第18話

 耕太と会う日の朝、澪のねぐらに波弥斗がやって来た。手の甲からは、もう血は流れていない。

「波弥斗。朝から、どうしたの」

「今日、また耕太達と会うだろう。俺は護衛だからな。ついて行く。親父もそうしろと言っていた」

 澪は一人で行くつもりだったが、長も言うのであれば仕方がない。それに、あの日の波弥斗の活躍を思うと、むげに断ることもできなかった。

 いつもの場所へ行くと、舟はもう来ていた。見覚えのある小さな船底だ。

「気をつけろよ、澪。あの舟に若様とやらが乗っていないとも限らない」

 それは心配のしすぎだし、耕太達洲央村の人間を信用していないことになるのではないかと思ったが、澪は黙って頷いた。あれから、人間達の間でどういう話し合いがあったのか、なかったのか。それすら分からないのだ。

 そうっと海面から顔を出して、舟を見上げる。見覚えのある後ろ姿と、その向こうに、もう一人いるのが分かった。それ以上はいないようだ。

 縁に手をかけると、耕太が振り返った。

「澪。良かった、無事だったんだな――波弥斗も、無事そうで良かった」

「来たか。待ってたぞ」

 もう一人は、平蔵だった。二人とも、嬉しそうな表情をしている。

「もしかして――」

「ああ、うまくいったよ。若様は、あの日のうちに帰ると言ってな。次の日にはさっさと引き上げていった」

 澪は波弥斗を見た。波弥斗が嬉しそうな表情を浮かべている。

「お前達のおかげだ。特に、波弥斗。本当に、鱶を操っているように見えたぞ」

「あんた達も、うまい具合に若様を海に落としてくれたな」

「人聞きが悪い。誰かが舟を揺らすから、勝手に落ちたんだ」

 肩をすくめる平蔵に、耕太が笑う。波弥斗も笑っていた。

「お前達人魚のおかげで、俺達がおとがめを受けることもなく、若様が人魚狩りを諦めてくれた。礼を言う。宇潮どのにもよろしく伝えてくれ」

「……時間はあるか。あるならば、親父を呼んでくる。直接礼を伝えたいと言っていた」

「それは、こちらもぜひ、直接会いたい。頼むよ」

「すぐに戻る」

 波弥斗はそう言うと、すぐに潜った。今日は、澪についてこいと言わないのかと、驚いてしまう。

 今回の騒動で、波弥斗の中で何かが少し変わったのかもしれない。

 ただ、残されても耕太と二人きりというわけではなく、平蔵がいるので、何となく話が弾まない。平蔵は、あまり澪を見ようとはしなかった。

 波弥斗がおびき寄せた鱶をその後どうしたのか、耕太に聞かれて答えているうち、波弥斗が長と共に戻ってきた。

「諦めて帰ったそうだな。今回は、本当に世話になった。これからまた安心して暮らせる。天ヶ内人魚の長として、皆の分まで礼を言わせてくれ。感謝している」

「礼を言うのはこちらの方だ。澪と波弥斗のおかげで、もくろみ通りに若様を追い返すことができたんだからな。ありがとう」

「礼というにはささやかだが、今後、漁師達が海に落ちて難儀していたら、我々人魚が助けに行く。不漁の時があれば、できる限りの手助けをしよう。海を操る力はないがね」

「人魚は人間と交わらないのが掟だったんじゃないのか?」

「交流があれば、同じようなことがまた起きた時、また力を合わせることができる。それに、今までは供物を受け取っているばかりだったからな。その恩も返さねばなるまい」

 同意を求めるように、長は波弥斗と、そして澪を見る。長の意外な言葉に澪は驚きつつも、大きく何度も頷いた。波弥斗は、長からあらかじめ聞いていたのか、以前のように反対を口にすることはなく、驚いた顔もせず、黙って父親の言葉に同意した。

「いずれ長の地位は波弥斗が受け継ぐ。波弥斗が長になってからはもちろん、その次の代になっても、その次の代になっても、助けると約束しよう」

「分かった。俺達も、約束する。供物はこれからも捧げるし、何か困ったことがあれば、頼ってくれ。力になる。この先、代々に渡って」

 約定を交わす二人の長を、澪は信じられない思いで見ていた。

 人間と交流しても良い。そんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。感無量である。これからは、誰にはばかることなく耕太と会っていいのだ。

「跡継ぎが?」

「ああ。まだ小さいのでつれてきていないが、あんたの息子のように、勇敢な男に育つのを願っているよ。いずれ、会わせよう」

「次の長同士、早めに顔を合わせるのも悪くない――いや、もうそろそろ波弥斗が跡を継ぐ時期か。今回の活躍で、皆も安心しただろう」

 すると、長は波弥斗と、そして澪の顔も見回した。

「いい時機だ。お前達の婚儀も行わなければな」

「波弥斗と澪が夫婦になるのか。それならば、祝いの品を用意しよう」

 違う。澪は声を上げようとしたが、言い出せる雰囲気ではなかった。平蔵はにこにことしているが、耕太の表情は凍り付いていた。

 開いたと思った未来が、いきなり閉ざされてしまった。澪は、暗く冷たい海の底に沈んでいくようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る