒にいけるか、その時はまだ分からなかった。けれど今、その答えが目の前にある。

「わたしは、人間になりたい」

 たとえ、二度と耕太の顔が見られなくても、声が聞こえなくても、一緒に生きていけるのならば、澪はそちらの道を選ぶ。もはやこの海の中で澪が幸せになるすべはないのだ。

「そう言うと思ったよ」

 佐々がゆっくりと身を起こして、ふわりと尾を振る。

「おいで。二人とも」

 ねぐらを離れ、佐々は更に深いところへ潜っていく。そこは、昼間でも薄暗く、海流が強かった。佐々に言われ、澪と多江は、海底に転がる岩の一つを動かした。その下に小さなくぼみがあって、色とりどりのヒオウギガイが並んでいた。こんなところにヒオウギガイが生息しているはずがないので、佐々が入れたものなのだろう。

 その一つを拾い上げると、澪に差し出した。

「この中に入っている薬を、すべて飲み干すんだ。そうしたら、お前は人間になれる」

「ありがとうござ――」

 受け取ろうとすると、佐々はさっと引っ込めてしまった。

「呑む場所に気を付けな。人魚じゃなくなるんだから、いいね?」

「はい」

 再び差し出されたそれを、今度こそ受け取る。真っ赤なヒオウギガイだった。

「さて、それじゃあ長のところへ話を付けにいこうか、多江」

「今から?」

「早ければ早い方がいい。波弥斗を納得させるのに、少々時間がかかるかもしれないがね。いいね、多江」

「はい」

 多江が、いつになく力強い声で頷いた。

「そうとなったら、澪はさっさとおいき。波弥斗に見つかる前にね」

「佐々ばあ様……ありがとうございます。多江も、ありがとう。人間になっても、みんなのことは忘れないから」

「ふん。人間になるんだ。海の中のことなんて忘れて、せいぜい陸で幸せになるがいいよ」

「ねえ様。元気で」

「多江も。幸せにね」

 今更になって、彼女に押し付けてしまったという後悔がよぎる。波弥斗はきっと怒るだろう。それで、多江も波弥斗も、傷つくことにもなるだろう。だけど、もう決めたのだ。多江も腹を括ったような顔をしている。

 澪と多江はしっかりと抱き合うと、それぞれ向かうべきところへ向けて、力強く体をしならせた。


 あの日以来、耕太と会っていなかった。

 婚礼の準備があると母に引き留められるし、波弥斗や友人達が訪ねてくるので、いつものあの場所へ行けなかったのだ。

 耕太は今日も来ているだろうか。波弥斗と澪の婚礼があると聞いても、まだ待ってくれているだろうか。

 不安を抱きながら、澪は大きく尾を振った。耕太は諦めて、もう来ないかもしれない。そうだとしても、澪が諦めなければいい。人間になって、耕太に会いに行けばいいのだ。

「耕太――!」

 見覚えのある船底が浮かんでいた。澪はいっそう早く泳ぎ、海上へ飛び出しそうな勢いで顔を出した。

「澪?」

 大きな水音で、舟に手をかける前に耕太が気付く。

「耕太。良かった、またここへ来てくれて」

「澪……」

「引き上げて。早く」

 貝を持ったまま手を伸ばす。耕太がすぐに引き上げてくれた。

「耕太。わたし、人間になるわ」

「澪。波弥斗と夫婦になるんじゃ……」

「ならない。わたしは耕太と夫婦になるの。一緒に来るかと言ってくれたでしょう? わたしは、耕太と一緒に陸へ行きたい。連れて行って」

「本当に、人間になるのか?」

「ええ。そのための薬をもらってきたの」

 澪は握りしめていたヒオウギガイを耕太に見せる。

「これを飲めば、人間になれる――」

「だが、その代わり、体のどこかが失われる。そうだろう?」

 耕太の大きな手が、ヒオウギガイごと澪の手を包み込む。

「……知っていたの?」

「洲央村に、人間になった人魚がいる。彼女から聞いた」

「それって、もしかして――」

「澪。俺も、澪と一緒になりたいと思っている。だけど、体のどこかを失ってまでして人間になってもいいのか、ずっと迷っていた。今もそうだ。それで本当に、澪が幸せになれるのか……」

 人間になると聞けば、耕太は手放しで喜んでくれると思っていた。けれど彼は今、苦しげな表情をしている。

「……わたしは、海の中では幸せになれないの。耕太と一緒じゃないと、幸せとは思えない。たとえ、体のどこかが失われてしまっても」

 澪のことをそれだけ考えてくれているのだ。そう思うだけで、胸がいっぱいになる。

「分かった――一緒にいこう、澪」

「うん」

 濡れそぼった体のまま、澪は耕太に抱きついた。耕太も、衣に海水がしみこむのに構わず、強く澪を抱きしめた。

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